7棺に灯る火
妻。
数年前、フレアが言っていた。
最初に付き添ってくれたサポート職員と、今は同棲していると。
その時はただの世間話のように聞いていた。
でも、まさかそれが、アレンだったなんて。
知らなかった。
知っていたら――いや、知っていたとして、何が変わっただろう。
あゆみの心は、深いところで静かに軋んだ。
「彼女は、最期は衰弱して……あなたと子どもを愛している、と言っていました」
アレンの瞳に浮かぶのは、深い絶望。
けれど、その奥にほんの少しだけ――安堵のような、救われたような光が混ざっていた。
「マダニ様が、看取ってくださったのですね。魔物に遺体を荒らされるような最期でなかったことは……本当に、幸いです」
その言葉が、胸に刺さった。
――看取った。
フレアの最期。
弱々しく、自分の子を想い、夫への言葉を託して消えた命。
それを目の当たりにしながら、あゆみは何もしてやれなかった。何一つ、報いることができなかった。
「この部屋に、ずっと……一人だったけど、彼女が来て、少しだけ……救われた気がしたんです」
あゆみは、ぽつぽつと言葉を継ぐ。
アレンは真剣な眼差しで耳を傾け、わずかに表情を曇らせながらも、最後まで話を遮らなかった。
「《再生の燈火》を……この部屋で使っちゃったんです。外に出るたび、死んで……ここに戻る。それを繰り返して」
声が震えていた。
けれど、涙は流れない。
もう流す力すら、ないのだろう。
アレンは黙っていた。
しかし、彼の沈黙は非難ではなく、重たい現実を静かに受け止める時間だった。
あゆみの視線が、再びフレアの亡骸へと移る。
――この人は、愛されていたんだ。
探しに来てくれる人がいた。
命を賭けてでも、迎えに来るほどに。
それが、あゆみの心をじわじわと蝕んでいく。
自分には、そんな誰かがいただろうか。
探される価値が、自分にあっただろうか。
アレンは静かに腰元の袋へ手を伸ばした。
それは外見こそ小さな革袋だったが、明らかに魔法がかけられており、中には常人の想像を超える量の物が収められているようだった。
彼が取り出したのは、包みにくるまれた携行食と、水をたっぷりと湛えた頑丈な水筒だった。
「あの……食べられますか?」
問いかけに、あゆみは無言で頷いた。
震える手で包みを受け取り、口元に運ぶ。
唇に触れたのは、懐かしい――いや、もはや夢の中でしか味わえなかった感覚だった。
何年ぶりだろう。
魔物の体液や、自分の血ではない液体で喉を潤したのは。
焼けるように乾いていた喉が、ようやく人間としての温もりを取り戻したようだった。
食べ物も、温かくはないが、確かに「味」があった。
――これはきっと、フレアのために持ってきたものだった。
そんな思いが、喉を通る幸福の隣で、静かに胸を締め付けた。
少しだけ体に力が戻り、呼吸が整ってきた頃、アレンが再び口を開いた。
彼の手には、淡い光を放つ二つの水晶が握られていた。
「……これがあれば、ダンジョンから脱出できます。最近開発された魔導具で、帰還の水晶と呼ばれています」
光の粒が揺らめく水晶。
それはまるで、外の世界への道標のようにも見えた。
あゆみは、自然と目を奪われていた。
「ただ……この階層で使えるかは、試してみないと分かりません。理論上は、ダンジョン内どこからでも帰還可能なはずなのですが」
アレンの説明は、落ち着いていて、どこか祈るような響きを含んでいた。
――ふたつの水晶。
あゆみは、瞬時に理解した。
フレアのために。
彼女がもし生きていたら、と、アレンはそれを二つ携えてきたのだ。
開発されたばかりということは、それは高価な魔導具に違いない。
普通なら、失われたかもしれない命にそこまでの投資はしない。
生存の確証もないのに、それでも彼は、二つの水晶を手にしてここまで来た。
――それだけ、彼女を愛していたんだ。
あゆみの胸の奥で、小さく鋭い棘が刺さる。
たとえ恋と呼ぶほどでもなかった、淡い想いだったとしても、
自分の中にあった感情が、ゆっくりと、静かに壊れていくのを感じた。
彼女がいたから、彼はここまで来た。
彼がいたから、彼女は絶望の中でも、愛を語ることができた。
――あゆみには、誰もいなかった。
その事実が、再び、彼女の中の何かを冷たく染めていった。
アレンは、光を放つ一つの水晶を掌に収めると、強く握りしめた。
その瞬間、水晶の内部が淡く輝きはじめ、部屋全体を柔らかく照らす。
光は波のように広がり、空間を包みこむ。
希望の光。
脱出の兆し。
あゆみが息を呑む中――光は、やがて静かに、何事もなかったかのように収まった。
「……発動、しない……?」
呆然とした声を漏らしたアレンの瞳に、次第に焦燥と混乱の色が宿っていく。
彼は震える手で、もう一つの水晶に魔力を込めた。
しかし、それも結果は同じだった。
ただ静かに輝くだけの、無力な光。
まるで、灯りだけが残った無意味な照明器具に成り下がったかのように。
「なぜだ……なんで……ッ!!」
アレンの声が、部屋に響いた。
祈りのような言葉が怒りへと変わり、怒声へと変わる。
握った水晶が砕けんばかりに、彼の指に力がこもっていた。
彼の思考が崩れていくのを、あゆみはただ黙って見つめていた。
――フレアが死んだ。
――帰る手段もない。
――残された我が子は、地上で独りきり。
その現実に押し潰されたアレンの理性は、音を立てて崩壊していった。
そして、彼の悲しみと怒りの矛先は――
すべて、あゆみに向けられた。
「お前が、ここにいなければ……ッ! お前さえいなければ、彼女は――ッ!」
あゆみは何も言わなかった。
言えなかった。ただ、殴られ、斬られ、罵られ、蹴られ、再び蘇る。
アレンはあゆみを何度も何度も部屋の外へ追い出し、出入り口を封じた。
飢えた彼は時に、餓死寸前の自分を保つため、あゆみの肉を口にすることすらあった。
それでも、あゆみは死ぬたびに蘇り、その部屋へ戻ってきた。
――終わりは来ない。救いも、贖罪も。
そう思いはじめた、ある日のこと。
あゆみが、いつものように蘇生し、その部屋に戻ると、そこに彼の姿があった。
アレンは、冷たい床の上に静かに横たわっていた。
喉には、自らの剣が深く突き刺さっていた。
床に散った血の中に――震える手で書かれた、いびつな文字。
「すまない」
たったそれだけ。
誰に向けた言葉だったのかは、分からない。
フレアにか。
地上に残した子どもにか。
それとも、何度も傷つけたあゆみにか――
現在、あゆみは、もう黒く滲み、かすれて原型を留めないその文字を見つめていた。
その言葉の前で、長い時間、ただ黙って座っていた。
体に宿る鼓動だけが、静かにその空間に響いていた。
アレンの亡骸のそばで、あゆみは静かに膝を抱えていた。
冷えた空気が、死の気配とともに張り詰めている。
もう何度考えたか分からない。
何度、死に、何度、蘇ったかも――
あゆみはゆっくりと目を伏せたまま、思考を巡らせていた。
……このダンジョンは、生きている。
それはもはや比喩ではない。
土地の魔力を吸い、内部に入り込んだ冒険者の命を糧に、少しずつ、しかし確実に成長し続ける存在。
森の奥に隠れるようにして長く存在していたこの古いダンジョンは、もはや意志を持つ“生き物”のようだった。
そして。
……この階層から急に難易度が上がるのは、餌を引き込んで、逃がさないためじゃないのか。
強力な罠、形を変える構造、異様に強い魔物たち――
まるで一度取り込んだ“獲物”を、完全に消化するための仕掛けのようだ。
そしてあゆみが持つ《再生の燈火》
ダンジョン内でのみ力を発揮する奇跡の道具。
それが“蘇り”の力を行使するたび、発動のための“何か”が必要であることは明白だった。
――もしそれが、ダンジョンから吸い上げた魔力だとしたら?
あゆみは、震える指で胸元に手を添えた。
未だに鼓動を刻み続ける心臓は、自分の意思ではない力によって動かされているような気さえした。
私は……ダンジョンの力をダンジョンで死んでいった人間の命を使って生きているのではないか。
繰り返される死と再生。
死ぬたびに糧を奪い、再生の度に力を吸い続ける――
まるで、ダンジョンに巣食う“寄生虫”のように。
「……私が、みんなを殺したんじゃないの?」
声に出してみても、答えは返ってこない。
返事のない沈黙が、部屋に満ちていく。
ただ、冷たい床と、血の跡と、潰えた命の残り香だけがそこにあった。
あゆみは膝を引き寄せ、ゆっくりとまぶたを閉じた。
夢も希望も消えた世界で、彼女はなお、生を繰り返す。
そしてまた――扉は、開かれる。
重く軋む音とともに差し込んだ光が、薄暗い部屋の空気を震わせる。
埃と血の残り香に満ちた空間に、一歩、足音が響く。
勝ち気そうな切れ長の目。
母親譲りの鋭い視線に、父親から受け継いだ金の髪と、澄んだ青の瞳。
何故か確信を持って思える。
少女の顔に、両親の面影があった。
――フレアと、アレンの子。
あゆみは立ち上がることさえせず、ただ静かに、その姿を見つめていた。
神を、呪った。
《幸運》と《不運》という力を与えられたあの日から、自分が背負ってきた理不尽な巡り合わせ。
それは“代償”だったのか、それとも、知らぬ間に犯した“罪”の報いだったのか。
「あなたは……まさか……マダニ様?」
少女の声は、恐れと敬意が入り混じっていた。
伝承か、噂か、それとも――家族の記憶に語り継がれていたのだろうか。
「……そうよ」
あゆみは、静かに頷いた。
笑顔だった。
けれど、それは希望でも、歓喜でもない。
永遠に終わらない死の輪廻の中で、また一つ、出会ってしまった新しい“死”。
彼女はそれを、これまで幾度となく見送ってきた他の死と同じように、胸に刻む。
(これが私の運命なら……)
微笑みは、どこまでも儚く、あたたかく、そして――
終わりを迎えることのない魂の、静かな諦めのように揺れていた。
終わり