4ボタン 春風に掛かるフック
小鳥のさえずりで目を覚ます。
窓から差す日光が自分をどこかへ導いている爽快な朝。
両腕を上げて伸びをして、体の神経を活かしていく。
今日は、何をやっても上手くいく気がする。
浮ついた意気込みを胸に、ベッドから足を降ろした瞬間──
台風の如くドアが開き、雷鳴が轟く。
「枠太、そのフィギュアの山どうにかしなさい」
「どうにかしなさーい!」
母の静かな怒号と、妹・麻以の茶化す声が部屋に響く。
寝起きの交渉は難航を極め、やはり無駄だった。
「…そのフィギュア、どうにかしなさい」
「どうにかしなさーい!」
懇願は勢いよく閉ざされた。
これ以上、無駄な抵抗をすることなく、これまで積み上げてきた達成感を袋にしまっていく。
重心を確かめながら。
いつ手にしたかも曖昧だが、感覚だけは覚えている。
「…一度、手放したものは、もう二度と戻らないか…」
とはいえ、この家から手放されるのも困る。
ほんの少しだけ心惜しさを抱いて家を出た。
爽快な朝のはずが、両手には思ったよりも重たい袋。
浮ついた意気込みは、すでに試練に晒されていた。
よくあるホビーショップへ辿り着く。
ドアをくぐると、フィギュアの箱が日に焼けた匂いが広がり、別離の時を予感する。
客はまばらだが、多種多様なフィギュアが無造作に並べられ、中には同じ時を過ごしたものもある。
懐かしい面々を眺めながら、買取カウンターへ歩を進める。
「ちょっと、そこのあなた」
当然、後ろから呼び止められた。
振り返ると、腕を組み、なぜか不機嫌そうにこちらを見つめる少女。
深みのある黒髪は波のように、毛先がふわりと肩を撫でた。
前髪はきちんと整えられ、切れ長の目元が強気な印象を与えるが、頬はやんわり紅潮し、緊張しているようだ。
彼女の存在はこの店では浮いていて、鞄に付けられた、褪せたアニメ調で描かれた蜘蛛のキーホルダーだけは、この空間に馴染んでいた。
うん、何やらめんどくさそうだ。
聞こえなかったことにしよう。
「ちょっと、話を聞きなさいよ!」
「そのフィギュア、わたしに譲ってもらえないかしら?」
さも、当然のような態度で放つ。
正当性の砦を築き、その上からこちらを見下しているようだ。
「なんだ?てか、誰だよ、お前」
「……梢…よ」
その声は、か細く、ほとんど聞こえなかった。
「いや、聞こえないんだけど。それに、人に物を頼む時は、頼み方ってのがあるんじゃないか?」
譲っても良いが、すんなり渡すのも癪だ。
絡まれるのも面倒で、冷たく返す。
「なによ…わたしを強請る気?」
予想外の答えだったのか、態度は強気だが、声が震えている。
徐々に彼女の瞳が潤んで、反射した蛍光灯の光が目に刺さる。
よくわからない違和感のある罪悪感が芽生えた。
「そんな気ねぇよ、…まったく、どれが欲しいんだ?」
彼女がゆっくりと指差すのは、“まーべるん”のヒーロー。
まーべるんとはアメコミのヒーローたちが活躍するアニメで、コアなファンもいるらしい。
その中でも、この蜘蛛のヒーローは人気だ。
このフィギュアを取ったのは、たしか小学5年の頃だったような──
「…ねぇ、ちょっと、聞いてるの?」
箱を眺めながら、我に帰る。
「あぁ、悪い…でも、ここで買えばいいんじゃないか?」
「ないわよ、このフィギュア、プレミア付いてるし」
フリマサイトを確認すると、1万円の値がついていた。
プライズフィギュアでここまで高くなるのは珍しい。
よくぞ、ここまで成長してくれたと気分が高揚する。
「それで、いくらで買いたいんだ?」
「…」
口を閉ざしたまま目を背けている。
「…まさか、金はないのか?」
俯いて、何も言わずに頭を横に振る。
申し訳ない気持ちは少しあるらしい。
「…あるわよ、5千円くらい」
「足りないじゃないか」
「お願い、譲ってもらえないかしら…なんでもするから…」
必死に築いた砦は、あっさりと崩壊したようだった。
目の前の彼女は、ただ小さく震える女の子になっていた。
どんどん弱々しくなる態度を見て、なんだか可哀想にも思えた。
同時にキャラ愛も痛いほどよくわかる。
それに、なんでもしてもらえるなら悪くない…。
「ちょっと、変なこと考えてないでしょうね?」
切れ長の目をさらに細め、疑いの視線を向けてくる。
「考えてねぇよ!」
なぜか声がうわずってしまった。
図星を突かれたようで気まずい。
「…まぁ、これはやるよ」
誤魔化すようにお目当ての物を差し出すと、彼女の目は一瞬で見開かれる。
「いいの!?…ありがとう」
さっきまでの態度が嘘みたいに、ぱっと花が咲いたように明るくなる。
しかし、あまりにあっさり譲られたせいか不安に駆られたようだった。
「その…お願いは…」
どんな要求をされるのか怯えているのだろうか。
俺はこんなにも紳士だというのに。
「じゃあ、一緒にゲーセン行こうぜ、取り方も教えてやるよ」
「“すぱいだまん”なら最近、またプライズになったからな」
「ほんと!?」
開かれた目がキラキラと輝いている。
感情の起伏に振り回されて酔いそうだ。
けれど、些細なことにも一喜一憂する純粋さが眩しい。
「行くか?」
「仕方ないわね…行くわよ」
口では澄ましているが、耳の先がほんのり赤い。
この曲がった素直さは、少し遅れて本心を伝える。
「じゃあ、これ売ってくるからちょっと待ってろ。軍資金手に入れてくる」
査定を待ってる間に少し彼女のことを知った。
実は同じ学校の同学年でスポーツ科であること。
そして、このヒーローへの愛を。
不思議と会話は成立し、不意に訪れる静寂も苦ではなかった。
日曜日のホームは家族連れやカップルで賑わう。
いつもと違い、自分もこの場に溶け込めているのかと気になった。
「ほら、あったぞ」
「それで、どうやって取るのよ」
「まずは、設定を確認する。今回は至ってシンプルな橋渡し設定だな」
景品の箱は、2本のバーに乗っていて、手前と奥の少し高い位置にも滑り止めがついたバーが設置されている。
「まずは、左側のアームを少し寄せて、奥行きは景品の真ん中を狙う」
「ちょうど真ん中を持つことで、景品の重心が分かる」
「なんで、わかるのよ」
「重い方から先に落ちるからな、こいつは下重心ってことが分かった」
「それじゃあ、次な」
「今、箱の左手前はバーと隙間がある状態だ。今度は右側のアームを寄せて、少し奥側を狙う」
「すると景品が奥に進んで、箱の右手前がバーと隙間ができた」
「基本的にバーと隙間がある方の反対側を寄せて、繰り返すイメージだな」
「そうすると、景品が起き上がるから、最後は片方のアームが箱に干渉しないように、ギリギリまで寄せて…ゲットだ」
「これがいわゆる縦ハメというやつだ」
「すごいわ!」
またもや目が輝いて見つめる、この真っ直ぐな視線が妙に照れくさい。
「やってみるか?」
梢は、静かに頷いて、筐体の前に立った。
景品を補充に来た、未来さんは何も言わなかったが、目を細めて、意味ありげにこちらを見ていた。
「…最初は左側のアームを寄せて、真ん中を狙う」
小さく返事をして、恐る恐るボタンを押す。
部活はバスケと言ってたな。
そのせいか、ボタンを離すタイミングも奥行きも完璧に近い。
ふと、部活に行かなくて良いのか気になったが、今日はオフなのだろう。
梢は、順調に狙い通りに進めていく。
緊張のせいか手は小刻みに震えているが、理想的なアーム操作で、かなりセンスがある。
「次で取れそうだな」
「…緊張するわね」
フィギュアを見つめる目線、少し力の入った肩。
最後の一手、周りの音が耳に入らなくなる感覚までも手に取るようにわかる。
──ゴトンッ!
「やったわ!」
梢は思わず俺の方を振り返り、笑顔を弾けさせる。
その仕草があまりにも無邪気で子どもっぽい。
「ほら、取れたわよ!」
フィギュアの箱を両手で掲げ、誇らしげに見せてくる。
これまでのクールな言動とのギャップに口元が緩み、肩の力が抜けた。
二人並んで歩く帰り道。
梢は2つのフィギュアをそっと抱いて歩いている。
「取れてよかったな」
「…ま、まあね。あんたのおかげ…ってわけでもないけど」
「わたしのセンスの賜物かしらね」
少し頬を赤くして、強がる姿はどこか幼くも見えた。
「まぁ、指導者が良いからな」
「…そうね」
なんとなく、ゲーセンの時間が楽しかったなと思い返す。
今日出会った相手と並んで帰るなんて、ちょっと不思議な気分だった。
優しく吹いた春風は、何かに引っ掛かりながら、ふわりと二人の間を追い越していく。
梢をどこまで送っていこうか考え始めた、その時。
「あれ?梢ちゃんに…わくた!?二人でどうしたの!?」
聞き慣れた通った声が耳を貫く。
振り返らずとも誰かわかる。
しかし、やましいことなど何もない。
なのに、どうしてか鼓動が早くなる。
「あら、芽衣」
梢が涼しい顔で手を振る。
「…二人は知り合いなのか?」
「うん!中学の時、バスケの大会でね。うちの高校バスケ強豪だから、あたしは入れなかったけど、梢ちゃんはすごいよね!」
あっという間に二人の空間が出来上がり、入り込む余地はない。
しばらく二人が話込んでいるのをただ眺めていた。
「じゃあ、またね」
梢は俺に何も言わずに軽く手を振り、遠くに去っていく。
残された二人の影が伸びて、二人の距離感を投影しているように見えた。
「……で? 二人で、なにしてたの?」
芽衣の声はいつも通り明るい。
けれど、見慣れた笑顔の瞳は、遠くを見つめ、じわじわと凍えるように冷たい。
「いや、別に…クレゲ」
「ふーん」
何かを含んだ短い相槌。だけど確実に棘はある。
「わくたの、ばかっ!」
思い切り肩を叩かれた。
ばちんという音が町に反響している。
「なんで俺が怒られんだよ!?」
「知らないっ!でも……なんか、むかつくの!」
この理不尽な苛立ちに安心する自分がいた。
帰る途中で梢の名前を聞いた。
夏葉梢というらしい。
彼女の話題を出す度、背中の傷が増える一方だったので、それ以上は聞けていない。
無事に明日を迎えられることを祈って家路を辿る。