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『その手を言葉にできたら』 ― 行動でしか伝えられない彼女と、言葉でしか繋がれない彼 ―  作者: 南蛇井


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「新しい教室、静かな出会い」 時期:4月上旬(始業式の朝) 1.朝の空気:始まりの匂い

「朝の空気:始まりの匂い」


春の朝、開け放たれた窓から、まだ冬の名残を含んだ冷たい風が吹き込んでいた。

斜めに差し込む光が黒板をかすめ、粉のような金の線を描いている。

その中を、花粉とチョークの白い粒子がゆっくりと漂い、教室全体が淡い靄に包まれて見えた。


「席替え、どこだっけ?」「あ、隣だー!」

笑い声が飛び交い、机の脚が床を擦る音がリズムを作っていた。

始業式のざわめき――新しい関係の始まる匂いがする。


佐伯透は、そのざわめきの中心から少し距離を置くように、

教室の一番後ろ、窓際の席に腰を下ろしていた。

風がカーテンを揺らし、日差しの中にほこりの粒を踊らせる。

手元には、折り畳まれたクラス名簿。


(……また知らない名前ばかりだな)


小さくため息をつきながら、透は視線を滑らせていく。

ページの下、整った筆跡で書かれた「藤原奏」という文字で、指先が止まった。

どうということもない名前なのに――

その“音の並び”に、なぜか耳が反応した気がした。

やわらかく、短く響く。春の空気によく似ている。


(ふじわら……かなで、か)


無意識に、その文字をもう一度目でなぞる。

ほんの一瞬の間、胸の奥で何かがかすかに鳴ったような気がしたが、

透はその正体を確かめようとはせず、静かにページを閉じた。


教卓の前では女子たちが名簿を囲み、明るい声で笑っている。

窓の外では、桜が風に散り、校舎の屋根の上を流れていった。


透はぼんやりとその光景を眺めながら、

心の奥に浮かんだ“名前の残響”を、

まだ意味のない音のまま、胸の中に留めていた。

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