二話② 非日常の始まり?
旧校舎というのは、かつて授業で使われていたらしい校舎で、今ではほとんど使われることが無くなって、もうそろそろ取り壊そうかと教員の間で話が出ているようなところだ。その度にその校舎を使っていた世代の方々が出張ってきて、地域と揉める原因にもなっている。
作りとしては、百年も前に建てられたとは思えないくらいしっかりしており、そのせいで教員たちが「老朽化で生徒に危険かもしれない」という、過去の建造物を壊すときの決まり文句的台詞が使用できずにいる。
いつか雉宮から聞いたことがある。
「旧校舎では怪しい連中が集まりを開いてるらしいぜ」
その時はただの噂で、一週間もしたら誰もそのことを忘れているだろうと思っていたが、ここでその伏線を回収するとは、なんて僕は勝手に感心しながら旧校舎入り口に立っていた。
校舎は思ったより奇麗だった。旧校舎の事を旧校舎だと認識するまでは、何か別の役割を持った建物だと思っていたものだ。
しかし、建てられて百年以上経つはずなのに、植物が壁を這っていたり、蜘蛛達が茶会を開いていたりなんてことは起こっていなかった。整備をしている方には感謝しかない。眞弓は虫が苦手なのだ。
彼は恐る恐るも無く、堂々と足を踏み込んだ。さすがに古い建物によくあるカビや埃っぽい臭いまでは消せていないようだったが、彼はそういう匂いが嫌いじゃなかった。
ギシギシと軋む音も流石にするようで、彼はその音に耳を傾けながらランデブーポイントまで歩いた。
中も、これがはるか昔に建てられた建造物であるという事を疑いたくなるほどに奇麗だった。ただ、ほんの少しだけ寂しい感じはするが。
「にゃ~ん」
唐突に、階段の先から鳴き声がした。人がいない代わりに猫がここを治めているのであれば、案外校舎は寂しくないのかもしれない。というか、猫が住んでいるという理由があれば旧校舎は取り壊されなくて済むかもしれない。なぜなら全人類、猫が好きだからだ。
しかし、階段を上った先で彼が見たものは、彼の期待を裏切るようなものだった。
「にゃーにゃーん…ん?めずらしいにゃあ、こんなところに演者が来るなんて」
「な…」
そこにいたのは猫ではなく、人だった。いや、もしかしたら人に成った猫の可能性もある。だとしたらその猫はきっと黒猫だったろう。彼女の黒髪がそれを暗示している。
「しっかたねーにゃあ…久方ぶりの来客に、すこしばかりサービスしてやるかにゃ」
彼女は…いや、その猫は、四足歩行で僕に近づいてきた。僕からしたら普通の女子中学生がにゃあにゃあ言って這い這いしながら迫ってきているように見えるので、この状況はあまり日常的ではなかった。間違いなく。
猫は、僕の足に胴をこすりつけて歩き始めた。
「ふふん、どうかにゃ?これには誰でもメロメロになっちゃうにゃよね?」
「………」
普通に怖い。
自分の頭がおかしくなったようにしか思えない。いや、きっとそうだろう。僕の視点でしか彼女は彼女として映っていないのだ。そうに違いない。
僕はすり寄って来た猫に手を伸ばして、その背を撫でた。これは間違いなく毛の感触ではなく、服の感触だった。続いて、猫の胴に腕を回して抱きかかえた。
「え、ちょっと待つにゃ。何をするつもりにゃ?…………ま、されるがままでいてやるがにゃ~」
僕は猫の背中に顔を近づけて嗅いだ。獣の匂いより柔軟剤の匂いがした。もしかしたら野良猫じゃないのかもしれない。
「ぎゃっ!こいつ何やってるのにゃ!?匂いを嗅ぐにゃ!」
突然猫がぺちぺちと僕の顔を叩き始めた。本当に嫌いなら今すぐにでも腕の中から跳んで逃げていくので、別にそういう事でもなさそうだ。
僕は猫を足の上で寝かせて、前足の肉球を触ってみた。これもどちらかというと手のひらを触っている感じだ。
「まじでこいつ…猫好きにゃ…?面倒くさい奴に捕まったにゃ…」
「うーん。多分こいつかなりばあちゃんかな?」
「誰が婆だ殺すぞ!」
猫はそう叫んで僕の腕の中から跳びだした。猫が僕の言葉を理解できるとは思えないので、見て、嗅いで、触った通り、彼女は人だったようだ。だとしたら訴えられても仕方ないことをしたのだけど。
僕は立ち上がり、引き続きランデブーポイントへと足を進めた。…ランデブーポイントってなんだよ。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
地図に記されたランデブーポイントに到着し、扉を開けると彼女が居た。授業中に目が合った彼女が。
「よく来た。私達はあなたを歓迎する」
彼女は表情一つ動かさず言った。口も、発音に必要最低限しか開いていない。授業中は分からなかったが、彼女はかなり不愛想な人物だった。
「ありがとうって言いたいところなんだけど、まず僕からいくつか質問をしていいかな?」
「もちろん。かかってきなさい」
戦うつもりかよ。
ふざけているのか真面目にやっているのか、彼女の表情からは全く判断がつかない。こういう人は、こちらがボケても「え、何?」とか言って何も拾ってはくれないんだろうな。
溜息を吐いた。
「じゃあまず一つ目、私“達”って何?」
彼女はその質問に言葉が詰まることなく、すらすらと答え始めた。
「それは私達の結社の事?それは言えない。というか、それを言う前に私があなたに質問をしなければならない」
質問を質問で返されるのには特段抵抗が無いので、僕はそれを許可した。
彼女は言った。
「あなたはこの世界が、この日常が、楽しいと思っている?」
僕は
僕は
僕は、なぜだか言葉が出てこなかった。
「どうした?答えられない?」
「……いや、そうじゃない」
(………そうじゃない、はずだ。)
眞弓は少したじろいでいたが、心の中でも少しばかり焦っていた。
このままでは自分の心が暴露されてしまうのではないか、という得体のしれない恐怖に対する焦り。自分の何もかもが見抜かれてしまうかもしれない、体中をまさぐられている様な気持ち悪さ―――
「この世界は、楽しくない?」
彼女は告げた。淡々と。
「つまらない?」
顔色一つ変えず。
「………」
僕は口を開けなかった。
「悩む気持ちも分かる。でも、少しでも楽しいと思っていれば少なくとも迷う事はない。虚言癖で壁を作り、変わらない日常にため息を吐いているあなた。あなたは今、楽しい記憶を思い出そうとしている」
虚を突かれた感じだった。胸に空洞が空く。遠くまで透かされている。どこまでも見透かされている。僕と同じくらいの年の少女に。こんなこと、これまではなかった。
眞弓は立っているのに疲れ、扉の前に腰を下ろした。彼の視界から彼女は消え、床が視界を埋め尽くす。
「でも、楽しい記憶は見つからない。言い当てられて絶望している。そうでしょ?」
僕の知らない本心が、本当にそうなのかもしれないと思ってしまえるほどに彼女は明確に言い切った。だがそれは、間違いなく間違いだった。
少なくともそれだけは分かる。
「………絶望なんて、してないさ」
彼は顔を上げた。
笑っていた。
「絶望なんて、僕は真逆だ。心の奥で、思ってたんだ。いつか何か変わるって。永久不変の日常が滄海桑田の非日常へ。だから僕は昨日も、笑ってたんだ」
呟いて、眞弓は立ち上がった。
「君に言い当てられて、あまりいい気分じゃなかった。でも、その不気味さが僕を非日常へと誘ってくれるのなら………僕の中に迷いなんて無い」
決意を固めて彼は言った。彼女はというと―――
「……では、話しましょう。ようこそ非日常へ、眞弓ニコ」
―――彼女はというと、これまた表情一つ変えずに言った。