八話① 作戦を開始する。
中学二年生。五月中旬。土曜日。眞弓は窮地に立たされていた。
それは数日前のあの一件よりかは遥かにマシではあるが、しかしこれも彼の人生において大事な局面だった。
だから彼は、これまでにないくらい焦っていた。緑色の少女に自らを看破された時よりも。虹色の少女に秘密が露呈しそうになった時よりも。猫被り少女に心の無い言葉を言われた時よりも。
そんな彼を見て、彼女はにゃひひと笑っている。あの猫被りの少女が。
「にゃあニコ、本当にお前はそんなことをしてていいのかにゃ?」
猫は僕のベッドに寝転がりながら言う。
彼女はあの日以降、猫耳ヘアーを解いて前と同じ、何処も縛らないでただその長い髪を自由にさせている。
「そんな事ってなんだよ。大事なことだ」
「お勉強が?お前はどうしてそう良い子を演じたがるのにゃ?」
演じたがるんじゃなくて本当に良い子なのだけど。
僕は、二日後に迫る中間テストに向けて、問題集をとりあえず解いていた。これまでずっと授業だけ聞いてワークはやっていなかったので、提出期限に間に合わなくなりそうなのだ。
(そんな状況に置かれているんだから、もしかして僕はそんなに良い子じゃないのかも知れないな)
自明である。
「いやでも、結局こうして勉強しているんだから良い子って事にはならないかな?」
「そうだにゃー」
くるりと壁の方を向いて、猫は空返事をした。
あの一件以降、猫はなぜか僕の部屋にいつくようになった。それが動物としての猫としてならばまあいいのだけど、彼女は僕の家に来るときには必ず霧隠先生に認識阻害を解いてもらっている。
「ニコの友人の越智猫盛ですにゃ」
なんて言いながら母や妹に自己紹介をして来た時は困惑した。語尾が「にゃ」なのもそうだが、これまで借りてきた猫扱いだったのに、急に人間ぶるものだから。
家族にはあの猫は返して来たと言って難を逃れたが、依然僕の部屋に猫砂エリアがあるのは、おそらく撤去をするのが面倒臭いからだろう。名残惜しいのもあるかもしれない。実際奈央ちゃんはかなり落ち込んでいたし。
僕は猫の方を向いた。猫は壁の方を向いている。
「なあ猫、リビングで奈央ちゃんと遊んできてくれないかな?」
「えー…なんでーにゃ?」
てじ〇ーにゃみたいに言うな。
眞弓は溜息を吐いた。
「だってここにいてもやることは無いだろ?せいぜい僕の勉強の邪魔をするくらい?だったらお前にとっても、遊び相手がいる方がいいんじゃないのかと思ってね」
「にゃあはお前の妨害さえできればいいにゃよ?」
寝返りをうってこちらを見る猫は、殴りたくなるほどニヤついていた。僕はそんな猫の頭を軽くチョップした。きっと痛くもかゆくも無いだろうに、彼女はわざとらしく「いってぇにゃ」と素早く呟いた。
僕は引き続きワークとにらめっこをしながら口を動かす。
「なんでそこまで僕の邪魔をしたがるんだよ。確かに猫と言えば人様のお邪魔をされる方ではあるけれど、今のお前は猫じゃなくて猫盛なんだろ?」
「だからなんにゃ?そんなテキトーな名前に意味なんてねーのにゃ。名前がどうあれ、にゃあはにゃあであり続けるだけにゃよ。ま、そこまで言うなら猫らしい妨害でもしてやるかにゃ」
そう言うと、猫は視界の端で立ち上がった。そして音も無く視界から外れた。僕は相変わらず机に向かっているので、彼女がどこに行ったかなんてことは知る由もない。
しかしすぐ、彼女の姿を見ることが出来た———見ざるおえなかったというのが正しいか。
猫は眞弓の太ももに背中を預け始めたのだから。
「猫のひざ掛けにゃよー」
「………」
「あったかいにゃろ?」
「………」
僕は無言を貫く。そもそも僕は、この程度で動揺するようなやわな精神をしていないのだ。先程からミミズがのた打ち回っているような字しか書けていないけれども。
そんな僕の様子を見た猫は、僕の頬を平手で軽く叩き始めた。
「てしてし。ほら、てしてし」
「………」
「てしてしててし、てしてててしてし、ててしてし、ててしてててしてててててて———」
「………」
僕は猫の膝と肩を持って立ち上がった。言うなればお姫様抱っこという持ち方なわけなのだが、僕はそんな物の持ち方に一々意味を見出すような輩じゃなかった。
そして左に方向転換、ベッドの方を向いた。
体を前後に揺らし、勢いをつける。
「それ!」
そうして彼女を投げた先は、目の前に置かれたベッドの上———ではなく、明後日の方向に置かれた猫砂の上だった。
どさっと言う音と同時に舞い上がる砂。そして———
「にゃああああああああああ!!!!!!」
———猫の悲鳴。
勉強をするには騒がしいが、これくらいしても罰は当たらないだろう。
「おいお前!物事の限度ってもんを考えろ!」
語尾をすっぽかして背中に入った砂を何とか取ろうとしている猫を、僕は死んだ目で見降ろした。
「じゃ、もう二度と僕の邪魔するなよー」
悪態を吐きまくる猫を背後に、僕は引き続き勉強を続けた。机の上には理科のワークが広げられている。
(化学反応式の話か……これ、テストで矢印のところをイコールで書きそうで怖いんだよな…)
そんな心配をするなら一つでも多く覚えればいいのに、間違った方向に頭がまわるのが僕である。このままではワークを終わらせることが出来てもテストには到底間に合いそうにない。
首筋を液体が伝う。僕は汗をかく方ではないのに。つまりはそれだけ焦っているという事なのか。
しかしそう思うには、液体が冷たすぎたし多すぎた。
「これで頭は冷えたかにゃ?」
「だとしたらかけるべきところは首じゃなくて頭なんだよ」
コップ片手に僕を見下ろす猫に吐き捨てた。彼女の顔にはところどころ砂がついていて、今も少しだけパラパラと机の上にそれを落としている。
溜息。同時にワークを閉じた。
「猫、お前は意味も無くこんなバカげたことはやらない奴だよ。何か理由があるんだったら、僕に教えてほしいものなんだけど」
問いかけた。猫は「ふふん」と誇り高そうに笑う。
「ようやくにゃあのことが分かってきたらしいにゃね、ニコ。もちろんそうにゃよ。意味があるにゃ。とっても重要な意味が」
猫はまるで犬の様に体をぶるんと震わせた。すると彼女についていた砂が部屋中に散らばった。もちろん目の前の僕にも飛んで来た。最悪だ。
すっきりした彼女は腕を組み、胸を張って言った。
「このテストにゃが、お前はもしかしたら勉強しなくてもいいかもしれんにゃよ?」
「……はあ」
何言ってんだこいつ。
「いやいや、そんな“何言ってんだこいつ”みたいな顔するんじゃねぇにゃ。話はこれからにゃから」
最近になって気付いたが、猫のこういう、まるで僕の事を知ったかのように言う言い方は案外誰にでもできるのだ。それはまた後程実践するとして、今は猫の言葉に集中しよう。
「お前が初めて吹雪と会った時の事を覚えているかにゃ?」
校庭で体操服達に紛れて一人、制服を着て浮いていた彼女を思い出した。その後目が合って窓まで飛んで来た吹雪に結社に勧誘されたのだっけ。
「それがどうしたんだ?」
「その時…というかその後、何事も無かったにゃろ?」
変なことを聞く奴だ。
眞弓はその後を思い出してみたけれど、うまく思い出せない。少なくとも、何かあったならば思い出せるだろう。
「無かったけど?」
「無かったにゃろ?」
沈黙。
「つまりはそういう事にゃ」
「どういう事!?」
なんて返すと、猫は呆れたように頭を掻いた。まるで「物分かりが悪い奴だにゃ」なんて言いそうな顔だ。
「まったく、物分かりが悪い奴だにゃ……授業中に堂々と話しても、その後にゃんにも無いっていうのはおかしなことじゃにゃかろうか?」
「あ……」
確かに。というか、当たり前になっていて忘れていた。
僕は彼女が何を言いたいのか理解した。
「テスト、にゃあが隣でスマホで調べながら教えてやるにゃ!」
猫は胸を張って笑った。
だがそれは、ワークをやらなくていい理由にはならないぞ。




