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6帰れない部屋

次も、戻ってきたのはもちろんこの部屋だった。

再び起き上がり、再挑戦する。


けれど、ダンジョンは出口を与えない。

道は変わり、敵は増え、罠はさらに複雑になっていく。



死ぬ。

蘇る。

そして、また死ぬ。



繰り返すうちに、あゆみの呼吸は浅くなっていった。


手の震えが止まらない。

魔石は尽き、剣の切れ味も落ちる。

蘇るたびに、傷は消えても、心が削れていく。



「出られない……」



呟いたその声は、かすれていた。

この部屋は、安全な牢獄だった。

彼女の《再生の燈火》が、命を繋ぎとめると同時に、外への道を断っていたのだ。


まるで、無限の罰のように。




(助けて、誰か――)



心の中で、初めて、そんな言葉が浮かんだ。

飲食もままならず、戦えば装備も資源もすり減っていく。

どれだけモンスターを倒しても、深層のこの階層では補給手段が存在しない。

次第にあゆみの体は衰え、意識は霞み、希望は音を立てて崩れ去っていった。



最初は「いつか出られるかも」と信じていた。

誰かが来てくれるかも、という甘い期待もあった。

だが、《再生の燈火》が繰り返し彼女をあの部屋へと引き戻すたびに、それらは薄れていく。

希望は残酷なまでに、先延ばしにされて、やがて意味を失った。



モンスターの牙に倒れた死。

毒に侵された死。

飢えと渇きによりゆっくりと訪れた死。

あるいは、自らの刃で終わらせた死。



あゆみは、何度も、あらゆる形で死んだ。

それでも、次の瞬間にはあの部屋に戻される。



それが現実の出来事であると示しているのが、この部屋に残る“痕跡”だった。



戦って倒した魔物の素材。

拾い集めたアイテム。

食べられないとわかっていながら保管した干からびた食料。

何度も使い捨てられた魔石の欠片。

折れた剣、ちぎれた布、血の跡。

どれも彼女の“過去の生”の名残だった。


そして、その片隅に冒険者の亡骸が、いくつも、横たわっている。



あゆみが訪れる前からそこにあったものも、あゆみが死を看取ったものもある。



その中の一体。

背丈も髪色も、見覚えがあるその遺体を見て、あゆみは膝をついた。



……フレア。



この世界で、唯一、友と呼べるような存在だった。

意識が鈍っていく中で、あゆみの思考はあの日に遡っていく。




それは、あゆみがこのダンジョンに囚われて何年かが経った頃のことだった。



あの日、衰弱した体を横たえながら、ただ時間の流れに身を任せていたあゆみのもとに、扉がゆっくりと開かれた。



立っていたのは、フレアだった。



痩せ、汚れ、傷ついた姿。

それでもその顔に浮かんだ笑みは確かに、あゆみの記憶にある彼女のものだった。



「……あんた、本当にここにいた……!」



彼女の目には涙がにじんでいた。



「あんたが戻らないって聞いて、まさかって思って、でも諦められなくて……」



道中、一緒に来ていたというフレアの恋人は、階層に入る前に怪我をして撤退したという。

だがフレアは、それでもあゆみを探すために、一人でここまで来たのだった。



「たまたま見つけたこの部屋にあんたがいるなんて、本当に良かった……後は協力して脱出しよう! それにしても、《再生の燈火》を持ってるあんたが、いったいどうして……」



そこで言葉を詰まらせたフレアの瞳が、あゆみの表情に気づいたのか、曇っていった。




「……《再生の燈火》を……この部屋で使っちゃったから……」



あゆみの声は掠れていた。乾いた唇がわずかに震える。



「ここに戻ってくるしかないの。この階層から出られなくて……何回も、何回も、何回も……」



その言葉を聞いたフレアの表情が、一瞬にして絶望に染まった。

目に浮かんだ安堵の光が、すぐに暗く沈む。



「この階層は……歩くたびに通路の構造が変わる。来た道に戻れない。しかも、魔物たちが異様に強い……」



あゆみはゆっくりと瞼を閉じた。

まるで、その全てを思い返すかのように。



「わたし……ここで何度も死んだ。喉が乾いて死んだこともある。モンスターに喰われて、病気で朦朧として……全部、何度も」


「でも、でもさ……!」



フレアが声を上げる。かすれながらも、かすかな希望にすがるように。



「強い魔物を避けて、二人で一緒に……出口を探せば……!」



だが、あゆみは首を振った。その動きは、どこか諦めに満ちていた。



「幸運、のはずのわたしが出られていないの。

フレアが、どの魔物と出会ったかは分からないけど……この階層にいる奴ら、ほとんどが……異常なの」



口にするたび、自分の言葉で現実がより明確に形を成していくようだった。


沈黙が落ちる。

魔力の灯りだけが微かに揺れ、二人の影を部屋の壁に長く伸ばしていた。


そして、あゆみはかすかに微笑む。

悲しみと、どこかで諦めた安らぎの混じる、静かな笑み。



「ごめんね、フレア……来てくれて本当にうれしかった」



その声に、フレアは返す言葉を失った。

肩にかかった黒髪が、ふるふると揺れていた。



それからの日々は、緩やかに沈む絶望の中にあった。



二人きりの小さな部屋。

魔物の侵入はなく、安全であるはずのその場所は、やがて棺のように静かになっていく。



会話はほとんどなかった。

それでも、ぽつりぽつりと、言葉は交わされた。



この世界の不思議な食べ物の話。

地上にいた頃に見た空の色。



元の世界、日本での暮らし。

雨の匂い。コンビニの肉まん。冬の電車。

話すたび、遠い過去に心が戻るようで、切なさが胸を刺した。



あゆみは時折、外に出た。


何かを探すように、這うようにダンジョンの迷路へと身を投じる。



魔物の素材、拾い集めたアイテム、壊れた武具――そうしたものを手に、あるいは手ぶらで、または血まみれの姿で戻ってくる。



そして、戻れなかった日には。



《再生の燈火》の光と共に、あゆみは再び部屋に現れた。



「マダニ……もう、そうやって……死んで……傷つくのは……やめてよ……」



床に横たわるフレアが、掠れた声でそう言った。

その目はもう、長い夜を見てきた人の目だった。

生命が、細く、風に吹かれる炎のように揺れている。



あゆみは、ただ黙ってフレアの横に座った。

この世界に来てから、誰とも心を許しあわなかったあゆみにとって、フレアは唯一の「友」だった。



だからこそ、自分だけならとっくに諦めていた未来に、まだしがみついていた。


フレアをこのダンジョンから、外へと還す方法はないかと。




けれど、時は残酷だった。

希望をつかむには、あまりに残酷で、無慈悲だった。


ある日、あゆみが戻ってきた部屋で、フレアはか細い声を紡いだ。



「あんたが、責任感じるかと思って……言ってなかったけど……」



あゆみが息をのむ。フレアの目は焦点を定めぬまま、天井を仰いでいた。



「あたし……子ども、生んだんだよ。マダニが……このダンジョンに囚われてから……どのくらいだっけかな。

この捜索が、復帰後……初めての探索だったのに……」



それは、告白ではなく、最期の言葉だった。




「あの子に……旦那に……あたし……ごめんって……愛してるって、伝えて……もし……もし、あんたが……いつか……」



掠れるように続いた言葉は、そこでぷつりと途切れた。



「フレア?」



その身体は、静かに息を止めていた。

燈火の揺らぎだけが、部屋に残る。





あゆみの意識はふと現実に引き戻される。

乾いた空気と薄暗い石の部屋。



そして次は、彼女の視線は静かに、部屋の一隅に横たわる骸へと向けられた。



――アレン。




すらりとした体躯。

面影だけを残す骸に、あゆみはそっと膝をつく。

骨ばった輪郭に指先を伸ばすことはなかった。

触れてしまえば、この現実がただの記憶や幻想ではないと、はっきりしてしまう気がしたからだ。



彼は、やはり自分とは違っていた。

骨格から、歩き方から、言葉の端々まで。

だからこそ、初めて彼に「大丈夫ですか」と言われたとき、ほんの少し胸が温かくなったのだ。


あれはまだ、あゆみがこの世界に来て間もない頃の話。

それから何度かのやり取りがあっても、距離は大して縮まらなかった。


でもそれでも、あゆみは彼のことを覚えていた。





そして彼がこの階層に現れた、あの日のことを思い出す。


あゆみが数日に一度の探索に出ていた時、細い通路の先で剣を振るう人影を見つけた。

荒く息をつき、泥と血にまみれたその男は、目の前の獣型の魔物に押されていた。



一瞬の逡巡ののち、あゆみは駆け出していた。



「そこの通路を……右に、走って!道が、変わる前に!」



久しぶりに出した声はかすれていた。

喉が乾いて、うまく言葉にならなかった。


だがその声は、届いた。

彼は顔を向け、一瞬の驚きと安堵を浮かべ



そして、頷いた。



あゆみは魔物の視線を自分に引きつけるように、その場を駆ける。

足を滑らせながらも、魔物の真正面へと飛び込んだ。


突き立てられる牙。

首筋に走る熱と、皮膚を裂かれる鈍い痛み。


それでもあゆみは、彼の背中が通路の奥に消えていくのを見届けてから、ゆっくりと目を閉じた。



――よかった。



あゆみは思った。

獣型の魔物は、一瞬で終わらせてくれるから、まだ“楽”だ。



蜘蛛のような魔物は毒を使い、時間をかけて肉を溶かして食らうから……あれは、どうしても苦手だった。



次に目を覚ましたのは、例の部屋。

燈火が灯るあの場所。


再び、あの部屋。



身を焼かれるような激痛はもう何度目かも分からない。

だが今は、その痛みすら感じない。

ただ、体が戻り、心がまだ置き去りになっている感覚だけが残る。



ぼんやりと上体を起こしたあゆみの耳に、微かな足音が届いた。

振り返ると、部屋の中に立っていた男が、気配に気づいてこちらを見る。



――アレン。



あの面差し。

だが、年月と疲労が刻まれた表情は、かつてあゆみが憧れを抱いた彼とは、少し違っていた。

それでも、まぎれもなく彼だった。

息をのむあゆみの前で、アレンは音もなく膝をついた。


その先にあるのは、一つの亡骸。

痩せ細った手。枯れた唇。



「妻は……フレアは……」



震える声で名を呼ぶアレン。

その言葉に、あゆみの心は一瞬で凍りついた。

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