黒い呪印、崩壊する塔
「……」
エルフは空気の揺れを感じていた。
呪印を取り上げられていても、魔力の流れくらいは理解できる。
その中で大きな魔力が複数。
「……王を、怒らせたか」
軽くため息を吐いた。成功するとは思っていなかったが、あのオレリアス王をここまで怒らせるとは。
これは多分、本気。
ともすれば、ドラゴンさえも召還しているに違いない。そうなればいくら魔力耐性に優れたものであっても、簡単に消し炭に変えられる。
エルフの閉じ込められている塔の壁よりも、よほど強固なものである。
「……」
名前さえ、すでに曖昧。顔もそこまで特徴のない転生者だった。
ただ、こんな救う価値のないエルフの一人に固執して、王に歯向かいそのまま炭にされたのならば、それを憐れむ程度の感情は湧いてくる。
「ああ」
小さく声を吐いて、そしてせめて意味のない祈りの言葉を告げようとした、その時だった。
「よかった! ここにいたんだね!!」
「……貴様は」
「カナタだよ! 忘れちゃった?」
祈りの言葉をかけようとしていた相手が目の前にいた。息を乱して額に汗を浮かべて、なぜかひどく満足そうな笑みを浮かべている。
「いや」
名前も顔も曖昧だったが、完全に忘れたわけではない。
そういう意味を込めて。エルフは否定の言葉を口にした。すると、何かを勘違いしたのか、カナタはぱあっと顔を赤らめて何度も頷いてから、何か黒い塊のようなものを差し出した。
「だったらよかった。呪印、だっけ? あったよ! だから、ほら、一緒に行こうよ!」
「……それが、呪印か」
カナタが握りしめているそれは、明らかに子供の落書きのような拙いものだった。優美さのかけらもない。どこもかしこもトゲトゲとしていて、黒いインクのようなものが影のように渦巻いている。そんな引き伸ばしたヒルのような物体を、カナタは差し出しているのである。
「……うん。頑張ってみたんだけど、なかなか王様のように上手くいかないや。でも、これで魔力はきっと出せるからさ。受け取ってよ」
「……」
エルフはわずかに思案する。
だが、その瞬間、ズズッ、と党全体が揺れるような不気味な音が響き渡る。
「あ、まずいかも。巻いてきたつもりだったけれど、さすがにエルフさんのところに行くこと自体は、きっとばれているはずだから……見当たらなかったら、さすがにこっちに来るよね」
カナタはいいことになったとでも言いたげに、少し頭をかいて困ったように言った。
そこで覚悟ができた。
「よい」
「え?」
「ならば、首筋にそれを当ててみせよ。もしも本当にそれが呪印であるというのであれば、それだけで私の体に勝手に収まる」
エルフはそういいながら、その白い首筋を差し出してみせた。
長い耳の下の首筋。鎖骨の浮きでたその細い場所を示す。
「はは、そうこなくちゃ」
それにカナタは笑って軽くその黒いものを押し当てる。
「く……う……」
わずかにやけつく感覚。皮膚の焦げるような匂いと、しかし、それを受け入れていく身体が、その痛みを簡単に癒していく。途切れていた魔力の回路がまた繋がれ、そしてエルフの身体を駆け巡っていく。
「ん……っ!」
声を上げる。
高い音がして、鎖がはじける。久方ぶりに戒めの解かれたその体で、エルフは前のめりに崩れ落ちる。
「ああ、よかった。ちゃんと鎖外れたみたいだ」
「そのようだな」
ずっと拘束されていた、あまり力の入らない手で、何とか起き上がろうとしながらもエルフ はカナタを見つめる。カナタは少しだけ考えた後、手を伸ばした。
「だったら、急ごうか。王様が来ちゃうからさ。ドラゴンもいるんだよ」
「……どれだけヤツを怒らせたのだ、貴様」
エルフは思わずカナタを胡乱気に見つめた。
普通にエルフを返せと言うだけであれば、そこまで怒るような王ではない。
そもそも為政者として冷静に立ち振る舞うことを求められている。そういう教育を施された男だと、エルフ自身も数回言葉を交わした程度だが分かっている。
だが、そんな男がいきなりドラゴンを召喚するのであれば、この男は相当なことをしたに違いない。
「下からはもう気がつかれているだろうし……ここからなら飛び降りるとか、かな? ねえ、魔法でどうにかできたりする?」
カナタはそのまま窓に近づいて、下を覗き込む。ここからなら、そのまま王宮の奥庭の方へ行けるはずだ。そしてその先は国の秘宝のおさめられている国庫へと繋がっていた。
城下町へと続く正門とは正反対の場所である。
「そんなことは必要のない高さだろう」
窓に近づいたエルフも迷うことはなく、カナタの手をつなぐ。
「へえ、じゃあエルフさんがそう言うなら!」
そして、そのまま二人は王宮の庭の方へと飛び降りた。
その瞬間、炎に包まれ轟音をあげて塔が大きく崩れ落ちた。
「それで……ドレイクが攻撃する前に崩壊する塔から二人とも逃げ出して、行方知れず、と?」
「は、はい……明らかにエルフが逃げた形跡はありましたが……ですが、その先の足取りはつかめず……大変申し訳ございません!!」
顔を青ざめさせている騎士団長の報告を聞きながら、オレリアス王はじっと塔を見上げた。
「よい。我がドレイクの力の行使のため、兵士たちを退けたのだ。ケガ人がなければ、それでよい」
「は、それは警備の者たちは全員無事です!」
その先には、大きく先端が抉れたような塔の残骸がある。その断面は焼け焦げ、溶けていてドラゴンが炎のブレスを吐いたことがわかるかのようだった。
「魔力を行使した形跡はなし、か」
あの得体の知れない人型の「何か」といたのだ。てっきり大魔法などと呼ばれるような魔法を使って脱出したのかと思った。そうなれば足取りは簡単につかめる。それほど太陽の魔力を放出した後には、確実にその痕跡が周囲に飛び散る。それを追いかければ、どこへ逃げたのかもわかるものだと思っていたのだが、どうにもその形跡がない。
「魔法壁さえ乗り越えるような存在だ。こちらの知らない魔法を使用している可能性もある」
「……は、はい」
「国中で転移魔法を使用していないか。その調査を行え。また、国外逃亡のリスクを考えて、すべての国境を閉鎖し、エルフと怪しげな男。その両名がいないかの捜索を。またこの城下の門も閉ざすがいい」
「かしこまりました」
そこまで命令されれば、騎士団長も拒否することはできない。恭しく頭を下げて、すぐに王の命令を果たすべく、小走りに去っていく。
「さて……どこへ行ったか。小賢しい化け物め」
オレリアス王はそういいながら、周囲の気配を探っていた。