第9話 見知らぬ婚約者
翌日-
「姉上ー!」
「おはよう、レオン。今日も元気いっぱいね?」
「おはようございます、姉上!今日もしっかりとお護りしますね!」
「ふふっ。ありがとう、レオン。」
今日も元気なレオンの声から一日が始まる。
本当に懐こくて、可愛らしい弟。名前が少し胸にグッとくるけれど、
私が自分で決めたんだから、仕方がない。
そう思いながら、今日も一緒に朝食室へ向かい、家族みんなで朝食を囲んでいた。
戻った記憶と、まだ開かれていない記憶とで困ることも多いけれど、
周りの人たちがとても良い人ばかりで、助けてもらいながら何とか学院生活を送れている私。
今度の休みには、ミレニスおじい様にレオンのことを詳しく調べてもらう予定だし、
今はなんだかとても落ち着いていた。
そんなことを考えながら朝食を終え、少し談笑していた時だった。
お父様が、思い出したかのように私に言った。
「リオラ。少し遅れたが、今日からお前の婚約者のセリオン殿下の通学が始まると聞いたが、事前に連絡は取り合っているのかい?」
「へ?こ・ん・や・く・しゃ…?」
「そうだ。セリオン殿下だよ。学院での再会に向けて、連絡を取り合っていたんじゃなかったのか?」
「婚約者…ええっと…その…」
お父様の口から突然“婚約者”の話題が飛び出し、
お茶を飲んでいた手が思わず止まった。
何それ、婚約者って。誰のこと?
しかもセリオン殿下って誰よ。王族…?
記憶がまったく戻っていない私は、若干パニック状態でしどろもどろになりながら俯いた。
すると、そんな私を気遣ってくれたのか、話を聞いていたミントが駆け寄り、お父様に頭を下げた。
「申し訳ございません、旦那様!ここのところ殿下もお忙しく、書状のやり取りは滞っておりました。
本日より生徒に復帰されるとの一報は今朝方、セリオン殿下から届いたばかりでございます。」
「そうか。殿下は無理がたたり、療養していたという話も聞く。
しっかり支えてあげなさい。いいね?」
「は…はい、お父様。」
ミントのフォローのおかげで、なんとか場は収まった。
私はそっとミントに目くばせをして「ありがとう」と伝えた。
そして、何も分からないまま朝食室を出て自室に戻った私は、すぐさまミントに謝罪した。
「ミント、ごめんなさい!わたくし、全然覚えがなくて…
セリオン殿下からの書状、今朝届いていましたっけ?」
「いいえ。実はまだ届いていないのですが、あの場ではそう言っておかないと、
リオラお嬢様がお叱りを受けると思いましたので…。
勝手なことをして申し訳ございません。」
「そうでしたの?ミント、優しすぎますわ!もう謝らないで!
悪いのはわたくしなんですから!」
書状が届いていたか確認すると、ミントはあの場を収めるために小さな嘘をついてくれていたことが判明した。
私のために嘘をついてくれるなんて、優しすぎて泣いちゃう…!
そう思いながらミントに謝罪し、改めてセリオン殿下のことを思い出そうとしたけれど、顔すら浮かばず、困ってしまった。
「セリオン殿下って…」
「そういえば、お嬢様はいつも綴られている日記には、殿下のことは決して書かれませんでしたね。
確か、最初の頃はお書きになっていたようですが、ある時から書くのをおやめになって、“捨てて”と仰っていました。ですが、また必要になるかもしれないと思って、取っておいたんです。」
「あ…それ…見たことある…」
出発まで時間もないし、考えても思い出せない。
そう諦めかけていた時、ミントが普段使っている日記帳とは別に、殿下のことを書き記していた日記帳があると教えてくれた。
いつからか、私はなぜか書くのをやめて、ミントに捨てるように指示していたらしいけど、ミントは「また必要になるかも」と思って、そっと保管してくれていた。
そして、いつもあまり開けない棚の引き出しから、一冊の日記帳を取り出してくれた。
その日記帳を見た私は、何となく見覚えがあり、少しだけ、読んでみることにした。
「えーっと…8歳で婚約…8歳?!」
日記に書かれていたのは、
昔から私は王族との結婚が決められていたようで、8歳の時にこの国、ギルティス帝国の第二王子セリオン殿下との婚約が決まったらしい。
当時の日記には、セリオン殿下は同い年だけれど、どこか大人びていて、とても優しくしてくれたと書かれていた。
ただ、少し顔色が悪かったとも記されていて、もしかしたら病弱な体だったのかもしれない。
それからも、日記はぽつぽつと続いていたけれど、15歳になった時を最後に、書くのをやめていた。
最後のページには、
「あの人の笑顔が大嫌い」
そんな言葉が残されていて。
もしかして、大きな喧嘩をして、そのまま疎遠になった…?
そんなわけじゃないよね…?と、不安が胸をよぎった。
記憶が戻る前の私、一体何をしたの…?
そう焦りながら、ひとまず日記を閉じて机の上に置き、部屋をあとにした。
よく分からないけれど、その殿下とやらが今日から学院にやってくるんだよね?
でも、顔も知らないじゃない。会っても分からない可能性が…
あ、でも王族ともなれば、女の子たちがキャーキャー黄色い声をあげてるかも?
それなら、すぐに分かるかもしれない。
なんて一人で考えながら、私はレオンと一緒に馬車に乗り込み、学院へと向かった―…
◇
学院に到着した私は、何とか気持ちを落ち着けながら教室へと向かっていた。
幸いなことに、いつも通り早く来たおかげで、私とミカミ以外はまだ誰も来ていなかった。
「おはよう、ミカミ!ねぇ、聞いて!」
「おはようございます、リオラさん。どうされたのですか?
何だかとても嫌なことがあったような表情をされていますが…」
「今朝、お父様から“婚約者”って言葉が飛び出したの!お茶を吹くかと思った!」
「ああ、第二王子のセリオン殿下のことですか。もしや、記憶が…?」
教室にミカミしかいなかった私は、すぐさま“婚約者”という存在について相談した。
ミカミはセリオン殿下のことを知っているようで、すぐに名前が出てきた。
そして、私がその人の記憶を失っていることにもすぐ気づいてくれた。
「そうなの!もう全然覚えてなくて!
侍女のミントから昔の日記を読ませてもらったんだけどね、“大人びていて優しかった”とか、もう幼稚園児が書くような感想文で訳分かんなくて!
しかも顔写真とかないから顔も分かんないし…
なぜか“笑顔が嫌い”って書いてあって、それ以降は日記もやめてたのよ…
私、その殿下と何か揉めたのかな?」
「なるほど…そうですねぇ…。特に揉め事はなかったかと思いますよ。
あと、殿下はいわゆる“イケメン”と呼ばれる顔立ちですね。
金髪の男性アイドル…若手俳優のような雰囲気でしょうか。」
「え?そんなにイケメンなの?」
日記を読んでも何も手がかりが得られなかったこと、顔も知らないこと、そして何か揉めたかもしれない不安を伝えると、
ミカミは少し考えたあと「揉めてはいないと思う」と言い、殿下の顔立ちが“若手俳優級”だと教えてくれた。
ミカミから見てもイケメンということは、相当整った顔立ちなんだろうな…。
「女子はこぞって猛アタックしていましたよ。まだ正式な発表はされていないとはいえ、リオラさんが婚約者だというのに。」
「へぇ…。でも私、いらないよ。勝手に決められた婚約者なんて。」
「まぁ…そうでしょうね…。そこが転生者としての葛藤になるでしょうねぇ…。」
「嫌だなぁ…どうにかして解消できないかなぁ…
それこそ略奪とか、全然してくれていいんだけど…」
その立場と見た目の良さから、女子生徒たちはこぞってアピールしていたと教えてくれたミカミ。
ぶっちゃけ、それで破談になってくれても構わないと思っていた私。
それを伝えると、ミカミは少し苦い顔をして、こう言った。
「分かりますぞ、リオラさん。
しかし、殿下とのご婚約は、王家という“本社”と、アステリア公爵家という“主要取引先”が結んだ、国家レベルの重要契約みたいなものですからねぇ…。
これを一方的に破棄すると、王家からの信頼は文字通り地に落ちます。
王家の後ろ盾を失った公爵家は、他の貴族たちからの攻撃の的になるでしょうな。
帝国を支える二大柱のバランスが崩れ、政情不安が起きれば、真っ先に公爵家が責任を負わされることになります…」
「それも嫌だなぁ…家族に迷惑をかけるのはダメだよね…
でも、嫌だよねぇー…」
ミカミはこの世界に長くいるおかげで、私よりもずっと詳しい知識を持っていた。
そんな彼に婚約破棄のリスクを説明され、私は家族に迷惑をかけることはしたくないなと、ため息を吐いた。
そして、ミカミは“略奪愛”のリスクについても教えてくれた。
「それに、我々がいた世界での略奪と、こちらの略奪ではリスクの大きさが違いますからね。
仮に彼女たちが成功し、殿下のお気持ちを得たとしても、
リオラさんのお父様、公爵家が彼女の家を潰しにかかります。
何しろ、アステリア公爵家の顔に泥を塗ったのですから。
王家との約束を破棄させた家として、彼女のご実家は経済的に、社交的に、徹底的に干されるでしょう。
たとえ殿下と結ばれても、一家は崩壊です。
つまり、殿下にアタックする行為は、家を捨てる覚悟の“自殺行為”に等しいのです。」
「ええ…?そこまで…?」
「そうなのです。権力争いの世界では、感情など、優先順位は最下位ですからね。」
「嫌な世界だよね…」
「心中お察ししますぞ…」
「ううっ…」
略奪愛は、私が思っていた以上に“人生終了”レベルのリスクがあると知った私は、
漫画みたいに略奪されることはないんだなと悟った。
ということは、私はどうにかして、セリオン殿下のことを好きになる努力をしなきゃいけないんだろうな。
この世界の人たちみたいに、割り切って結婚するなんて絶対無理!
そう思いながら、私はミカミにそっと慰められていた―…




