九話② これから始まる
翌日。昼休み。僕はいつも通り雉宮とか兎鯨とかと教室で話していた。賑やかな雰囲気の教室、その扉は唐突に開かれる。
「すみません。このクラスに眞弓ニコはいますか?」
それは吹雪の声だった。しかし僕は応答しない。だけれどヤツは応答しやがる。いつでも。どんな状況であろうとも。
「お、ここにいるぜ!」
「きぃぃぃじぃぃぃぃみぃぃぃぃやぁぁぁぁぁ………」
「え、なんだ?俺なんかしたか?」
きょとんとした顔の雉宮を心の中で罵倒しながら、机の下にかがんでやり過ごそうとする。しかしそんな眞弓の肩に、彼女の手が置かれる。
「何か、都合が悪いことでも?」
「…いや、別に…」
彼女から目を逸らす。すると、その視線の先にいた兎鯨チコと目が合った。僕は気まずくなって再び目を逸らすが、彼女は特に何も思わなかったようで、その行動に首を傾げた。
吹雪は僕の制服の襟を掴み、床を引き摺って教室から連れ出した。僕はこれからどこに行くのか分かっていた。そこで何をするのかも分かっていた。だから行きたくなかった。
「柊奏音は昼休み、音楽室の窓辺でフルートを吹いている。作戦資料は読んだ?」
引き続き引き摺ったままで彼女は言う。そろそろ立ち上がっても良い頃なのだけど、いかんせん止まってくれないので立ち上がるタイミングを見逃し続けている。このまま行くと僕の制服のズボンは白くなってしまいそうだ。
「…読んだけど……読んだから行きたくないって言うか…」
「我儘言わない」
まるで母親の様な口調で諭そうとする彼女。これは多分彼女なりにふざけているつもりなのだが、あまり伝わらないので普通にしていてほしい。
「別に我儘ってわけじゃ……まだ今日は良いけど、でも、いずれすることになる僕の行動について、少し抵抗感があるんだよ」
やがて階段に差し掛かり、ここまで引き摺られたら僕のケツが砕けてしまうので流石に立ち上がった。そしてぱんぱんと汚れたズボンを叩く。
彼女は僕の発言に少し驚いている様だった。
「……え?もしかして、あなた彼女の事が好きなの?」
「…いや、そうじゃなくて。たださ、作戦で決まっているからって理由で彼女の事を振りたくないなって思ったんだ」
あの作戦資料の最後には『眞弓ニコが柊奏音の告白を断る。』と書かれてあった。眞弓はそれがあまり気に入らなかった。とても複雑な思いで、しかし彼はそれを上手く言葉には出来ない。胸の奥で葛藤が起こり、不自然な心地がする。
「それは……どうせあなたが振ると決まっていても?」
「………それは分からな―――」
「いいえ、振る。確実に振る」
吹雪は言い切る。自分でも心の中でも分かっている。彼女の事を振るなんてことは。だからと言って、彼女の事も良く知らないのに振ることを確定させてしまうのは良くない事だろう。
「根拠は…?」
彼女の弁論を否定する材料を探すために口を動かす。しかし彼女はいつも通り揺るがない。言うためだけに口を動かす。
「私はあなたの身に起こったイベントくらいは調べてある。特に、あなたが最初に“彼女”に惹かれた日については。わざわざ全て言って欲しいのだったら言うけれど」
それはなんだか嫌な予感がする。
「………いや、やめて。でも、結果が変わらなくとも、ちゃんと真剣に向き合う事をしないとそれは彼女に対して失礼だと思うんだ」
「……これまでそういうことから目を逸らし続けてきたあなたがそれを言うの?」
絶句。
確かにこれまで僕は何度も、そういうことから逃げ続けていた。それは確かに事実である。
だけれど、かつてこれほどまでに心を抉るような発言を、彼女が僕にしたことがあっただろうか。いや、無い。絶対に無い。有り得ない。
もしかすると、ここにいる吹雪は―――
眞弓の脳裏に浮かぶのは、あの雨の日に虹色少女に成り代わっていたあの人物。
―――いや違う。有り得ないそれは良くない僕が悪い。
その考え方は間違っている絶対におかしい滑稽だなんだお前は。失礼だよ嫌いだ僕は。どうしてそんな思考をしてしまう屑野郎。
なんだ僕はおかしいこれは。視界がゆれてままならない吹雪を。
形がつかめない床が揺れるでも空気が
冷たい頭が熱い痛い気持ちが悪い僕痛い心臓が
「落ち着いて」
吹雪は僕の頭をその両腕で抱き寄せた。いつの間にか速度を増していた呼吸が、彼女の胸の中でだんだんと落ち着きを取り戻していく。不規則な鼓動を繰り返していた心臓は、頭の中に響く様に聞こえる彼女の心音でその正しい調子を刻み始める。
「一回異常を経験すると、その後も異常を経験しやすくなる。再修正はこのことを”劣化”と呼んでいる。あなたも一瞬だけ、ノイズが出てたから気を付けて。対処法は感情を抑える事。異常の発生は感情に起因するから」
終始淡々と、彼女は言う。いつも変わらない彼女の姿には、安心感さえ覚えてしまう。眞弓は通常運転を取り戻し、彼女の腕から解放された。
「……ごめんなさい。言い過ぎた。じゃあ、あなたは吹奏楽部の部室に行って。私は………行くところが出来た」
吹雪は途中まで登っていた階段を下り始めた。
「え、一緒に行くんじゃ?」
その問いかけに彼女は答えなかった。彼女はその足を止めず、さっさと行ってしまった。残された僕は「どうしたんだよ、吹雪」と呟いて立ち尽くした。
(………一旦、作戦を遂行するか…?)
作戦書には、『今日の昼休みに柊奏音と会い、会話をする。』との記述があり、その補足には『同クラスの越智吹雪がサポートを行う。』ともあった。しかし会話をするだけならばサポートも必要ないだろう。
階段を引き続き登り始めた。音楽室につくまでに、作戦を行わない理由が見つかれば、そこで引き返してやると意気込んで。
(吹雪の言うとおりだ。僕は今になって向き合おうとしている。それまで逃げてきた人々に背を向けて。それは間違いなく失礼なことで……だったら……今回も行かない方が良いのか……?)
頭があまり働かない。ぼんやりとして、少し重い。多分、さっき一瞬でも異常ったせいだろう。あの日と同様、判断力が大幅に減少している。しかし、そういうときの対処法はもうわかっている。
「………後の事は後で決めよう。今は一旦、前に進むしかない」
なんてキザな独り言を決めて、階段を登り切った。階段の先には二つに分かれた道がある。片方が図書室へ、もう片方が音楽室へと続く道だ。この階には図書室と音楽室と国語準備室の三教室しかない。その内の国語準備室なんて、使う人を見たことは無い。
音楽室の前までたどり着いた時、中からフルートの演奏が聞こえた。風が語るような、繊細で柔らかなその音色は、僕の心を落ち着かせてくれた。
深呼吸をする。そして扉を開く。南側の窓辺に立つ彼女の姿が見える。こちらを振り向く。青く細く長い髪が揺れて光に反射して、森の湖畔の波立つ水面のようだと思わず見惚れてしまった。
ついでに僕は衝撃を受けた。なぜなら今さっきまでフルートの音色が聞こえていたはずなのに、彼女の手には楽器の一つも握られていないかったからだ。




