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『その手を言葉にできたら』 ― 行動でしか伝えられない彼女と、言葉でしか繋がれない彼 ―  作者: 南蛇井


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春 ――触れ合う言葉(3月)

三月の午後、窓の外では、淡い桜色がほころび始めていた。

冷たい風はまだ残っているのに、光の粒だけがやけに柔らかく、金色の午後を教室に流し込んでいる。


黒板には、チョークで大きく書かれた「ありがとう」の文字。

机の上には寄せ書きの紙や文集の原稿が散らばり、ページの隙間から春の匂いが滲んでいた。

誰かが笑いながら教室を出ていく。ドアが閉まるたび、ざわめきは少しずつ遠のき、最後に残ったのは、紙をめくる音と、夕陽に焼けた静けさだけだった。


透は窓際の机に腰を下ろし、新聞部の文集原稿をまとめていた。

指先で文字を確かめるように、ゆっくりとペンを走らせる。

ページの見出しには、迷いのない筆致でこう書かれていた。


「言葉は、手のようなものだ。」


書いてから、一度ペンを止める。

その一行にこめた想い――言葉は、誰かに触れるためのもの。

届かないと嘆くより、差し出すことを恐れないための手。

そんな意味を、彼はそっと心の奥に重ねていた。


窓の向こうでは、風が枝を揺らし、まだ咲ききらない花びらをほんの少し散らす。

透はその光景を見つめながら、ゆっくりと息をついた。


もう迷いはなかった。

言葉は、嘘にも盾にもならない。

ただ――誰かの心に触れるための、小さな祈りのようなもの。


その静けさの中で、彼の眼差しは、春の光と同じ色をしていた。



放課後の光は、やわらかく校舎を包んでいた。

窓の外では、春風に混じって花びらが舞い、陽射しの粒が床の上でちらちらと跳ねる。


奏は教室の机に座り、手元の文集を静かにめくっていた。

ページの端に書かれた一文が、ふと目に留まる。


「言葉は、手のようなものだ。」


その言葉が、胸の奥で小さく息をするように響いた。

指先が、ページをなぞる。

まるでそこに“触れられた”ような感覚――あの冬の沈黙の中で、何も言えなかった日々が、少しずつ温かくほどけていく。


気づけば、鞄を持っていた。

誰に告げるでもなく、ただ何かに導かれるように校舎を出る。

春の風はまだ冷たく、けれどその中に“始まり”の匂いが混じっていた。


――坂を下り、街を抜け、あの滝へ向かう。


雪解け水の流れる音が近づくにつれ、胸の奥の記憶も鮮やかに蘇る。

かつて冬の夜、二人で立ち尽くしたあの場所。

今はもう、白ではなく、緑と光が満ちている。


滝の水面は春の陽を受けてきらめき、鳥の声が遠くから響く。

氷の静寂は溶け、代わりに“生きている音”がそこにあった。


奏は一歩、また一歩と近づく。

そのとき――滝の前に、ひとりの姿が見えた。


透だった。


彼もまた、同じ想いでここへ来たのだと、言葉より先に分かった。

二人の視線が、光の中でゆっくりと交わる。


もう“沈黙”は必要なかった。

互いの表情が、それぞれの季節を越えてきたすべてを語っていた。


今度の再会は、“終わり”ではなく、“言葉を始めるための再会”。

春の滝の音が、二人の間でやわらかく鳴っていた。



滝の前、春の風が静かに吹き抜けていた。

光の粒が舞い上がり、桜の花びらがふたりの間をゆっくりと漂う。


透は、少し息を整えてから奏の方へ向き直った。

その瞳には、もう迷いがなかった。


「……言葉にしないと届かないことがある。」


穏やかな声。

それは、冬の夜に途切れた言葉の続きをようやく見つけたような響きだった。


奏はその言葉を受けとめながら、小さく首を振る。

けれど、その表情はどこか柔らかい。


「でも、言葉だけじゃ届かないこともあるよ。」


一瞬、風が止んだ。

そして――ふたりは、同時に笑った。


その笑いは、かつてのすれ違いを優しく抱きしめるような笑いだった。

“誤解”も、“沈黙”も、すべてを赦して溶かしていくように。


透は一歩、近づいた。

ためらうことなく、奏の手を取る。


指先が触れた瞬間、春風がまた吹き抜けた。

桜の花びらがふわりと舞い上がり、ふたりの手を包み込む。


滝の音が遠くで響いていた。

それはもう、かつて耳を塞ぎたくなった“雑音”ではない。

今は、まるで――言葉そのもののように、自然で、穏やかに流れていた。


透が、少し照れたように笑いながら言う。


「……だから、一緒に考えていこう。どう伝えたらいいか。」


奏も、その手を握り返して答える。


「うん。ちゃんと、言葉でね。」


ふたりの間に、もう沈黙は恐れではなく、やさしい余白として残った。

滝の音が、それを静かに祝福するように流れ続けていた。


滝の前に、春の光が降り注いでいた。

雪解けの水が勢いよく流れ、しぶきが細かな粒となって空気に散る。

その粒が陽光を受け、やがて淡い虹の輪を描いた。


透と奏は、手をつないだままその光景を見つめていた。

手のぬくもりが、確かに互いの存在を伝えている。

もう、何かを言葉にしなければと思う必要もなかった。


静かに、奏が口を開いた。


「……もう、滝の音が言葉みたいに聞こえないね。」


透は少し目を細め、頷いた。


「うん。たぶん、もうちゃんと届いてるから。」


その一言が、春風に乗ってやさしく溶けていく。

滝の音も、風の音も、もう“沈黙”ではなかった。

それらすべてが、世界が語る“ひとつの声”のように響いていた。


水面には、春風に揺れる桜の花びら。

ひとひら、またひとひらと流れていくその軌跡は、

まるで再び生まれた言葉が、静かに世界へ流れ出していくようだった。


――奏は、透の手を見つめる。

その手はあたたかく、かつて自分が求めていた“言葉”そのもののように思えた。


そして、心の奥でゆっくりと語り始める。


「言葉は、やっと手になった。

 触れるために、つなぐために――

 私たちは、ようやく話しはじめた。」


風がふたりの髪をやさしく撫で、虹の輪が淡く消えていく。

けれどその消えゆく光の中に、“言葉のかたち”が確かに残っていた。


――春の滝が、ふたりの新しい声をそっと抱きしめていた。


滝の音が、春の風に溶けていく。

水面をすべる光がゆるやかに揺れ、ふたりの影を包み込む。

指先に残るぬくもりが、まだ離れない。


世界は、もう冬の静寂ではなく、

“言葉の息づく季節”へと変わっていた。


奏はそっと目を閉じ、透の手をもう一度握る。

滝の音が遠ざかる。

それは、ひとつの物語が静かに息を引き取る音。

けれど、同時に新しい言葉が芽吹く音でもあった。


――光の粒が舞う中、画面あるいはページに文字が浮かぶ。


『第五章:春 ――触れ合う言葉』


その文字がゆっくりと溶けていく。

しばらくして、春風の音だけが残る中――

もう一行、やさしく現れる。


終章タイトル:『その手を言葉にできたら』


滝の音が、まるで“幕を閉じる呼吸”のように遠くで響く。

やがて風が止み、光が残る。


そして物語は、春の光の中で静かに――終わった。

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