八話③ 作戦を開始する。
ワークはやっておいて良かった。そう思えたけれど、猫の作戦に頼っていた部分もあったので、いつもより遥かに悪そうなテストの出来栄えに、少なからず絶望していた。
「今回は大目に見てあげますが、次やったら成績はカスにします」
「成績がカス!?」
そんな会話を職員室で繰り広げた。霧隠先生は眼鏡をくいっと持ち上げ、淡々と言っていた。こうしていると普通の教師にしか見えない。
しかし彼女は結社の一員。隠密担当、霧隠湊。あの旧校舎の三階、角教室に行けば、彼女は言葉を発せぬ石像になる。人と話すのが極度に恥ずかしいかららしいが、現在僕とまともに話せている様子を見ていると、そうとは思えない。
「あの霧隠先生」
「どうしました?眞弓さん」
「先生はどうして………」
そこまで言って、止めた。唐突に言葉を詰まらせた僕に霧隠先生は首を傾げる。
僕は最近、他人の事を考えるのが得意になった。自分の事もよく分かっていない分際で偉そうだけど。霧隠先生が極度のコミュ障というのは彼女自身が一番分かっていることで、一番長く付き合ってきた自分のできものみたいなものなのだ。あるいは蒙古斑。それを今僕が指をさして指摘するなんて行為は、あまり褒められたものではないだろう。
心の中で勝手に結論づけ、霧隠先生に一礼。僕は職員室から出て行った。
(いやーちゃんと空気読めてるな、僕)
なんて思いながら。
☆☆☆
さてと。久方ぶりの思考の時間だ。議題は「僕が異常者なのかどうか」について。
中二だが、厨二ではない。別に僕は自分が選ばれた人間とか、何か使命を持って生まれた人間とか、そう思っているわけではない。もしそんなことを思っていたら“異常者”なんて言い方はしない。
むしろ今回の件に限って言えば、僕は異常者と言うより日常者なんだ。
意味が分からない造語は置いておいて、どうして僕が自身を異常と考えているか、早速本題に入っていこうと思う。
先日、僕は大事な妹を鬼木羅木有覇とかいう奴に殺されたわけなのだけど、それでも僕はそれ以前と変わらず日常を過ごしている。まあ妹は生き返ったので、結果的に見れば死んではない。
だったらいつも通りでおかしくはないだろう、なんて思う奴はおそらく人の心が無い。
例えばとある凶悪犯に、愛する妻とかを殺されたとして、殺されたはずの妻が生き返っただけで犯人への恨みの炎が果たして消えるだろうか。答えは否だ。常識的に考えて。同じ苦しみを味合わせてやりたい、と思うのが人間だ。きっぱりと切り替えて、切り替わってしまうのは、なんだか人間味を感じない。この世界が虚像であり、人格は二進数で計算されているだけだとしても、人格というのは綿密に形作られていると思う。
そう考えると僕は、なんだか機械的な思考をしているな、と思うわけだ。この世界が異常を受け入れず、日常を保ち続けているように、僕の思考も異常と言う名のストレスを拒絶し、日常を保ち続けるように調整されていると感じるわけだ。
「―――というわけなんだけど、どうかな?」
僕は目の前に座る彼女に問いかける。髪の短い日本人形にも見える彼女は、いつも表情を変えることは無い。彼女が顔を変えたのは、後にも先にも出会ったあの日の一瞬だけだった。
彼女は首を傾げることも無く、淡々と台詞を発する。
「私に相談されても、と言いたいところだけど、一応私はあなたの上司的存在なわけだから、それに付け焼刃でも解答を用意する義務がある。分かった、答える」
付け焼刃だ、という事を言わなければ僕はきっと彼女の言葉が付け焼刃だなんて思わなかっただろうに。
彼女は自身の鞄からパソコンを取り出し、それを少しだけ操作した。そしてその画面を僕に見せる。洋風な街並みの中、正面に背を向けて立っている者が目に入る。
「あなたはゲームはする?」
「まあ、しなくはないかな」
する頻度はかなり少ないが。
「これ」
と、彼女は画面正面に映る者を指差す。
「これが操作するプレイヤー。ゲーム本編の主人公。この世界の主役的存在」
「そのくらいは分かるよ」
吹雪はパソコンを操作する。画面の中の存在は、操作に合わせて移動する。
「じゃあ次に、これ」
と、彼女は画面の端に映る者を指差す。
「こっちはノンプレイヤーキャラクター、通称NPC。この世界の脇役。引き立て役。思考や動作が完全にプログラミングされた、計算上でしか動かない存在」
「………」
街をただ突っ立って眺めているだけ、もしくは歩いているだけの存在。喋れる者もいるが、話しかけても返さない者もいる。
「NPCとプレイヤーの間では、明確な違いがある。それは制作側の想定を超えた行動を起こすかどうか。プレイヤーが干渉しない限り、世界に異常は起こらない」
彼女は画面の中の人物を、キーボードによるよく分からない動作でよく分からない挙動にさせていた。やがて彼が立っていた地面が抜け、真っ白な世界に落ちて行ってしまった。
「ゲームにバグ……ゲームにってよりかはあの時、自分がバグったって感じだったんだけど…」
視界が0と1に浸食されていく瞬間が脳裏に再生される。自分の体もノイズがかかったみたいにぶれて、その形がはっきりしていなかった。僕の見ている世界がバグったように見えたっていう考えでなら…まあ世界がバグったって言えなくはないが。
吹雪は画面に映る者を指す。いつの間にか彼は元の街並みの中に帰ってきている。
「例えばこの世界。彼は私達の事を認識できない。私がいくら変な挙動で操作しても、それが自分の思考と行動の結果だと疑わない」
ぱたん、と彼女はパソコンを閉じる。しばらくすると、パソコンの息遣いのようなものが途絶えた。
「彼が現実に出てくることは無い。なぜなら彼はこの世界の住人ではないのだから。彼は画面の中の世界の住人で、その世界の一部なのだから。ここまで言えば分かると思うけど、つまり世界の一部である彼に起こる異常は、即ち世界に起こる異常と同義ということ」
僕に起こった異常は、つまり世界に起こった異常である、と。
「………まあ、納得できなくはない。だけどさ、それってまた別の問題を孕んでるような気がするんだけど」
「何?」
言うか迷った。でも言った。
「僕達がこうして考えて、行動してるのってさ、本当に僕達の意思なのか…って。誰か、第三者のプレイヤーに操作されてるだけだったりしないのか……って」
それまで止まることのなかった吹雪の言葉が一瞬だけ止まる。その一瞬の静寂は、どんな弁より雄弁だった。
「…疑い始めたらキリがない。付け焼刃の論理にそうまともに取り合わないで」
堂々とはぐらかしてきた。いや、はぐらかせてもない。
ガラガラガラ。
と、唐突に背後の扉が開く。僕は扉の方を振り返る。ここに来るような人は、あと二人しか知らない。
「例えば宇宙の発生にゃんかは、お前みたいな奴がいくら頭をひねってもその答えにたどり着くことはできにゃい。何年何十年何百年経ってもにゃ。つまりはそういうことにゃ。あまり自分を過信しすぎるにゃ、ニコ。お前はそれほど頭がいいわけでもねーにゃろ?」
その口調は特徴的で、もはや彼女が誰なのか紹介するまでも無い。あの猫耳みたいな髪型はもうやめたのか、少し前までと同じようにどこを結ぶこともなく、ただその黒く長い髪を揺らしていた。
当たり前の来訪に、吹雪は少しだけ不機嫌そうにした。
「猫、失礼」
「にゃあ?仲間内に失礼にゃんてねーにゃろ、吹雪」
猫は手を頭の後ろに組んで言う。そんな彼女の態度に、吹雪は眉毛を吊り上げる。
「親しき中にも礼儀ありということわざを知らないの?いや、義務教育を受けていない猫は知らなくても仕方ないか」
「にゃあは人間のことなんかしらんにゃー」
なんだか不仲の様に思えるこの会話。実際二人は仲が良いというわけではない。ただ仲間であるというつながりだけを持って今ここにいる。どちらかというと吹雪は猫の保護者的存在で、猫の一挙手一投足に目くじらを立ててしまっているだけ。そしてそれに反発するようにしているのが猫。更年期に入りかけの母親と言葉を覚えて強気になっている中二の娘。まるで思春期の家庭だ。僕は多分猫の弟か何かで、彼女が母親に怒られるのを見て親の機嫌伺いの方法を学ぶのだろう。
そんな空想の家庭の話はともかくとして、結社が三人揃ったのならやることは一つだろう。
「さて、では本日の作戦について説明する」
吹雪は立ち上がり、教室に置かれた棚の中からまとめられた紙を取り出し、僕に渡した。その様子を見て、猫は手を挙げる。
「せんせー、どうしてにゃあには渡さんのにゃ?」
「印刷代が高かったから」
「にゃあに渡さん理由にゃなってねーのにゃ……まあニコ、一緒に見るにゃ」
猫は僕と僕の持つ資料との間に割り込むようにして入って来た。
「…おい猫、あの雉宮でさえも、教科書を見せてもらうときは隣に座って遠慮がちにして見るんだよ?」
「まあまあ、にゃあとお前は裸の付き合いをした仲じゃねぇか」
「雉宮も僕と裸の付き合いをしたことはあるけど?」
「え?が、ガチ?」
「いや、虚言だけど」
猫を膝の上からどけて、資料に目を向ける。表紙には『柊奏音勧誘作戦』と書かれていて、数枚めくるとおびただしい量の文字が目に入る。
「これは真面目な作戦の会議なの。私達の命運がかかった大勝負なの。だから無駄口は叩かないで。湊と同じようにしてて」
吹雪は僕達の背後を指差した。僕と猫は同時に後ろを向く。すると、先程猫が来た時にはいなかったはずの霧隠先生が、隅っこに静かに座っていた。彼女の手元には僕と同じように資料が握られている。
「……………。」
「いつの間にいたんですか先生…」
問いかけると、僕の目を一瞬だけ見て、すぐに逸らした。そして低く震える声で、なんとか言葉を紡ごうとする。
「……さ、…さっき……き…き、来ま……。」
「………。」
だったら一言声を掛けてもいいと思うのだけど。雑談に口を挟めるほど彼女は……空気が読めないわけではないと言った方が良いか。別に何とも思っていないけど。
一方猫は不満げに、床に大の字に寝そべった。
「にゃんで湊も持ってるのに、にゃあには渡さないのにゃ?」
「………本当の事を言えば、猫は何も考えない方が良い。猫は戦闘要員だから。今回は特にやることも無いし。だから渡してない」
「うおマジか。耳より情報…いや、猫耳より情報すぎるにゃ、それは」
「冗談みたいになんにもかかってないね」
猫は寝転がりながら、軽口を叩いた僕の足を叩いた。そんな猫の頭に、吹雪はどこからか取り出したボールペンを投げた。猫は小さく「いたっ」と鳴いた。
「では、今回の作戦の概要を説明する……前に、一つだけあなたに言いたいことがある。言いたいというか、伝えたいこと。言っておかなければならない事」
吹雪は相変わらず、いつも通り、口以外を動かさずに発音した。
「今回の勧誘対象である柊奏音は、あなたの事が好き。以上」
時は―――別に止まらなかった。思考は―――これも別に止まらなかった。衝撃は受けたが、そこまでにはならなかった。そろそろ諸々に慣れてきた。
―――という思考をしなければ、僕は衝撃に耐えることが出来なかっただろう。異常にもまだ慣れていないし、日常に挟まる非日常には特に免疫がなかった。
「え?……もしかしなくても言い間違い村の吹雪さんだよね?」
「私は言い間違えてない村の越智吹雪」
「……見当違い町の吹雪さんだったりは?」
「私は見当違わない町の越智吹雪」
「分かった!冗談県の―――」
衝撃。
誰によってかは分からないが、僕の意識は遥か遠くのどこかへと飛んで行ってしまった。




