1 無光堂の盗人①
――最近、無光堂に蛹石泥棒が出るのですって。
凪いだ濃紺の空に細い月が浮かぶ晩。雅な都の鄙びた一角で、遠く野犬が鳴いている。
夜更けまで宴を催す貴族たちの邸宅街からは遠く離れた都の外れ。牛に引かせた網代車が、時折悲鳴じみた軋みを上げつつ進んで行く。
――泥棒って……無光堂に供養されているのは、光らなくなってしまった蛹石でしょう。
――穢らわしい。死者の魂を盗んで何になるというのかしら。
牛車の簾を透かし、濃密な夜の闇を睨む凜とした瞳がある。それを囲むのは、涼やかな印象の切れ長の眼。目頭から続くのは、小ぶりながらも筋の通った鼻梁である。怜悧な顔立ちながら、紅を乗せた唇はぽってりとしていて愛嬌がある。
まだ若い娘だが、珍しいことに、本来男性の装束であるはずの狩衣を纏っている。とはいえ、男装を意図したものではない。
中流貴族の娘として生を受けたにもかかわらず、宮仕えの絢爛な唐衣裳でも内輪の場に相応しい上質な小袿でもなく活動的な衣を纏うのは、これが彼女の仕事着であるからだ。
――恐ろしいわ。
――そのようなことをするのは間違いなく、下賤の輩ね。いったいどんな呪詛に使うつもりなのかしら。
――仕事とはいえ、女の身ながらそんな場所に行かなければならないなんて、綾埜様も哀れなこと。
――お父君が魂蝶頭の旧知だからって、雑務を免除にはならないわよねえ。ああ、私には羽化師の才能がなくて本当によかったわ。
「羽化師殿。無光堂に着きましたよ」
牛車を導く牛飼い童が寒そうに声を震わせながら言うのと同時。牛が足を止め網代車が揺れる。
簾越しに先導の松明の揺れをじっと見つめていた綾埜は我に返り、狩袴の皺を払った。
「ご苦労様。今出るわ」
狭い車の中に自分の声が反響すると、脳内で反芻されていた、やんごとなき姫君たちの悪意あるささやき声は霧散する。
(あんな噂話、気にする必要はないわ)
足場である榻へと爪先を下ろす。ふわり、と粉雪が足の甲に舞い降りて溶けた。吐息が白い。牛飼い童の掲げた松明の朱色が、石ばかりが積み重なる寒々とした一帯を、淡く照らし出している。
「あなたはここで待っていて頂戴」
「へえ」
牛飼い童と呼ばれ元服前の装いをしているとはいえ、彼は初老に差し掛かる年代の男である。年若い娘の綾埜がこのような夜更けに一人でお役目を仰せつかっていることを哀れに思ったのか、闇に沈む無光堂の方角を気遣わしげな目でちらちらと見遣っている。
綾埜は男から松明を受け取り、もう片方の腕には葛籠を抱え、気丈な足取りで魂の墓場へと踏み入った。
おどろおどろしい空気が漂っている。恐れがないわけではない。現に、身体の奥底から、微かな震えが込み上げてくる。
しかし怯えてなどいられない。綾埜は半年ほど前に念願叶い、死者の転生を促す羽化師の卵として、魂蝶寮の学生となったばかり。今や、実務に就きながら研鑽を積む身である。これは、避けては通れない重要な仕事なのだ。
綾埜は凍るような空気を裂いて、不気味に石が積み上げられた道を行く。やがて前方に、しんと静まり返る御堂が見えた。
両開きの扉は、堅牢な錠で封じられている。綾埜は腰にくくりつけた紐をたぐり寄せ、蝶の形状をした鍵を穴に差し込んだ。その途端、鍵がぼうっと薄紫色の燐光を放ち、かちりと音を立てて錠が外れた。
軋んだ音を引きつれて、扉が開く。堂の内部からは、供養香の甘酸っぱい香りと古びた家屋の匂いが押し寄せた。ごくりと唾を呑み、緊張の面持ちで、いっそう暗い堂内へと進む。
最奥に、祭壇がある。燈台に火を灯すと、燃え切らなかった線香の乱立が淡く照らし出される。魂の羽化を司る神仏の木像は、湿気のせいか部分的に黒く変色していた。室内の清掃こそ行き届いているものの、全てが古く、修繕された痕跡は久しくない。
これが、光を失い二度目の……永劫の死を迎えた魂たちの墓場。何と哀れなものだろう。
綾埜は軽く唇を噛み、胸に去来する複雑な感情の帯をやり過ごし、責務を淡々とこなすことだけに意識を向けた。
運んできた葛籠を包んでいた布を剥がす。蓋を開くと、こぶし大の白茶けた石の山がそこにある。これが蛹石。命を終えた人間の魂が肉体を離れた姿である。
顕現したばかりの頃は、いずれの蛹石も来世への希望の光を放ち幻想的な薄紫色を帯びていたはずなのだが、今やただの遺骨のように沈黙している。
綾埜は事前に教わっていた通りの手順で、御堂の壁面に作られた小さな抽斗の中に、長箸を使って蛹石を納めていく。
不気味さが時の感覚を狂わせているようだ。だいぶ長い時間をかけた心地で半分ほど供養を終えたところで、異変があった。
どん、と御堂の内部で何かが動きぶつかったような音がした。突然のことに小さく悲鳴を上げて身体を震わせた拍子に、長箸が抽斗の内側を打ち、手元が狂って箸を取り落としてしまう。
からん、と軽い音がする。綾埜の顎の辺りにある抽斗は、かなりの深さがある。背伸びをして覗き込んでも、長箸は影も形も見えない。
先ほどの音は何だろう。耳を澄ませて辺りを見回すが、動くものはない。小型の獣が走ったのだろうか、それとも家鳴りのような現象だったのか。
綾埜は身震いしてから、まだ蛹石が残っている葛籠の中に布を押し込むと、無造作に抱えて堂を出た。長箸の予備は牛車にある。そうでなくとも、一刻も早く誰かの側に戻りたかった。
ほとんど飛び出すようにして扉を閉める。錠に鍵を挿すと再び薄紫色の光が灯る。やがてそれも闇に散って消え、辺りには再び暗くなった。
当然だが、光を発する物は、綾埜が手にした松明しかない。……はずなのだが。




