3名も知らぬ炎の呼び声
幸運と不運。
その両方を抱えるこのスキルは、まだ謎ばかりだ。
けれど、少なくとも――
“生きている”という確かな実感が、今、ここにある。
冒険者としての生活が板についてきたとはいえ、あゆみの日常には、ぽっかりとした空白が残っていた。
ギルドに行けば声をかけられる。
戦利品の鑑定や報酬の受け取り、依頼の確認。
けれど、それはあくまで“業務”でしかない。
「今日も良い成果でしたね、マダニ様」
受付嬢の柔らかな笑み。
「次はさらに深いダンジョンへの挑戦も視野に入れてみては?」
そんなふうに言ってくれるのは、ありがたかった。
だけどふと、彼女は思うことがある。
この人は、私に“個人として”話しかけてくれているのだろうか。
それとも、ただの仕事として?
受付のひとつとして?
最初にダンジョンへ同行してくれたアレンの顔が脳裏をよぎる。
優しかった。支えてくれた。
でも、それもやっぱり“職務”の一環だったのかもしれない。
――自分が特別だと思っているのは、自分だけなのかも。
冒険者の中には親しく話しかけてくる者もいたが、あゆみは自然と距離を取っていた。
誰かと関わることで、期待してしまうのが怖かった。
だから、その日受付前で声をかけられたときも、最初は少し身構えた。
「ねえ、あんた、転生者でしょ。名前、マダニって言った?」
振り向けば、見た目にも明らかに“日本人”と分かる女性が立っていた。
歳は自分とそう変わらない。
肩までの黒髪に、どこか勝ち気そうな切れ長の目。
装備は無駄がなく実用的で、丁寧に手入れされているのが分かった。
「……はい。あの、どこかで――」
「いや、初めて。私はフレア。10年くらい前にこの世界に来たの」
「じゅ、10年……」
あまりにさらりと言われて、あゆみは思わず声を漏らした。
そんな反応が面白かったのか、フレアはからかうように笑った。
「まあ慣れたもんよ。……てか、あんた、マジで“マダニ”って名乗ってんの?」
「はい。一応……それが名前なので」
「あははっ、真面目~。そっか、苗字名乗るタイプね。久々に見たわ」
その笑いには、軽やかさと、妙な親近感が混ざっていた。
嘲笑ではない。むしろ、同じ立場にいるからこその温度だった。
「あたしはせっかくだから、名前は変えた。好きな名前、選べるんだから、自由でいいじゃん?」
「そう……かもしれませんね」
ぎこちなく笑ったあゆみの心に、少しだけ風が吹き抜けたような気がした。
この世界に来て、初めて“友達”のような言葉を交わした気がしたからだ。
ふとした間に、フレアがぽつりとこぼした。
「そういえばさ、あたし、最初についてくれたサポート職員と今付き合ってんのよ」
「……え?」
「っていうか、ほぼ同棲。最初はこっちも人間関係なんて面倒って思ってたんだけどね……変わるもんだよ」
そう言って微笑んだフレアの横顔は、穏やかで、どこか幸せそうだった。
あゆみは、その横顔を眺めながら、心の奥にまだ残る“アレン”の面影を思い出していた。
――あれは、やっぱり仕事だったのかな。でも、あのとき、優しかったのは本当だったよね。
そんな思考がふと胸の奥でくすぶり始める。
いつも一人だった。孤独に慣れていた。
でも、たまに、こうして誰かの声が届くと――
知らず知らずのうちに、何かが動き始めるような気がした。
それ以来あゆみとフレアは出会えば言葉を交わすくらいの関係になっていた。
それは、いつものように稼ぎに訪れた中層ダンジョンでのことだった。
薄暗い通路の先――不意に足音が増えた気がして、あゆみは立ち止まる。
視界の奥、岩陰から現れたのは、鋭い牙と目を持つ狼のような魔物。
一匹、また一匹……やがて、五体の群れが音もなく取り囲む。
「……ちょっと多いかな」
この階層にしては、手強すぎる相手だった。
けれど、あゆみは冷静だった。
それは、この世界での経験を重ね、装備を整え、そして――幸運に恵まれてきた証だった。
腰のポーチから、小さな魔石を取り出す。
蒼く光るそれを、群れの中心へと投げつけた。
ぱん、と乾いた音と共に、眩い閃光。
込められていたのは《麻痺》の魔法。
瞬間、魔物たちのうち三体がその場に崩れるように倒れた。
だが、反応の良かった二体は、身を翻してあゆみの元へと迫ってくる。
――くる。
だが、牙も、爪も、届かなかった。
あゆみの周囲に、ふわりと光の膜が張られる。
ダンジョンで拾った自動展開型の結界装備が、魔物の一撃を見事に防いでいた。
「……ありがとう、ホント優秀」
息を整え、右手の剣を構える。
この剣もまた、彼女の《幸運》が呼び寄せた品だ。
魔力を帯びた鋭利な刃は、彼女の腕でも驚くほど軽く振るえる。
一体、また一体――
冷静な視線と動きで、あゆみは魔物たちを切り伏せていく。
足元には、数分前まで牙を剥いていた魔物たちが転がっていた。
「ふぅ……強かったけど、まあ想定内……かな」
思わずつぶやいたその言葉は、どこか苦笑まじりだった。
この程度の“ちょっとした不運”は、もはやあゆみにとって日常の一部になっていた。
むしろ、何か特別な出来事の前触れのような――そんな予感すらある。
そして、その予感は外れなかった。
少し先の通路。
繰り返し通ったはずの場所で、彼女の目は異変に気づく。
岩壁の一部――その亀裂から、かすかに淡い光が漏れていた。
「……こんなの、前はなかった」
近づき、指で岩の表面をなぞる。
触れた途端、重なる岩がずるりと動いた。
静かに開かれたその先には、今まで見たことのない空間が広がっていた。
そこは、密かに封じられた隠し部屋だった。
天井が高く、空気は澱んでいる。
だが、古びた宝箱がいくつも並び、かすかに魔力の気配が漂っていた。
一つずつ蓋を開けていく。
中から現れるのは、保存状態の良い武器、精緻な巻物、輝く鉱石……
明らかにこの階層のものではない。
そして、彼女の手がある一つの箱を開けたとき。
――それは、そこにあった。
掌に収まるほどの小さなランタン。
金属の骨組みに、澄んだガラス。
その中心には、橙色の小さな炎が、風もないのにゆらりと揺れていた。
見た瞬間、息を呑む。
目が、離せなかった。
炎の揺らぎが心の奥をじわりと溶かしていくような、不思議な感覚。
不気味さではない。むしろ、それは“惹かれる”何かだった。
「……これは、なに……?」
そっと手に取り、表面に刻まれた不明の文字をなぞる。
意味はわからない。けれど、この道具がただの装飾品でないことは直感的に分かった。
《再生の燈火》
その名を、彼女が知るのは、もう少し後のことだった。