十話③ 柊奏音は光り輝く
そうして一日の授業が終了した。結社の作戦書に、放課後はなるべく奏音との接触をすべきだと書かれていたので、僕はあの旧校舎の三階には行かなかった―――いや、行けなかったというのが正しいか。帰りの会終了後の僕の背後には、目立つ髪をした中学生が付きまとっていたからだ。
そのため、仕方なく、僕は奏音のクラスへと向かった。
扉から顔を覗かせると、窓際に分かりやすい青髪が見えた。僕は窓の外を見てたそがれている彼女のところまで歩いて行って、その後ろの椅子に横向きに腰かけた。
「部活へは行かないの?」
「あ、眞弓君」
と、彼女はこちらを振り返る。そして体の向きを僕と同じようにした。
「吹奏楽部はね……まあ、良いとこだよ。良いとこだし、良い人しかいないけど、だからちょっと辛いんだ」
「辛い…?辛いって…どうして?」
「あ、別に虐められてるとかじゃないよ?ほんと、いい人ばかりだから。でもさ、一緒にやってると…なんとなく……ね」
含みを持ったその口ぶりは、なんだか悲しそうな―――いや、寂しそうな感じだった。
「私は……合奏に向いてない。人間関係が苦手だよ」
淡々と呟かれた彼女の言葉に思うところが無いわけではなかった。でも、僕は―――
「…そう……なんだ」
―――こんな程度の返事しか出てこなかった。情けないというか不甲斐ないというか、あるいは語彙が無いのか。どれが足りないのか分からないが、しかし足りていないものがあることが確かな僕は、ほんの少しだけ自己嫌悪した。
二人の間にほんの少しの静寂が訪れる。夏一歩手前を感じさせる風が、眞弓達の間を通り抜ける。教室の中には僕達以外にもちらほら人はいるけれど、不思議と彼らの事は視界に入らなかった。
「眞弓君」
と、その静寂を打ち破り、奏音は僕に一枚の紙を手渡した。それは長方形で手に少しおさまらないくらいのサイズの、はがき程度の厚みの紙だった。
「……これは?」
「来週末に行われる定期演奏会のチケット。学生は無料だから来てほしいんだ。この吹奏楽部の演奏を聴きにね」
よく見なくとも、『盤伝中学校吹奏楽部定期演奏会』と大きく書かれている。これがチケット以外だったら一体何なのだろう。見当もつかない。
ポケットにそれをしまおうかと思ったけれど、入れたら皺になりそうだったので、手に持ったまま彼女の方を見た。
「分かったけど、僕、音楽とか何にも分からないよ?」
「分からない人が楽しめない音楽は音楽じゃないから」
なんて簡単に言い切った。とんだ大音楽家先生だ。将来が楽しみで仕方ない。実際、こんな自信がにじみ出ている発言をしてしまえる彼女には、それなりに実力があるのだろうけど。
「そういえば、昼休みに虹崎さんに連れていかれて、あの後はどうなったの?」
「ああ、ちょっと殴り飛ばされたけど特に問題無かったよ」
平然と言ってのける僕に、奏音は思わず声を荒げる。
「問題じゃない!?」
「全然。むしろ気持ちいいくらいだったさ」
「………え」
と、再び静寂。何か間違いが起きてるかもしれない。彼女の半開きの口と、点になった目を見れば、多分。
「いや、普通にこれは譫言だけどね。決して僕はドМなんかじゃない。決して、断じてね」
「そこまで否定するとむしろそれと思えてしまうんだけど……」
じゃあもうどうすればいいのか分からない。肯定でもしてやればいいのか。……いや、それは流石に間違いだ。
どうしようもなくなった時、どうすればいいのか眞弓は知っている。それは「逃げる」だ。
僕は席から立ち上がり、椅子を来た時と同じに戻した。
「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。飼い猫に餌をやらないといけないんだ」
これこそ譫言だけど。僕の家に飼い猫なんていない。いるのは凄まじい力をその体に内蔵した小さい生命体と、それを使役する悪の親玉、そして猫を被った少女のみだ。猫は偶にしかいないけど。
そんなことを考えながら歩き出した僕の手首を、彼女は軽く掴んだ。
「待って、眞弓君」
言わずとも、僕の足は既に止まっている。引き留めるにはかなり弱く握られた、彼女のその細い手によって。
振り向いて、彼女の方を見る。
「定期演奏会、来てね」
言って、彼女は柔らかく笑う。そんな笑顔に僕は感化されてしまったのか、思わず頬が緩んだ。
「ああ。必ず行くよ」
必ず。そんな約束を口にしてしまった僕は、しかし約束というのは必ず守らないといけないものだろうと思いながら、その教室の空気に背中を押されながらその場を後にした。
☆☆☆
もしかすると、もしかしてしまうのかもしれない。
呆然と自室で天井を眺めながら思う。何が「もしかする」のか、「もしかしてしまう」のかはともかくとして、簡単に言うとつまり、柊奏音と良い感じになるという事だ。
それが果たして良いことなのか悪いことなのか、それに関して考えに考えているせいで、月光に照らされた壁掛け時計の針は、既に右斜め上を差している。
「………脳内会議の時間……か」
頭の中は雑然としていて、アウトプットしないと考えが上手くまとまらない。目を閉じ、真っ白な空間を頭の中に創造する。大きな白い机と、それを囲むように白い椅子が等間隔に配置されている。僕はその内の真ん中の椅子に腰かけた。
「そもそもこれは作戦なんだ。奏音を結社に入れるための。だったら、別に良い感じになっても……いいんじゃないか…?」
言って、隣の席に目を向ける。すると、つい先程までいなかったはずのその席に、虹崎が腰かけていた。
「そうじゃないよっ眞弓君。世界の問題だよ。こっちの問題って言った方が良いかなっ?つまり、結社にとっては良いんだけど、再修正にとっては君と奏音ちゃんが繋がったら困るんだよっ」
「まあ、もう止められないって虹崎さんが言ったんスから、あたしは動かないっスよ」
虹崎の向こう側にいつの間にか座っていた獅子谷は、やれやれと溜息を吐きながら言った。
脳内会議とはこういうことだ。自分がいくら考えても分からないことを、他人の思考を想像して、さも他人と話しているかの様に会議する。そうして結論を出す。現実に想定できないシチュエーションでも会話を成立させることが出来るので、度々僕はこれを使う事がある―――主に、眠れない時に。
「困るって……具体的には?」
「だからそれは、終末を引き起こすきっかけになりかねないから…って言ったっスよね?」
「言ったけどさ、それでもやっぱり抽象的じゃない?獅子谷はそれ以上知らないなら、虹崎は?」
「……実は、美優はね……眞弓君の事が…好きなんだ…」
なんて、考えるだけ考えて、どうせあり得るはずもない。虹崎が僕の事をそういう目で見ないのは想像に容易いことだ。多分生涯独身だろう、虹崎は。
「冗談もほどほどににゃ。どうせ虹崎、お前はにゃにか隠してるんにゃろ?それで、それをにゃあ達に言うつもりもにゃい」
「……正解」
僕を挟んで虹崎の反対側に座るのは、手前から吹雪と猫の二人。こういう時に霧隠先生が出てこなくてよかった。僕の頭の中でも彼女は話さないと思うので。
「なんだかシリアスじゃね?何があったん?ニコ」
なんて、雉宮は僕の肩を叩いた。この話し合いに彼は一切関係ないので、退場してもらうことにしよう。
思うと、雉宮の足元の床が開き、彼はそのまま落下していった。間抜けな雄たけびを上げながら。
「話を戻そう。虹崎が僕の事を好きだって話だったね」
「違う。」と、吹雪はその口を動かし始めた。
「再修正の話なんてそもそも信用できない。そこに座る二人は、世界のためなら個人の思いなんて堂々ひねり潰す輩だ」
なんだか物騒な発言だ。と、そう言えば彼女は再修正を恨んでいたんだったっけ。
「まあまあ吹雪、落ち着いて―――」
「眞弓ニコ!!!」
と、吹雪はいつもの感じとは打って変わって、感情的に声を荒げる。
「いったいどうしたんだよ。そんな荒ぶるんだったら雉宮みたいになるぞ?」
その発言と同時に、吹雪の椅子から荒縄が飛び出して、彼女の体を縛り付けた。今にも虹崎達に襲い掛かりそうだったので、当然の処置と言ったら当然の処置だ。
まさしく混沌と言えるこの状況で、更に話をややこしくしそうな輩が登場した。机を挟んで向かい側に、唐突に現れた扉を開けて。
「よう、久しぶりだなァ」
それは鬼木羅木有覇だった。それに、
「お邪魔するねぇ」
無表情だった。彼女は最初に会った時の様に、兎鯨チコの姿で現れた。
「な、お前達、どうしてここに!?」
「隣の部屋でガキが二人、ゲームしてたんだよ。ま、もう寝てるけどなァ」
「あ、永眠って意味じゃないからねぇ?」
「ガキとゲーム」じゃないところが引っかかるが、まあいい。そもそもこれは現実じゃないのだし、いつどこで彼らの様な存在が現れてもおかしくない。
彼らはテーブルを挟んだ向かい側に置かれた椅子に腰かけた。
「で、何を話し合ってたんだァ?こんなに人集めてよォ」
「僕が柊奏音と良い感じになっても良いのかどうか」
「ふん」と鼻息を一つ。鬼木羅木はその口角を小さく吊り上げた。兎鯨チコもとい、無表情は妖しく含んだ笑いをする。
「あァ、ま、いいんじゃね?面白そうだしな」
「どうなるのか見物だしねぇ」
「関係ねェしな」
こういう奴らが本当に自由な奴らなんだろう。猫は見習った方がいい。いや、見習われると今より厄介になりそうなので取り消そう。
さて、椅子は全て埋まった。役者は揃った。




