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5.締め:風と余韻
柚希が時計を見て、手にしたパンを軽く振った。
「ほら、パン冷めちゃうよ。行こ、奏」
「うん……」
奏は立ち上がりかけて、もう一度だけ透のほうを振り返った。
「……また、ここにいるんですか?」
透は本を閉じて、少しだけ目を細める。
「たぶん。風が気持ちいいから」
その言葉は冗談めいていながらも、どこか確かな響きを持っていた。
奏は小さくうなずく。
「……そうですね」
彼女が歩き出すと、春の風がふいに強く吹いた。
枝の先に残っていた桜の花びらが一斉に舞い上がり、
透の膝の上に開いた本のページへ、一枚が静かに落ちる。
透は指先でそれをそっと押さえ、目を細めた。
(彼女の笑い声が、風に混ざって残る)
遠ざかる背中を見送りながら、ページの上で淡い花びらが揺れる。
一方、奏の胸の奥では、なにか柔らかいものが広がっていた。
(この人は、“静けさ”の中で、ちゃんと世界を見ている――)
昼下がりの風が、まだ少し春の匂いを残して通り抜けていく。
その中で、二人の間に生まれた小さな気配だけが、確かに残っていた。




