第2話「血の契約と獣の影」
星が語り、月が見守る夜。
第1話を読んでくださった皆さん、ありがとうございます。
今回の第2話では、アリサの前に影が迫り、村が大きく揺れます。
新たな出会い、揺れる決意、血の契約――。
アリサの旅が本格的に動き出す回です。
よければ、最後までお付き合いください。
夜明け前の村は、いつにも増して冷たく張り詰めた空気に包まれていた。
丘の上で見た月光の鍵の幻影は、アリサの胸にまだ熱を残している。
震える指先に意志を伝えるように、ルキオの手を強く握りしめていた。
「……もう来ているの?」
小さく吐き出した声は、夜の静寂に溶け込むほどに弱々しかった。
だがルキオの瞳に浮かぶ鋭い光は、その言葉を肯定していた。
「準備しろ、アリサ。お前が遅れれば、それだけ村が危険にさらされる。」
ルキオの声は低く落ち着いていたが、その奥に緊張が走っていることは容易に感じ取れた。
アリサは小さく頷き、踵を返すと走り出した。
家へ戻る途中、焼けた松明の香りが鼻を刺した。
震える手で戸を開け、星詠みの衣を脱ぎ、白く薄い移動用の旅装を身にまとった。
首には古い銀の首飾り。
代々受け継がれてきた「星の加護」を宿す護符が冷たく肌に触れた瞬間、母の声が耳の奥で囁くように蘇った。
「恐れないで、アリサ……あなたには星がついているわ。」
かすかな母の幻影に背を押されるように、アリサは小さく頷いた。
「……大丈夫、私は……行く。」
深呼吸を一つし、再び外へ飛び出すと、村の門近くから聞こえるざわめきが、彼女の背筋を強張らせた。
* * *
村門の周囲では、松明を持った村人たちが怯えながら隠れていた。
その視線の先に現れたのは、黒い外套に身を包んだ数人の影。
その胸には白い朧月を象った紋章――月影団の証。
「星詠みの巫女を出せ。我らは月光の鍵を求める。」
リーダー格と思しき男の声は、夜気を裂いて響いた。
声に籠められた威圧感は、村人たちの心に冷たい針を刺すようだった。
村長ソルヴァは杖を握りしめ、一歩前に出た。
炎に照らされるその老いた顔には、決して退かぬ覚悟が刻まれていた。
「我らの村に、汝らが求めるものはない!帰れ、闇に生きる者よ!」
だが、月影団の男はかすかに口の端を吊り上げた。
「無駄だ。星はすべてを見ている。月は我らに真なる未来を授けるのだ。」
男が手を挙げると、背後に控えていた兵士たちが一斉に松明を掲げ、家々に火を放ち始めた。
赤い炎があっという間に広がり、夜空に黒煙がうねり立つ。
「やめて……!お願い、やめて……!」
アリサは口を押さえて叫びを飲み込んだ。
村を照らす炎の向こうで、人々の悲鳴が木霊する。
その目に映るのは、燃え落ちる屋根、崩れる壁、逃げ惑う影――
胸の奥が、焼かれるように痛んだ。
「私のせいで……」
唇を噛むアリサの肩に、ルキオの手が置かれる。
その掌の熱に、震える心が少しだけ静まった。
「アリサ。お前が行かなければ、もっと多くの命が奪われる。だから……行け。」
ルキオは静かに告げると、ゆっくりと剣を抜いた。
その銀色の刃は、月光を浴びて凍てつくように輝いていた。
「ルキオ……!」
「信じろ、アリサ。必ず後で追いつく。」
涙が頬を伝い落ちる。
しかしアリサは、ルキオの瞳に映る未来の欠片を信じるしかなかった。
「……お願い、無事でいて……!」
アリサはその場を振り返らず、裏道へと駆け出した。
夜明け前の薄青い空が、まるで遠い希望のように霞んでいた。
* * *
冷たい露に濡れる森の小径。足元の根に躓きながらも、アリサはひたすら前へ進んだ。
背後で鳴り響く剣戟の音が、耳の奥に残響する。
「お願い……ルキオ……みんな……」
涙が溢れても、走る脚は止まらない。
そのとき、不意に、低い唸り声が森の奥から響いた。
「誰……?」
アリサは振り返り、薄暗い茂みに目を凝らした。
葉陰から現れたのは、大きな影――狼の耳と灰色の毛並みを持つ、獣人の男だった。
琥珀色の鋭い瞳が、アリサを貫いた。
喉がひりつくほどの緊張に、足がすくみそうになる。
「……あなたは……?」
「名はゲルン。森の守護者だ。お前の噂は、風が伝えている。」
ゲルンは肩幅の広い体をゆっくりと前に出すと、巨大な戦斧を地面に立てた。
その動作一つにも、圧倒的な威圧と静謐が共存していた。
「森は、お前の行いを見ている。月影団がこの森に足を踏み入れたのも、お前の運命の渦に巻き込まれた証だ。」
「……私が、すべての原因……?」
アリサの声は震え、しかし瞳には小さな炎が宿り始めていた。
ゲルンは静かに目を閉じた。 長い息を吐き、頭上の星を一度だけ見上げる。
その仕草は、まるで遠い誰かに祈るようでもあった。
「我が部族には古くから伝わる掟がある。 大いなる運命に立ち向かう者に出会ったとき、獣人は血の契約を結び、その者の剣と盾になる。」
琥珀の瞳に、過去の影が一瞬浮かんだ。
彼がこれまでどれだけ多くの仲間を失い、いかに孤独の中で戦ってきたかが滲む。
「俺は……ずっとこの森を守り続けてきた。
外から侵入する者の気配、森を乱す悪意の匂い、そのすべてを風と葉が告げてくれる。 そして――」
ゲルンは指先を僅かに震わせ、森の奥を振り返った。
そこには風に揺れる枝葉が、夜空を指し示すようにざわめいている。
「数日前から、森全体がざわめいていた。 獣たちが異様に静まり返り、古木の根が呻き、月光さえも細く震えていた。 それは、これまで感じたことのない“変革の兆し”だった。」
アリサは息を呑み、森の声に耳を澄ませようとした。
しかし、彼女にはそこまで繊細な感覚は届かない。
だがゲルンには、森そのものの血脈と結びついた感覚があった。
「森は運命を見抜く。 そのざわめきの中心に、銀の光が揺らいでいた。 星に呼ばれ、ただ一人で道を歩もうとする細い影……それが、お前だった。」
ゲルンの琥珀の瞳が一層鋭く輝く。
「お前がここへ向かう足音を、森の根が震えて知らせた。 お前の心の中の恐怖と、それを超えようとする決意が、風に匂った。 だから俺は、森のすべての声を集めて、ここで待っていた。」
アリサの目に、涙がにじむ。
「……私が、そんなに……?」
「そうだ。 お前は選ばれし者だ。 大いなる運命に立ち向かうために生まれ、恐怖を超えて世界を導こうとする者。 だからこそ、俺の心は揺れた。 これまで多くの旅人や戦士を見送ってきたが、お前ほど強い光を纏う者はいなかった。」
ゲルンはゆっくりと顔を近づけ、低い声で告げる
「森が選んだ者に、俺は血を捧げる。」
ゲルンは静かに左手を上げ、自らの鋭い牙で指を噛み切った。
深い赤がゆっくりと滴り落ちる。
「これが我が部族の『血の契約』だ。 この血を受けた者は、俺と運命を共有する。 生死も、喜びも、すべて分かち合う。」
彼はアリサの額に血を垂らす前に、わずかに躊躇した。
それは彼自身が、自分の運命をも賭けるという恐怖と覚悟の一瞬だった。
「巫女よ――お前はこの重荷を背負う覚悟があるか?」
アリサは一度瞳を閉じ、胸に手を置いた。
月光の鍵の幻影が再び心に蘇り、体の奥に熱を灯す。
「あります。……私が選ばれたなら、もう逃げるわけにはいかない。」
ゆっくりと瞳を開くと、そこには揺るぎない決意が輝いていた。
ゲルンは大きく息を吸い込み、血の雫をアリサの額に垂らした。
赤い雫が額を伝い、胸の奥で光が脈動する。
まるで体内に新しい命が宿ったような錯覚に、アリサの心が震えた。
「これより、お前の盾となろう。 そして、世界の理に挑む旅路を共に進もう。」
アリサの瞳に、安堵と強い光が混じり合った。
風が二人の間を駆け抜け、森の葉がざわりと鳴る。
「……ありがとう、ゲルン。」
小さな声は、確かに森の奥へと響いた。
新たな絆の証として、その夜、星空はいつもよりも深く、静かに輝いていた。
* * *
ゲルンと共に森を歩くうちに、アリサの足は震え、体中に疲労が積み重なっていた。
だが、それ以上に胸を支えていたのは、星とルキオへの想いだった。
「……無事だろうか……」
ふと、森の奥に小さな火の光が見えた。 ゲルンが斧を構え、アリサの前に立つ。
「ここは……?」
慎重に進むと、焚き火のそばに銀髪の少年が座っていた。
銀髪の前髪が揺れ、いたずらっぽい笑顔を浮かべる。
火の粉を指で弄び、楽しげに微笑むその姿は、どこか妖精のようでもあった。
「おやおや……星詠みのお嬢さんと、森の大獣……珍しい組み合わせだね。」
不意に、朽ちかけた大樹の上から少年の声が落ちてきた。
乾いた枝がわずかにしなる音と共に、細身の影が月光の中へ飛び降りる。
焚き火のように小さな火球を指先で弄びながら、少年――シエルはにやりと笑った。
「……誰だ。」
ゲルンの低い声が夜気を震わせる。
その大きな手は既に腰の剣にかかり、瞳は鋭く光っていた。
「そんな怖い顔をしなくてもいいじゃないか。」
シエルは両手を挙げ、おどけたように肩をすくめた。
「僕はシエル。都市の外れで育った、そこそこ腕の立つ魔法使いさ。呼びたければ『賢い小鬼』でも『流浪の子猫』でも好きに呼んでくれ。」
「……何者であろうと、ここは遊びに来る場所ではない。」
ゲルンの声に滲む苛立ちを、シエルは面白そうに観察していた。
「遊び? そんなつもりはないさ。ただ……気になっただけだよ。」
「気になった?」
「ほら、月影団の奴らが森で妙な動きをしてるだろ?おかげで街の裏通りは妙に静かになったし、ここまでくれば面白い匂いがするんじゃないかって思ったのさ。」
少年の口ぶりは軽薄だが、その瞳の奥には冷たい計算の光が一瞬走った。
アリサはそれを見逃さなかった。
「……何を企んでいるの?」
「企み?」 シエルは笑った。
けれどその笑みは、どこか剥き出しの牙を隠しているかのようだった。
「別に、今すぐ何かを奪おうなんて思ってないよ。けど、星詠みの巫女が何か面白い旅を始めると聞いたら、じっとしていられると思う?」
シエルは一歩踏み出し、薄い外套を翻す。
その下には、街で鍛え上げた魔力の細いパルスが脈打つように走っていた。
「僕はずっと狙われてきた。使える魔法を持つ孤児は、使い捨ての兵器にされるのがオチだ。だから、一人でいるしかなかった。でもね……」 彼の声がわずかに低くなる。
「一人じゃつまらないんだ。何かもっと大きな流れに巻き込まれたい。生きる価値を賭けるほどの何かに出会いたいんだよ。」
アリサはわずかに息を呑んだ。
目の前の少年は、決して単なる子供ではなかった。
孤独を背負いながら、それを刺激と遊びに変える危うい生き物――それがシエルの本質だった。
「……それでも、命を懸ける旅よ。面白半分じゃ済まない。」
アリサの声は静かだったが、その瞳には鋭い光が宿っていた。
「わかってるさ。けど、僕は止められない。退屈より死のほうがマシだと思ってるからね。」
シエルは両手を開き、月光を浴びるように顔を上げる。
その表情は年齢に似合わぬほど狂気と自由をはらんでいた。
「……一緒に来るつもりなの?」
アリサが問うと、シエルはすっと笑みを深めた。
「もちろん。そっちの方が都合がいいし、何より楽しいからね。」
ゲルンがアリサの方に視線を送る。アリサは短く息を吐き、目を閉じた。
そして再びシエルを見つめ、静かに言葉を紡ぐ。
「……わかったわ。なら、あなたの選択を尊重する。ただし――」
彼女は一歩近づき、まっすぐにシエルの額に指を伸ばす。
「軽い気持ちでは来ないで。命を賭ける覚悟が必要よ。」
その言葉を受けたシエルは、一瞬だけ表情を硬くした。だがすぐに、肩をすくめて笑った。
「承知しました、巫女さま。死ぬときは笑って死ぬさ。」
右手を高く掲げる少年の姿を、アリサはじっと見つめていた。
それは誰にも縛られない選択の証であり、彼自身の生き方の宣言だった。
「……さて、行こうか!」
その声に、夜の森の空気がわずかに揺れた。
ゲルンは短く息を吐き、剣の柄から手を離す。
「……面倒な子供だ。」
「ええ。でも、きっと必要な力になる。」
アリサは月に目を向け、胸の奥で熱を抱いた。
こうして、歪な三人目の仲間が加わり、星の道はさらに複雑に編まれていった。
だが次の瞬間、森の奥から甲高い金属音が響き渡る。
鋭く空気を裂くその音は、まるで獣の咆哮にも似て、あたりの木々をざわめかせる。
ゲルンは瞬時に体勢を低くし、巨大な斧を振り上げた。
その横で、シエルは細い指先に火球を灯し、瞳に獰猛な光を宿す。
「来るぞ、月影団だ。」
アリサの喉元に冷たい緊張が走る。
足元の土が震え、枝の間を縫うように黒い影が次々と迫ってくる。
月光がわずかに揺れて、黒い外套の集団の姿が現れると、アリサは拳を強く握りしめた。
星よ、我らを導きたまえ――。
胸の奥で祈りが熱く脈打つ中、三人は初めて「仲間」として背中を預け合うことになるのだった。
* * *
アリサは息を呑み、星図を強く握りしめた。
震える足を踏み出すたび、胸の奥で星の声が呼びかける。
「進め……進むのよ……」
月光が差し込む森の切れ間で、ゲルンの背中が大きく見える。
その存在に守られるように、アリサは再び前へ走り出す。
「ルキオ……無事でいて……」
小さな祈りが唇を離れ、夜気に溶けていく。
後方でゲルンが唸り声を上げ、斧が空を裂く音が響く。
「巫女よ、道を急げ!俺がここを押さえる!」
シエルが軽やかに身を翻し、火球が敵兵を包む。
月影団の兵たちの悲鳴が、木立に反響する。
アリサは、彼らの背に力強い決意を見た。もう迷わない。逃げない。
星に選ばれた自分として、生きる。
星は語る。
月は見守る。
そして選ぶ者は、運命を超える勇気を持つ者のみ――。
森を駆け抜けるアリサと二人の仲間たち。
これから先に待つのは、闇より深い謎と幾千の戦い。
だが、その先には、きっと新たな夜明けが待っている。
星の導きを胸に刻み、アリサは前を見据えた。
(第3話『蒼い残響と誓いの剣』へ続く)
本日も読んでいただきありがとうございました。
いよいよ物語は大きく動き出します。明日、第3話を投稿予定です。
そして第4話からは、毎週木曜更新に移行します。
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