1そして世界はぐにゃりと歪んだ
夜勤明けの帰り道、間谷あゆみはコンビニの袋をぶらさげながら、ぼんやりと信号を眺めていた。
眠気と疲労が混ざり合う頭の中で、ふと昨日、郵便受けに入っていた封筒のことを思い出す。
――学生時代の友人から届いた、結婚式の招待状。これで今年に入って三通目だ。
今年で二十五歳。
いまだに定職に就かず、フリーターとしてコンビニや倉庫のバイトを転々とする日々。
そんな自分と、順調に人生を歩んでいるかのような友人たちの姿を比べて、胸が重くなる。
(結婚がすべてじゃないって、思いたいけど……。こんな生活に嫌気がさしてるのは、私自身なんだよなあ)
夢を追っているわけでもない。
かといって、どこかに就職するわけでもない。
ただ、何となく。これまで、なんとかなってきたから。
それが彼女の生き方であり、それしか知らなかった。
世間に置いていかれているような漠然とした不安。
その正体に目を向けることすらせず、あゆみは毎日を“やりすごして”きた。
冷えた夜風が、歩き出す背中をそっと押した――その瞬間。
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
次に目を覚ましたとき、彼女は草の上に寝転がっていた。
――あれ? 信号待ちしてたはずじゃ……。
目の前に広がるのは、どこまでも青い空。
頬を撫でる風は生ぬるく、草の匂いが妙に鮮やかに鼻腔を刺激する。
湿り気を含んだ土の感触、やわらかな草のクッション。
リアルすぎて、逆に現実味がない。
(夢だ、きっとこれ……)
立ちっぱなしで意識が飛んで、倒れたんだ。
あのまま気を失って、いまは休憩室の床の上とか。
昼も夜も働き詰めのバイト生活で、こういう“うっかり寝落ち”は何度かあった。
そうだ、これは夢。だったら、せめていい夢であってほしい。
ふと脳裏によぎったのは、子どもの頃によく遊びに行った自然公園。
どこか似ている。あの草の匂い、青空、静けさ。
あゆみは静かに目を閉じ、もう一度その記憶に身を沈めようとした。
その時だった。
「おーい、大丈夫かい、お嬢さん!」
甲高く、けれど人懐っこい男の声が、夢の中に割り込んできた。
びくりと肩を揺らして上半身を起こす。
声の主は、数メートル先に立っていた。
革のベスト、分厚いブーツ、腰には刃物のようなものが差されている。
その装いは、まるで中世の映画に出てくる村人か脇役の傭兵のようだった。
「……だ、誰……?」
あゆみの警戒をよそに、男はにっこりと笑った。
「魔物の出る草原にひとりで倒れてるなんて、運が悪い。いや、逆に助かったんだから運が良いのかもな」
男は手際よく彼女の様子を確認し、どこか怪我はないか、名前は言えるかとひとつひとつ確認してくる。
あゆみが戸惑いながらも答えると、男は満足げに頷いた。
「とにかく、このまま放っとくわけにもいかん。街まで案内してやるよ。俺は冒険者だ」
「冒険……者……?」
冗談かと思った。けれど男の目は真剣で、何より彼の服装や言動が、どこか現実離れしていた。
その道すがら、男はぽつぽつと話す。
このあたりの草原には魔物が出ること。街までそこまで遠くないこと。
そして――
「お前みたいに、突然現れる奴ってのが、時々いるんだよな。不思議と、みんな似たような服着ててさ」
あゆみは自分の服装――コンビニの制服とパーカーに視線を落とす。
「おそらく……転生者、だな。久しぶりに見たよ」
軽く言われたその言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
転生?それってつまり……そういう類の話?
小説やゲームの中だけの――あれ。
けれど、風の匂いも、足の裏に感じる地面の感触も、隣を歩く男の呼吸も、あまりに現実的だった。
まさか、と思ったときには、もうその“まさか”の中にいた。
連れて来られたのは、石造りの建物が立ち並ぶ街の一角。
その中でもひときわ大きく、存在感のある施設だった。
先ほどの男性。
冒険者を名乗った彼は、それを「冒険者ギルド」と呼んだ。
ゲームや漫画の中でしか聞いたことのないその響きに、あゆみはただ呆然とする。
木と石を組み合わせた重厚な扉。中からは武具の軋む音、誰かの笑い声、金属がぶつかる乾いた響き――すべてが現実離れしているのに、どこか生々しい。
受付で対応に出たのは、きちんとした制服を着た若い女性だった。
しかしその説明は、まるで役所の窓口のように淡々としていた。
――やっぱり、ここは“元の世界”とは違う。
そう実感するのに、十分すぎる対応だった。
話によれば、あゆみのようにふらりと“迷い込む”ように現れる者は、頻繁ではないが稀でもないらしい。
彼らは「転生者」と呼ばれ、その受け入れや対応方法もすでに制度として整っている。
それだけ、この世界には前例があるということなのだろう。
「まずは冒険者登録を行いましょう」
受付の女性は、やわらかく微笑みながら言った。
「転生者の多くは冒険者として生計を立てています。ですが、活動を強制するわけではありません。
これはあくまで、生活の初期支援を受けるための手続きと思っていただければ」
その言葉に、あゆみは静かにうなずいた。
成り行き任せのままここまで来たけれど、今は流れに乗るしかない。
「まず、お名前を教えてもらってもいいでしょうか?」
「……間谷です」
「マダニ様、ですね」
にこやかな笑顔のまま、女性は手元の帳簿に何かを書き込む。
その響きに一瞬だけ違和感を覚えたものの、あゆみは特に訂正しなかった。
名前よりも苗字で呼ばれることの方が多かったし、それが一番しっくりくる気がした。
「こちらの水晶に手を当ててください。あなたのステータスを確認します」
受付嬢は事務的な口調でそう告げた。
あゆみはよく分からないままに、水晶球の上に手のひらをそっと乗せる。
……ふわり、と指先が熱を帯びた。
数秒後、空中に淡く発光する半透明のパネルが浮かび上がる。
そこには、あゆみの名前といくつかの謎の数値群、そして――
《スキル:幸運/不運》
「なにこれ……?」
思わず漏れたつぶやきに、受付の女性がほんのわずか眉をひそめた。
「《幸運》はともかく……《不運》とは。珍しい組み合わせですね」
「……悪いこと、ですか?」
「いえ、高ステータスですし、問題はありません。転生者様には、こういった複合スキルをお持ちの方も稀にいらっしゃいますので」
説明は丁寧なのに、どこか慣れきっている。
まるで毎日何人もの転生者を相手にしているかのような、業務的な応対。
戸惑いを挟む隙間もないほど、流れるように事が進んでいく。
そのまま、ギルドから支給された“仮住まい”と呼ばれる簡易宿に案内される。
支度金として渡されたのは、ずっしりと重い銀貨の詰まった袋と、冒険者用の装備一式。
革のジャケット。
使い慣れないショートソード。
手のひらほどの小さなポーチ。
どれも新品同様で、触れる指先に馴染まない違和感が残る。
あゆみはベッドに腰を下ろし、じっと天井を見つめた。
――なにこれ。どういうこと?私、ほんとに異世界に来たの?
信じられない。でも、流れるように話が進んでるし。そして私も……なぜか納得している。
「……もしかして、これが《幸運》のスキルの効果だったりして?」
そうぽつりと呟いた唇に、自然と小さな笑みが浮かんでいた。
疑問も不安もあるけれど、それを脇に置いてしまえる自分の感覚が、どこか他人事のように思える。
流されるように生きてきた人生。
だとすれば――こんな風に始まる“新しい人生”も、案外悪くないのかもしれない。