第6話 「月影の王と運命の裂け」
――封印都市ルメア、その扉が呼び覚ますもの
物語をここまで読んでくださった皆さまへ。
ひとつひとつのページをめくる、その時間を共にしてくださることが、何よりの支えです。
心から感謝を込めて――
星霜を越えて眠る扉が、静かに息を吹き返す。
その前に立つアリサたちの胸には、恐れと昂ぶり、そして揺るぎない誓いがあった。
これは旅の第一幕を締めくくる物語。
交わされた言葉も、響いた音も、すべてが次の運命への道標となる。
扉の向こうに待つのは、試練か、それとも祝福か――
今回の第6話、どうかその目で確かめてください。
胸の奥で、まだ微かに星が鳴っている。
アリサは星図を抱え、蒼い残響の城の回廊を静かに歩いた。足裏から伝う石の冷たさが、現へ戻る目印のように感じられた。さっきまで身を浸していた“記憶の水脈”――暁の迷宮の幻影はほどけたはずなのに、星の響きだけが絡みつく糸のように残っている。
「顔色が戻ったな。」
ゲルンが短く言う。不器用な気遣いを斧の柄に預けるようにして立っている。灰色の毛並みが薄光に濡れ、肩越しの息は落ち着いているが、耳だけが僅かに動いて周囲の気配を拾っていた。
「うん……大丈夫。」
アリサは微笑み、星図の中心に走る細い銀糸を見つめる。迷宮で触れた“鍵の記憶”は、まだ星図の奥で静かに脈打っていた。触れられそうで触れられない、未来の輪郭。けれど――確かに、そこに在る。
「でも気になるね。」
シエルは指先で小さな火環を回し、城の天蓋を見上げた。「月、欠けてないのに、光が裂けてる。」
見上げれば、昼の名残に洗われた青白い月。その周囲で、薄い光の幕が斜めに撓み、かすかな断層をつくっていた。水面を刃で撫でたような歪み。耳鳴りに似た微かな音が、空のどこかから降りてくる。
「……兆し、だ。」
ゲルンの毛並みが逆立つ。「森が嫌な息をしている。」
アリサは喉の奥で息を呑む。星図の縁が、見えない風に鳴るように微かに震えた。
――月光、裂ける。
――呼ばれている。まだ見ぬ扉へ。
星の囁きが、ことさらに遠く、しかし切実に響いていた。
「外へ出よう。」
アリサは決めた声で言い、二人が頷く。三人は城の外縁、崩れた城門跡へ向かった。回廊の隅に積もる砂塵が、足音のたびに細く舞い上がり、朝でも夜でもない曖昧な光に溶けていく。
* * *
城門に差しかかった時だ。風が止み、鳥の気配が抜け落ちた。
砂礫の擦れる、ほんの僅かな音。気配の温度が変わる。
ゲルンの耳がぴくりと動く。斧が半歩、先に出た。
「……囲まれてる。」
「八、いや、十。真横の陰にも二。」
シエルの声に冗談はない。指先の火環がすっと消え、代わりに掌の内側で小さな火線が生まれては消える。青い瞳が、薄闇の境目を正確に数えた。
「月影団――。」
アリサの声が、星図の震えに重なる。
黒外套が音もなく現れる。仮面をつけた先頭の影が、白い朧月章を胸に光らせた。以前、村を焼いた粗暴な一団ではない。肩の落ちない重心、気配の小ささ、足運びの間。精鋭だ。狙いは一点――“捕らえる”。
「巫女アリサ。王の御命だ。生かして連れて来い。」
仮面の奥から涼しい声。冷たい水で喉を撫でられるような響きだった。背後の兵は言葉すら持たない。命令は、もう“共有”されている。
王――。
その二文字が、空気の温度を落とす。アリサの胸の鼓動が一度だけ強くなり、すぐに深く沈んだ。
アリサは星図を抱き寄せ、足を引かなかった。「ここで退くわけにはいかない。」
「じゃ、やろうか。」
シエルの両掌に火の矢が咲く。「僕は“面白い方”につく主義でね。」
ゲルンは一歩前へ。「巫女には指一本触れさせん。」
夜でも朝でもない曖昧な光のなか、最初の刃がすべった。
* * *
矢が走る。青白い術式を刻んだ矢羽根は、空気を裂き、まるで月の欠片のように静かに鋭かった。
ゲルンが斧を回し、矢の雨を砕く。火花が弾け、石畳に白い痕が刻まれる。斧は盾のように円を描き、獣の筋肉が衝撃を殺した。
「右!」
シエルが叫ぶより早く、ゲルンが半歩ずれ、短剣の突きを柄で受け流す。刹那、シエルの火弾が滑り込んで弾け、黒衣の影が一人、音もなく崩れた。火は炎ではない――術式を“食む”火。敵の魔力線を絡め取り、逆流させる。
仮面の精鋭は怯まない。三方向からじわじわと間合いを詰め、隊の編成で“空間”を切り分ける。殺さず、落とす。靴底が石畳に音を残さないのが、不気味なほど徹底していた。
アリサは後退せず、星図を胸前に掲げる。「星よ、道標を――」
銀の線が走った。星図から伸びた十余の光糸が、敵の脚へ、刃へ、影へ――微妙に半歩、選択を狂わせるだけの力で絡みつく。力任せではなく、“可能性の角度”をずらす星の微調整。躓く足を、誤差へ落とす。
仮面の指揮が短く飛ぶ。「第二隊、影縫い。」
地面の影が、ぬめる。
石畳の影が深く沈み、アリサの足首に冷たい輪を結んだ。冷たさに“形”がある――月の冷気。皮膚より深く、骨まで染みる寒さに力が抜ける。
「アリサ!」
シエルが飛ぶ。掌を払うと、淡い火の輪が影を焼き切った。だが背後――槍が沈黙の線で迫る。
カン、と澄んだ破砕音。
ゲルンの斧柄が槍を逸らし、そのまま襲撃者の胸を押し返した。木製の柄に細いヒビが走る。守りの象徴が欠ける音。ゲルンの眉がわずかに動く。「構わん。」
「くそっ、立ち位置を取られた。」
シエルが舌打ち。敵はアリサと星図の“線”を見切り、縦一列に間合いを切って詰めてくる。星図が揺れれば、アリサが揺れる。それを狙っている。
「星は……私の意志に応える。」
アリサは呼吸を整え、足の震えをわずかな前進に変えた。星図の中央がひときわ強く光る。光糸が“結び目”をつくり、ゲルンの斧、シエルの火線と薄く重なる――三人の動きが、図形のようにかみ合った。
「いける。」
シエルの声が一段軽くなる。火弾が曲線を描いて敵の背後へ回り、熱ではなく“選択”を焼く。躊躇の一瞬。そこをゲルンの斧刃が割った。
静かに、しかし苛烈な攻防が続く。仮面の兵が一人、また一人と崩れていく。それでも“恐れ”が浮かばないのは訓練の深さか、あるいは――
――その時、空が鳴った。
* * *
氷を爪で引っ掻くような、乾いた高音。
空が、紙のように薄くなっていく。雲でも霧でもない。世界と世界の皮膚が剥がれ、内側の黒が露出する。城門の上、月を背に、亀裂が斜めに走った。光が吸い込まれ、風が逆流する。星図が胸で暴れた。
視界の端で、倒れた精鋭が薄笑いを浮かべる。「王だ。」
亀裂の向こう、薄い靄の陰に“影”が立つ。
人か、神か。銀白の冠がわずかに光る。顔は見えない。けれど、視線だけがこちらへ届く――アリサの未来のページを、既に読んだ者の目。
足が凍る。喉が乾く。胸の内側から、星が喚いた。
――見るな。
――問え。お前の意志で、問え。
影の唇が、音にしない言葉を結ぶ。
来い。巫女。
アリサの足が一歩、出そうになる。その腕を、熱が掴んだ。
「戻れ。」
ゲルンの掌だ。獣の掌は粗く温かい。現実へ引き戻す温度。
「王様。」
シエルが前へ出る。笑っているが、瞳の芯は凍っている。「覗き見は趣味が悪いよ。こっちは今、旅の最中なんだ。」
裂け目の向こうで、影が微かに首を傾げた。次の瞬間、黒い糸が伸びる。髪の毛ほど細いのに、世界を釣れるような重さを帯びて。糸は星図に触れようとした。
「――来るな!」
アリサが叫ぶより早く、ゲルンが身を差し入れる。黒糸が斧柄に触れ、音もなく柄が砕けた。刃が石畳に跳ね、鈍い音を残して転がる。ゲルンの指がわずかに血を滲ませる。彼は動じない。
「反転!」
シエルが掌を交差させる。火ではない。空間の縫い目を一瞬だけ逆撚にする術。黒糸が捻じれ、自己同士で軋んで霧散した。少年の額に冷や汗が滲む。「長くは持たない。巫女、決めて。」
見上げると、影は一歩も動かない。待っている。自分の選択を。
「……私の未来は、あなたの頁じゃない。」
アリサははっきりと言った。声が震えても、言葉は揺らがない。
星図が応えた。
中心の銀糸がほどけ、別の文様を織り始める。暁の迷宮で目にした“鍵の記憶”――それは今度、現実へ“橋”を架ける形に並び替わる。けれど、橋だけでは足りない。渡れるが、壊せない。
「――アリサ。」
崩れかけた柱の影から、低い声が落ちた。灰の長髪、星詠みの外套。杖の先に青白い珠が灯る。城の薄明かりの廊で一度、静かな言葉を交わしたあの老人――記録の番人が姿を現した。
「ここは境。境には境の掟がある。扉の番人を呼ぶ。」
老人の杖が石床を叩く。鈍い音がひとつ。
石造りの広間に、砂の粒が集まり始めた。黒鉄の粉が渦を巻き、背丈の高い影がむくりと起き上がる。面は仮面、関節は鎧の継ぎ目のようで、継ぎ目から蒼光が脈のように漏れている。
――“扉の番人”。
この先へ進む者が、資格を持つか否かを見極める、門の権能の具現。まるで石像が動き出したかのような無言の威圧が、裂け目と此方の間に立ちはだかった。
番人の仮面が、王の裂け目を向く。
声は持たぬ。だが場に満ちる問いは明確だ――「名を告げよ。」
亀裂の向こうの影は、沈黙で返す。沈黙は時に偽りより有害だ。
記録の番人が、静かに続けた。「名は魂。偽れば刃は己へ返る。掟は“こちら側”に味方するぞ、巫女。」
* * *
アリサは頷き、胸に刻まれた銀の輪――選ばれし者の記章に指を添えた。輪が熱を持ち、星図の文様と重なって脈打つ。
「アリサ。星詠みの末裔。私の意志で渡る。」
扉の番人の蒼光がわずかに揺れ、肯く気配を見せる。
黒衣の精鋭たちが半歩だけ退いた。名を呼ばれぬ影ほど、契約の場に弱い。
記録の番人は杖先を上げ、短く囁く。「橋は織られた。だが、王は裂け目を学んだ。次はもっと深く抉ってくる。楔が要る。」
「楔……?」
「記憶ではない、実体だ。お前の意志でしか形を保たぬ破片――月光の鍵の“第一の実体欠片”。」
杖先の珠が強い光を放つ。星図の中心で光が凝り、雫になって落ちた。
アリサは両の掌でそれを受ける。冷たい。けれど、冷たさの奥に脈がある。鍵の歯の一部のような、銀青の結晶片。面は一定に見えて、角度で微妙に違う“過去”を映した。
「記章を核に、欠片を前へ――裂け目の縁に撃ち込め。」
老人の声が導く。扉の番人が一歩、亀裂の前へ踏み出すと、黒鉄の剣が腕と同時に形を成した。仮面の目が亀裂を見据える。
仮面兵のうち二人が、わずかに身体を引いた。躊躇の一呼吸。
「今。」
シエルの火線がその余白を焼き、布陣に穴を開ける。
「任せろ。」ゲルンが砕けた柄を投げ捨て、腕で盾を作って前に出る。
アリサは一歩踏み込み、記章に触れた左手で星図を抑え、右手の欠片を空へ掲げた。
「星よ――私の意志に灯れ。」
光が走る。
星図の文様が裂け目の縁を塗り替え、欠片がその一点に吸い込まれるように沈む。金属の打突音ではない。世界の縫い目へ針を通すような、静謐で確かな音。
黒い糸が欠片へ触れようとして、拒まれた。糸は自分自身へ巻き取り、こすれ、霧散する。裂け目の輪郭が、ごく僅かに縮む。
亀裂の向こうの影が、初めて小さく身じろぎした。月光が微かに濁る。風に、苛立ちの温度が混ざった。
扉の番人が剣を斜めに下ろす。記録の番人が杖で石床を一度叩いた。
「通行は拒絶された。」
仮面の指揮が短く飛ぶ。「退け。王は見た。」
黒外套は来た時と同じように、音も残さず去った。残響だけが石畳に残る。風が戻ってくる。遠くで、鳥が短く鳴いた。
アリサは掌の熱が徐々に収まっていくのを感じた。第一の実体欠片は、護符と星図の間にそっと挟むと、抵抗なく収まり、受理された。
扉の番人は役目を終えると、黒鉄の砂にほどけ、影へ帰っていく。仮面の目孔に宿っていた蒼光が消え、ただの石と闇だけが残った。
記録の番人は杖に体を預け、しかし穏やかに頷いた。
「よくやった。――“境”は持ちこたえた。」
* * *
しばらく、誰も口を開かなかった。
先に動いたのはゲルンだ。砕けた斧柄を拾い、刃を嵌め直そうとして――やめる。破片を見つめ、静かに笑った。
「新しくしよう。……盾は折れても、誓いは折れん。」
「名言だね。」
シエルが横に腰を下ろし、掌で石の粉を払う。「正直、冷や汗ものだったよ。僕の“反転”は長くは持たない。でも――」彼はアリサを見る。「これは“面白い”を超えてる。ねえ巫女さま、君は王に気に入られたらしい。」
「光栄ではないわね。」
アリサは苦笑し、欠片の輪郭を指先で確かめる。冷たいはずの結晶から、かすかな鼓動が伝わってくる。「でも、知った。あの目は未来を決められる目じゃない。私が、選ぶ。」
記録の番人は、ひとつ深く息を吐いた。
「迷宮はまだ開いている。だが、裂け目は学習する。次に王が扉を叩く時、お前たちが先に至っていなければ、世界は月に巻き取られる。」
「先――暁の迷宮。」
アリサが応える。星図の新しい線は、確かにそこを指していた。「あそこで、鍵の柱をもう一つ見つける。――裂け目に対抗する骨組みが要る。」
「二本の柱が立てば、亀裂はしばらく“道”を失う。」
老人が補う。「その間に、真の扉を見つけるのだ。……巫女よ、仲間を信じなさい。さきほどの図形、三人の動きで美しく結ばれていた。」
アリサの胸に、あたたかな痛みが走った。
遠いどこかで、銀の鎧が鳴る音を思い出す。夜警の青年――ルキオ。
星が何を告げようと、お前を守る。
あの約束の温度が、いまも背中に宿っている。会える。会う。選んで会いに行く。
「行こう。」
ゲルンが立ち上がる。砕けた柄を肩に担ぎ、簡潔に言った。
「もちろん。」
シエルは片目をつぶって笑う。「退屈よりマシだからね。」
アリサは欠片を胸に当て、静かに目を閉じた。星の囁きが、恐れと同じ速さで脈打ち、しかし一拍、確かに速くなる。
「行こう。」
目を開け、歩き出す。空は澄み、月は裂け目の痕を隠すように淡く光っている。その下を、三人の影が長く伸びる。足元の石はまだ戦いの熱を抱いていて、踏むたびに微かな温度が伝わった。
記録の番人が呼び止めるように声を低めた。
「巫女。……月影の王は、かつて“こちら側”にいた。」
アリサは振り返る。
「選ばれ、祈り、そして――外れた。理由を知るには、暁の迷宮で“失われた星”に触れるがよい。」
老人の灰色の瞳は、長い夜を越えてなお炎を宿す石のようだった。
「道は険しい。だが、星はお前の“決意”にしか応えぬ。忘れるな。」
アリサは深く頷いた。
「忘れない。私の意志で、選ぶ。」
* * *
(エピローグ)
風が、城の最奥――誰もいない祭壇の石段を撫でる。
遅れて、声が落ちた。
巫女よ。
頁は、お前に渡した。
だが本は、こちらにある。
月光が一瞬だけ濃くなる。
どこにもいない王の影が、裂け目の残滓を指で弾いた。
乾いた、高い音がひとつ。沈黙が、笑った。
鳥が再び鳴き、朝と夜の境目はほどけていく。
蒼い光の細片が、風にまざって遠くへ運ばれる。
暁の迷宮――その名だけが、三人の背中を軽く押した。
(第7話「暁の迷宮と星を喰らう扉」へ続く)
――物語は、さらに遠くへ。
扉の先に広がるのは、これまで知らなかった空の色、そして新たな星の声。
アリサ、ルキオ、ゲルン、シエル――それぞれの選択が、この世界の形を少しずつ変えていきます。
ここまで旅を共にしてくださったこと、本当にありがとうございます。
あなたの「スキ」や「フォロー」、コメントやXでのシェアが、この物語の航路をさらに遠くへと導く風になります。
次回からは第二幕が始まり、物語は一層の深みと広がりを帯びます。
その余韻を深めるために、制作ノートや裏話をnoteで公開しています。
登場人物の秘めた想いや、シーンに込めた意味を知れば、きっと新しい景色が見えてくるはずです。
▼ 制作ノート・裏話(note)
https://note.com/s_brown/n/n18cf35d41389
第7話で、またお会いしましょう。
その日まで、あなたの心に星の光が届き続けますように――