三話① 嘘は裏切り者の始まり、正直者の終わり
例えばここに、虫も殺せないような少女がいるとしよう。
もちろん彼女の身体性能的には、虫を殺すことなど容易い。だが殺せない。なぜなら彼女はその性格が、温厚で臆病で内気だからだ。
そんな性格の少女が、ある日突然内なるサディスティックに目覚め、道端を歩く野良犬の腹を蹴り飛ばしたり、野良猫に石を投げたり、野良蛙を解剖したりし始めたとしよう。
もちろん彼女の周りにいる人はそのことを奇妙に思うだろうが、それは別に不思議なことではない。
周囲の人々はこう解釈するだろう
「もしかしたら、私が苦労を掛けさせてたのかな?」
「あの子も本当はこういう子なんだ」
「知らなかった」
大抵の混沌はこのようにして定常に戻る。人々は混沌を受け入れ、日常へと回帰していく。それが普通のこの世界の流れだ。多少の混沌では異常は起こらない。
しかして、それでも異常は起こる。これは何故なのか。
多少の混沌では異常が起こらない―――つまりはその混沌が、多少の物でなければ異常が起こるというわけだ。
現実に絶対にありえない、そんな事象が、混沌が起こってしまった時、軌道修正として異常が発生し、その異常を解決するために再修正は出動する。
そんな話を昨日聞いた眞弓は、しかし大した変化を見せない日常に、今日も溜息を吐いていた。
「これから毎日の放課後、旧校舎三階の空き教室に来るように」
吹雪が言ったこの命令をこなすだけで、果たして僕は日常を脱却できるのか。なんとなくだけどうまくいく気がしない。
昼休み、給食を食べて少しだけ瞼が下がりかけている眞弓は、校庭でドッヂボールをしている集団をなんとなく見つめていた。
そんな彼に接近する影があった。
「ねっ、眞弓くん、ちょっといいかなっ?」
「わっ」
その声は、明るく僕に話しかけた。僕は一気に眠気が飛んだ。
振り返るとそこには、白金色の髪を揺らした少女が居た。
虹崎美優、おとといの朝に僕を自転車で轢き、そのままの流れでニケツして登校、放課後の図書室で僕の記憶を消そうとしてきた少女。
そして―――
「眞弓君、この結社は俗に言う革命軍みたいなものだから、再修正の奴らにこことの関りがばれたら命の危険がある。ここの近くにいる再修正は虹崎と獅子谷だけだから、発言にはくれぐれも気を付けて」
―――今の僕と敵対する存在。
目の前で悪戯っぽく笑っている快活な少女が、僕の命を取りかねないなんて想像したくもないな。
しかし実際、彼女を見ているのだ。異常と相対し、僕を捕まえようと追いかけてきた彼女の事を。
それを踏まえて、あまり危ういことは言わないように心がけることにした。
「え、虹崎さん、一昨日ぶりだね」
「そうだねっ!通学路で轢いちゃったときはヒヤッとしたよ……って覚えてないよね…」
彼女がぽつりと漏らして「しまった」と思った。
「え、あ、うん。もちろん覚えてないよ?」
慌ててごまかしたが、それでごまかせる程、再修正は甘くはなかった。
「…覚えてたよね?」
「………」
ここで逃げ出しても一昨日の二の舞だ。だからといってどうすればいいのか分からないまま思考と行動が停止していると、虹崎は僕の腕を掴んで「ちょっと来て」と教室から連れ出した。
連れてこられたのは校舎一階、女子トイレ(女子トイレ!?)心の中でも平静を保てないのに、抵抗なんてしている余裕は無かった。
そのまま個室に連れてこられ、おまけにご丁寧に鍵まで掛けられてしまった。
「誰か助けて!襲われる!」
「それ、女子トイレだから声出しても逆効果だよっ」
果たしてそうなのか。確かに社会的に見て男性の方が痴漢をする割合は高いが、シチュエーション的に僕が被害者だと捉えてくれる聡明な女性の方はきっといてくれる。
そんな可能性の薄い希望の話は置いておくとしよう。
「あと、今はどれだけ声を出しても無駄。君はどこまで覚えているかな…いや、覚えてなくても言ってあげるねっ」
「眞弓くーん。あたしの事は覚えてるっスか?獅子谷ちゃんっスよー」
個室の扉の向こう側から声がする。間違いない。あの時僕が逃げるのを捕まえた獅子谷とかいう少女だ。
「あたしがいる限りこのトイレからは誰も出れないし入れないっスから、おとなしく虹崎さんの話を聞くっスよ」
「……分かった。じゃあ個室から出してほしいな。さすがに狭いよ」
「あーそうだねっ……って、一昨日も諦めた振りして逃げ出したじゃんっ。今日は絶対に逃がさないからねっ」
それは確かに分かったけれど、だからと言って僕の身動きを封じるために背後から抱き寄せる必要性は無いと思う。ちなみに中学二年生は第二次成長期真っ只中で、性の目覚めがある頃らしい。こんなことをされたら普通の中学生はどうにかなってしまうだろう。なんて、普通の中学生である僕は思った。
「分かったから、じゃあ早く話を始めてほしいな。虹崎さんは僕から何を聞きたいの?ちなみに僕の今日の下着の色は―――」
「おい!虹崎さんにセクハラすんじゃねぇっすよ!これからあんたのニックネーム“セクハラ”にしてやりますよ!?」
昨日も呼ばれたその名前だが、果たして女子トイレに男子を連れ込んでいる女子はセクハラを突き抜けて淫乱女じゃないのか。
言ったら怒られるから言わないけど。
「えっとね、少しだけ質問があるんだけど…まず一つ目、どうして記憶が無くなってないの?」
僕の頭の上から声がした。もちろん虹崎だ。もちろんと言えてしまうこの状況が怖いけれど。
さて、どうしたものか。吹雪たちの事を口外は絶対に出来ないが、きっと彼女がこうして質問をするという事は、嘘発見器だか何だかを仕込んでいる可能性が大だ。
「一昨日の放課後には記憶が不確かだったけど、朝起きたら鮮明に…その時から戻ってたかもしれない…かな」
「………ふうん。嘘じゃないっぽいねっ」
どういう原理で嘘か真かの判断をしたのかは分からないが、一応的外れではないことを言っておいて良かった。
「これは異常なのかな…それとも能力……?」
彼女はボソボソと呟いた。呟くと息が髪や耳に当たって少しだけくすぐったくなった。
「じゃあ二つ目、あの異常は君が起こしたの?」
「異常………兎鯨の事だったら僕は本当に何も知らない」
実際、どうして僕の前で彼女が異常ってしまったのかは分からない。昨日吹雪が言っていた様な”多少ではない混沌“を引き起こしたわけではおそらく無いからだ。少なくとも僕にその自覚はない。
彼女も僕の言ったことが真実だと分かったのか「なるほどねっ」とだけ言った。
「じゃあ最後の質問なんだけどっ」
思ったより簡単にごまかせるので、僕はすっかり慢心しきっていた。思い込んでいた。これ以上虚を衝かれることはないだろう、なんて。
「眞弓君、君は旧校舎で開かれている怪しい集まりについて何か知ってる?」
時が、確かに止まった。
いや、たった今チャイムが頭の上を通り抜けていったので、世界の時間は全く止まっていない。止まったのは僕の頭の中の時間だ。
しかしそれも一瞬、この状況を打開するために、脳細胞はかつてない程に働き始めた。
(まずい。まずい。まずいまずいまずい―――)
僕は、黙るのはもっとまずいと思い、とりあえず口を開いた。
「…知らない」
「………今度は嘘だねっ」
虹崎は明るくそう言った。
眞弓の心中はその真逆だったけれど。