6ボタン ジーニアス、彗星より
今日もいつもの電子的な喧騒に囲まれて、あの日の設定に再挑戦している。
なぜか、このフック設定に苦戦した記憶を未だに引きずっていて、揺れるフックから目を離すことができずにいた。
規則的な揺れが心を惑わせる振り子のようで、いつのまにか暗示をかけられているような感覚。
黒髪のあの子がふと笑った顔、そして消えるように去っていった背中は、今でもやけに鮮明に脳裏に残っている。
あの日からこの設定は、何度やっても周期が掴めなくなっていた。
一度ズレれば、フックは空を切り、宙に逃げていく。
──今、これを取れたら、彼女はどんな反応をするだろうか。
ぼんやりと思考の沼に沈んでいると、視界の端に見慣れた姿が映った。
こんな惨状は、自分のせいじゃないと誰かに証明してほしかった。
「未来さん、このフック設定って何か変えました?」
「変えてないよ」
返ってくる返事はいつもより乾いて冷たい。
気のせいかもしれないが、いつもより語尾に棘がある。
「そういえば、この前いた女の子ってよく来てる?あの黒髪ボブの…」
未来さんの目が、スッと細められた。
背筋がゾワッとする。
俺はすぐに言い訳しようとするが、未来さんの視線は動かず、ただじっと俺を見つめている。
「ふーん…黒髪ボブで可愛くて…なんだか気になって、夜も眠れなくなってしまう子かー」
「そこまでは言ってない!」
慌てて否定すると、未来さんは口元を緩める。
それは、笑っているようで、瞳は何も映していない。
「…君さ、誰とここに来ようと君の勝手だけど」
一拍置いて、未来さんは真っ直ぐに俺を見据える。
「誰かが悲しむのは許さないよ」
それが何を伝えたいのか、はっきりわかった。
最近の俺を見れば、一言言いたくなるのも無理ないか…。
「なーんてね」
わざとらしく肩をすくめて笑った。
「モテ期な君に激ムズ設定作ったんだ、やってみてよ」
これまでも未来さんからの挑戦状は幾度となく乗り越えてきた。
今回もきっと余裕だろう。
多くの筐体をすり抜けて、辿り着いた先。
他の筐体に紛れて置かれているが、窓には「激ムズ」のポップが貼られている。
橋渡しの形だが獲得口に近づくにつれて、橋幅が末広がりに広くなっていく設定だ。
獲得口に寄せていくと、チャンスになるはずなのに、思うように動かせなくなる。
重心のせいか詰んでしまった。
「くそ…!」
何度やってもうまくいかない。
どこかでどうにもならなくなる。
「惜しいねぇ」
未来さんの嬉しそうに笑う口元が、悔しさを余計に煽ってくる。
唇を噛み締めて、これまでの操作を振り返り、原因を探る。
──その時だった。
「…交代」
低く、しかしはっきりとした声が耳に届く。
振り返ると、そこに立っていたのは、一人の女の子。
前髪がきちんと切り揃えられたショートヘアで、黒を基調としている。
ピンク色の髪留めの隙間から見える一筋の青いインナーカラーが、夜空になびく、孤独な星のように煌めいた。
小柄で、どこか幼さが残る体つきだが、服装は垢抜けようとしているのか、ぎこちない。
眼差しだけは鋭く、すでに攻略法を見抜いているようだった。
「おーきたね、激うま少女」
未来さんは、からかいながら、小動物を愛でるようにぐしゃぐしゃにする。
「…やめて」
もみくしゃになった頭でも、表情ひとつ変えず、全く動じていない。
「へーい、ごめんよー」
残念そうに離れると、俺に彼女と変わるように促した。
どれだけの腕前か知らないが、お手並み拝見といこう。
この設定は落とし穴が多い、一度判断を誤ると取り返しのつかないことになる。
きっと、初見では難しい。事実、俺もこんなに沼っている。
「…さっき見て、理解した」
静かに筐体の前に立ち、迷うことなく淡々とアームを操作していく。
その視線は、設定の意図も全て理解しているように見えた。
──ゴトンッ!
あっけないほど簡単に獲得口に落ちていった。
俺はあれだけ苦戦したのが嘘みたいに、彼女の指先はとても滑らかで、あっという間に攻略してみせた。
あまりにも容易に攻略する姿に、これまでのクレゲ人生を否定されたような、クレゲ観を覆された感覚だった。
「…未来さん、これ簡単」
簡単…?これが?
目の前で起こった光景をまだ受け入れられないでいる。
本当の天才を目の当たりにして、ただ立ち尽くすしかなかった。
「さすがだねぇ〜」
未来さんは、飼い犬が一芸できた時のように、頭を撫で、彼女は、少し満足そうな表情を浮かべている。
「すげぇよ!あんた!」
衝撃のあまり、思わず声が大きくなった。
その声に驚いたのか、ビクッと肩を震わすと、未来さんの後ろにスッと隠れた。
「枠太、声大きすぎ。ほら、怖がってる」
未来さんの声が、現実へ引き戻した。
大人の影から刺す警戒の視線。
深呼吸して、昂る感情を落ち着かせる。
あのフック設定攻略の鍵も彼女が持っている気がして、このチャンスを逃すわけにはいかなかった。
「悪いな、名前聞いても良いか?」
「………り…め…」
周囲の電子音に消えそうな声は、はっきり耳に届いた。
「彼女はyoutubeに動画投稿もしてて、すごいんだよー」
「…勝手に言わない」
″りめ″で思いつくクレゲ投稿者は一人しか思いつかない。
「もしかして、リメリメ♡チャンネル!?」
怯えながら小さく頷く。
──まさか、本人に会えるなんて。
クレーンゲーム界隈では、知らない人はいない。チャンネル登録者数30万人超えのプロクレーンゲーマー。
クールなキャラと確かな腕前で人気を博しているが、容姿や年齢は不明だった。
それが、こんな華奢な女の子だとは…。
毎日、参考にしている天才がここにいることが、信じられない。
彼女の存在は、狂った時計の針を元に戻してくれるような気がした。
「本当にリメりん?」
視聴者からは″リメりん″の愛称で親しまれている。
無論、俺もコメントする時は、ごく自然にリメりんと呼んでいる。
「…それ、やめる」
平静を装う顔も、頬だけはみるみるうちに赤く染まっていく。
彼女のテクニックを全て吸収したい。
もう、あんな思いをするのはごめんだ。
「頼む!弟子にしてくれ」
「…無理」
考える余地もなく、一瞬で断られた。
徐々に後退りをして、この場を離れようとしている。
ただ、こちらも引くわけにはいかない。
「本気で上手くなりたいんだ、頼む!」
彼女を引き留めようと手を掴む。
指先で伝わったのは、機械のような冷たさと人のぬくもりを思わせる柔らかさだった。
ほんの一瞬、手の中にためらい気配を感じたあと、そっと振りほどかれる。
「……無理、だから…」
「じゃあ、一緒にクレゲしてくれ!」
「…それは、良い」
「それはいいんだ」
未来さんが間髪入れずにツッコむ。
それから、リメりんは言葉少なにアドバイスをくれた。
背中で語るタイプで、ひとつひとつの所作に無駄がなく、指先の動きさえも印象的だった。
状況判断、狙い方、全てが新鮮で、俺の知ってる世界を軽く飛び越えていく。
いつか、あの領域まで辿り着きたい──
数日後、投稿された動画にコメントしたが、反応はなかった。
無反応の画面を見ながら、瞼に浮かぶのは、人混みに消えていった黒髪のあの子の微笑み。
彼女が残していったまなざしは、今も俺の中で燻り続けている。