九話③ これから始まる
場面は特に打って変わるわけでもないが、しかし視点は眞弓から移って吹雪のものとなる。
眞弓が音楽室に入る前、眞弓と階段で別れた吹雪は国語準備室に向かおうとしていた霧隠湊と合流し、認識阻害の術を掛けてもらった。そして校舎の外壁を、持ち前の身体能力でよじ登り、音楽室の北側の窓に張り付いた。
(まるで変態みたい……)
なんて思いながら。実際、どこからどう見ても変態である。
少しだけ早くなっていた鼓動を押さえながら、彼女は眞弓と奏音のやり取りを覗き見る。
「フルートの音、聞こえてたかな?」
「うん。この教室に入るときに」
他愛も無い会話、というのが第一印象。お互いが互いの距離感を測る段階であるので、仕方なくはある。実際眞弓はそう思っているに違いない。
「そう、じゃあだめだね」
奏音はフルートを下ろした。下ろしたと言っても、それは目に見えないフルートであり、実際に存在しているわけではない。最初から彼女は、フルートを吹く素振りだけをしていた。
「私は校舎中に音を届けられるようになりたい。フルートを持っていなくても」
「……あれ、じゃあどうしてさっき音が聞こえてたんだ?」
純粋な疑問を浮かべる眞弓に、奏音は微笑んで言う。
「それは演奏していたから。心でね」
「ぐふっ…」
と、唐突に隣から喉を押しつぶしたような空気だけの笑い声が聞こえてきた。吹雪が目を向けるとそこには、黒髪ロングの女子中学生……いや、十代がいた。彼女は奏音の発言に、頬を膨らませて笑いをこらえていた。
「こ…心で……って……ふふ…かっけーにゃあ…ぐふふっ…」
「猫……あなた馬鹿にしてるの?」
彼女は猫である。名前は分からない。年齢も分からない。せいぜい分かっていることと言えば、彼女が彼女であることくらい。あと寝相が悪いこと。
まさしく猫の様に、気まぐれで神出鬼没な彼女は、眞弓よりも扱いに困らない人物でもあった。
そんな彼女は、まるでそこが自分の家かの様にくつろぎながら彼らの事を眺めていた。
「いやー、誰にでもああいう時期ってのはあるもんにゃよね。でも……ぐふっ…好きな男の前でもキャラ貫くのは流石に笑えるにゃ」
「散々キャラを忘れてて、一貫性が無い猫は見習ってほしいけれど」
「お?そういう吹雪だってさっき、キャラ崩れかけてなかったかにゃー?」
言われて、吹雪は首を傾げる。
「私にキャラなんて無い。そういう無駄なものがあったら、異常ってしまうから。記憶を消されるほど面倒くさいことは無い」
実際は偽装工作と言って、記憶が消えるわけではない。しかし普通、自分の記憶が変なことにも気づけない。偽装された記憶が真実であると信じて疑う事は無い。
…一部の例外を除いて。
「ま、そう無理して固くにゃってると、想定より遥かに悪いことになるにゃよ?もっと自分の気持ちに素直になるにゃ」
「私の気持ち…?」
考えたことも無い事を問いかけてくるので、やっぱり猫はやりにくいかもしれないと思った。一番扱いやすいのは霧隠だ。最も従順で、文句も言わない。だが作戦遂行の鍵となるのは眞弓だったり猫だったりするので、理想の部下というのは一概に決めることは出来ない。
そんな思考を巡らせて、吹雪はもう頭の中に浮かんでいる一つの答えに蓋をした。そしてその蓋をこじ開けるのは、当然目の前にいる猫だった。
猫は何時になく真剣な表情で、吹雪の方を向いた。
「さっきもしれっと言ったけどにゃ。吹雪、ニコのこと好きにゃろ」
ざわざわざわざわざわざわ。首の辺りが毛逆立つ様な感覚。耳の後ろに火が宿る。吹雪はおよそその名前とは正反対の状態になってしまった。
「え、な、なに?そんなわけない」
声がほんの少し震えてどもる。そんな様子を猫は笑い飛ばしたりせずに、ただ眺めていた。
「お前がそんなになるにゃんて珍しいにゃ」
「いや別に私が眞弓の事をす…好きなわけが…ない」
言葉も態度も、まるで見栄を張っている様になってはいる。他人から見たらもちろんそう見えるし、吹雪本人も“この態度は”見栄を張っているだろうという自覚があった。
一旦呼吸を整えて、いつも通りの無表情を取り戻す。そして口を動かした。
「猫、あなたにはそろそろ話しておこうと思っていた。……眞弓ニコという存在について。私が予測している範囲で」
「なんにゃ、それ」
問い直す猫に、吹雪は話し始める。いつも通りの淡泊な表情と平坦な声色で。
それは別に凄惨なものでも、絶望的なものでも無かった。
「彼が……眞弓ニコが来てから全てが変わった。予期せぬタイミングでの鬼木羅木や無表情との接触。特にどうして彼女が異常ったのか…今ならその理由が分かる。そしてなんだかんだ言って定常を保ち続ける彼の周りの世界…」
未だに仮定でしかない。しかし彼女はそうとしか思えて仕方が無かった。
「この世界が再修正と結社の二組織の対立を主軸に創られたものだとするのなら、その二組織と、ついでに急進派の彼女達と友好的な関りを持つ彼は……」
少しだけ、言いよどむ。それは彼女の迷いからだった。態度が機械にしか見えない彼女も、しかし人間であるのだ。
彼女の迷い―――それはこの発言が信じられないくらい荒唐無稽で、そして仮説の域を出ない、薄っぺらいものだったからだ。こんな考えを持ってしまう自分のことを信じられなかったからだ。
しかしそんな葛藤も、胸の内で消化する。そして言う。
「彼は…もしやこの世界……この”物語”の主人公なのかもしれない」
言い終えると、なんだか荷物を下ろしたような、心が軽くなった感じがした。だけれどそれは、あくまで“感じ”でしかなく、実際の所何も終わってはいなかった。
「この世界は、主人公である彼にとって、都合の良いように創られている。」
―――これから始まるのだ。




