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2冒険者生活、はじめました

翌朝。

あゆみ――ギルドの人々からは「マダニ様」と呼ばれるようになった彼女は、街の中心にある冒険者ギルドの前で立ち止まっていた。


まだ朝靄の残る石畳の道に、革靴の音がひとつ。

身につけた革のジャケット、腰に吊るしたショートソード、使い慣れないポーチの重み。

すべてが“自分のもの”としては、しっくりこない。


冒険者になるにしろ、ならないにしろ。

一度は戦いを経験すべきです、と微笑んだ受付嬢の言葉に、あゆみは逆らわず頷いていた。


それは、素直だからでも、積極的だからでもない。

ただ、言われた通りにしておけば、失敗しても他人のせいにできるから。


自分の判断で道を選び、後で何かが起きたとき、「あのとき違う選択をしていれば」と悔やむのが嫌だった。

何も決めない。

決めるふりだけして、生きる。

そういう生き方を、彼女はもう何年も続けていた。



「おはようございます、マダニ様。本日は初心者向けのダンジョンへご案内いたします」



柔らかい声が、思考を断ち切る。

声の主は、ギルド所属のサポート担当――アレン。

すらりとした体格に軽装の冒険者服を着こなし、無駄のない動きで歩み寄ってきた彼は、朝の光を背に笑っていた。


その笑顔は、商売用のものでも、表面だけのものでもない。

親しみと誠実さが滲んでいて、思わず気を抜きそうになる。




歳は、あゆみと同じくらいか少し上だろうか。

陽に透けるような明るい金の髪と、澄んだ青い瞳。

かつて日本で出会ったどんな外国人とも違う、どこか透明感のある顔立ちに、ああ、本当に異世界なんだな――と、遅れて実感が込み上げた。




「初めての戦闘は、誰でも緊張します。無理はなさらず、僕を信じてください」




その声は穏やかで、どこか子どもをあやすようだった。

不思議と、嫌な感じはしなかった。




「……よろしくお願いします」




自然と返せたのは、アレンの空気が心地よかったからだろう。

心がまだ“この世界”に馴染めていないあゆみにとって、それは、仄かな救いだった。


「初めての戦闘は、誰でも緊張します。ですが、僕が補佐に入りますので――ご安心を」



アレンの声は、迷いを断ち切るようにまっすぐだった。

あゆみは小さく頷いたものの、内心は不安と戸惑いでいっぱいだった。


元いた世界で、人と争うことすら避けて生きてきた。

喧嘩なんて見たことがあっても、自分が関わったことなんて一度もない。

そんな自分が、“魔物”と戦うなんて、本当にできるのだろうか。


けれど、引き返す理由もなかった。


あゆみの中に、「やめたい」と言い出すほどの意思も、「戦いたい」と願うほどの情熱も、どちらもなかったから。




案内されたのは、街の外れにある初心者向けのダンジョン。

苔むした石壁に囲まれた、地面がほんのり湿っている洞窟のような構造。

入り口を抜けた瞬間から、ひんやりとした空気に包まれる。




「この世界では、魔力が自然に蓄積する場所にダンジョンが発生します」


「自然に……できるものなんですね」


「ええ。そして、蓄積した魔力が多いほど、ダンジョンの構造も深く、魔物も強力になります」


「じゃあ……ここは、そんなに強くないってことですか?」


「はい。このダンジョンはすでに最奥まで踏破され、危険度は低い部類です。……とはいえ、油断は禁物ですけどね」




微笑むアレンの瞳は真っ直ぐで、曇りがなかった。

目を逸らしてしまったのは、きっとその眩しさのせい。


仕事以外で、こんなふうに人とちゃんと話すのは、どれくらいぶりだろう。

でも、彼にとっては仕事としての同行なんだ、と自分に言い聞かせる。




そんなことを考えているうちに、アレンがふいに立ち止まった。




「……前方に、ゴブリンが一体。棍棒装備。あれが最初の相手です」




指さされた先、薄暗い通路の奥。

岩陰に潜んでいた小柄な影が、こちらの気配を察知したのか、ゆっくりと顔を覗かせた。


緑の肌、黄色い目、ぎざぎざの牙をむき出しにして、喉の奥で唸っている。




「恐れず、一歩踏み出してみましょう」




あゆみの心臓がひとつ、大きく脈を打った。

足がすくみ、呼吸が浅くなる。




けれど、その隣にはアレンがいる。

初めての世界で、初めて出会った――信じてもいいのかもしれないと思わせてくれる人が。


あゆみはゆっくりと、剣を握りしめた。


体が、強張っていた。

剣を握る手に力が入りすぎて、指先がかすかに痺れる。

足は地面に根を張ったように動かず、ただ震えていた。


「大丈夫。右に回り込んで、腕を狙って」


アレンの静かな声が、背中を押す。

その言葉に導かれるように、あゆみは一歩を踏み出した。


重たい足を引きずるように、ぎこちなく――けれど確かに、前へと。


そして、剣を構える。

教えられたとおりに、深く息を吸い、タイミングを見計らって――


振り下ろす。


鋼の刃がゴブリンの肩に食い込む感触。

鈍く、湿った音と共に血飛沫が舞った。


ゴブリンが悲鳴を上げ、棍棒を振り上げる。


だが、その一撃が降りかかるより早く、アレンが素早く間に割り込んだ。


弾かれた棍棒が虚空を打つ。



「今です、マダニ様!」



その声に、あゆみの腕が再び動いた。

勢い任せの二撃目。だが、それは確かにゴブリンの胸を裂いた。


ぐらり、とよろめき、ゴブリンの体が崩れ落ちる。

石の床に倒れたそれは、もう動かない。




「……やった、の?」



呟いたあゆみの声が、わずかに震えていた。



「はい。お見事です。初戦でこれだけ動ければ、十分すぎますよ」



アレンの優しい声に、あゆみはようやく肩の力を抜いた。

深く、呼吸を整える。


足元に転がる魔物の死骸を見下ろしながら、胸の奥にほんのわずかに、灯るものを感じた。

怖かった。動悸が止まらなかった。けれど、それでも自分の手で“何かを為した”実感が、確かにそこにある。




ゴブリンの腰には、小さな袋が括りつけられていた。

中には、金色の細工が施された指輪と、淡く光る魔力結晶。


「これは……なかなか貴重なアイテムですね。この階層では、まず見ません」


アレンが目を見開き、驚いたように言う。


「やっぱり、《幸運》のスキル効果、ですかね」


あゆみが答えようとしたその瞬間。


「マダニ様、下がって!」


鋭い声が飛ぶ。

通路の奥、岩陰から新たな影。


またしても、ゴブリン。こちらに気づき、棍棒を振りかざして突進してくる。



「うそ……また!?」



動けない。心も体も硬直していた。

剣を構える間もなく、魔物が跳びかかる。



瞬間――アレンが間に割り込んだ。


銀の軌跡が走る。


鋭く放たれた剣閃がゴブリンの首筋を切り裂き、魔物は声もなく地に沈んだ。



「……ふぅ、間に合ってよかった」



アレンは剣を納め、くるりとあゆみのほうへ振り返る。



「このダンジョンで、この短時間にゴブリンが二体も現れるなんて、ちょっと不運でしたね。……ですが、私が一緒にいたことも“幸運”になりますかね?」



からかうような笑顔。

その無邪気さが妙に眩しくて、あゆみは思わず目を逸らした。




――心臓が、どくんと跳ねた。




鼓動が少しだけ早くなる。

それはきっと、戦闘の余韻だけじゃない。



(……なに、それ。ずるいって)



胸の奥に、ふわりと火がともるような感情。


それが恋なのか、憧れなのか、自分でもまだ分からない。


でも、確かに今――


この異世界での最初の“安心感”が、淡く温かく、彼女の心を満たしていた。


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