15/94
4.象徴シーン:黒板を拭き終える
透は黒板消しをそっと置いた。
布の擦れる音が止まり、教室の空気が静止する。
真っ黒になった黒板の表面には、わずかな水跡が線のように残っていた。
夕陽の光がそこに反射して、細い金の筋が浮かび上がる。
さっきまで言葉で満たされていた場所が、いまは何も書かれていない。
それでも、なぜか“満たされている”ように見えた。
奏は手を止め、その光景を見つめながら小さく言った。
「きれいになりましたね」
その声は、春の風みたいにやわらかく透に届く。
透は黒板に視線を残したまま、少しだけ口元を緩める。
「うん。なんか、これから何か書けそうな気がする」
黒板の奥に、これから始まる日々の気配が透けて見えるようだった。
その言葉に、奏は思わず顔を上げ、透の横顔を見た。
窓から差す光が彼の頬を照らし、睫毛の影を長く伸ばしている。
頬のあたりに反射した夕陽の色が、ほんの一瞬、彼の輪郭をやさしく包む。
胸の奥が、かすかに熱を持った。
それが何の感情なのか、まだ言葉にはできない。
ただ、心のどこかで確かに芽吹くものがあった。
(――この人の“静けさ”は、嫌いじゃない)
その想いが、春の光の中でそっと根を張りはじめた。




