記憶
つい先日、僕はかけがえのないものを失ってしまう体験をしたわけなんだけど、それと同時にかけがえのないものを取り戻すという、前代未聞な体験もした。どうしてそんなことが起こったかと言う説明はここでは割愛させていただくわけなのだけど、しかし僕は思うのだ。
これはおかしい、と。有り得るはずがない、と。
だってそうだろう。確率的に有り得ない。僕があの結社の一員になって、それと敵対する組織と関りを持って、それでもなんだかんだ無事なままあの鬼の様な殺人鬼と相対して、妹を殺されて、たまたまその近くに死んだ妹を生き返らせることが出来る奴がいて……まるでもともと、そういうシナリオの下に構成された物語の様に思えて仕方ない。
そのシナリオの、日常の一幕に思えて仕方ない。
彼女はそんな僕―――日常論者であるこの眞弓ニコの思考に、そのまま返答をした。
「いやはやその君の推測ってやつは、案外的を射ていないわけではないんだよ。」
床を這うほどの長い白髪の間から、彼女はその顔をのぞかせた。どことなく、その顔は僕の好きな人に似ている。僕の好きな人についても、ここでは割愛させてもらう。
彼女は言葉を続ける。
「もちろん的中ってやつじゃない。ちょっとだけ右か左か上か下かにずれている。もしかしたら、違う的を射ているのかもしれないがね。」
はぁ、と溜息。彼女は己の座る椅子で膝を抱える。
「まあ世の中、的確なことを言えている奴の方が少ない。的外れな奴らのなんと多いことか。ああ嘆かわしい。嘆かわしいぞ。」
わざとらしく高らかに言う。そんな彼女のことを僕は、ただまっすぐ見ていた。見据えていた。どんな感情も持たず、無感情に。まるであの鉄面皮の様に。
「だがまあ、私はそんな的外れな、埒外な連中ばかりのこの世の中を愛している。まるで我が子のようにな。私に子供はいないケド。」
彼女は足を組みなおした。すらりと長く、なめらかなそれに一瞬だけ目を奪われるが、視線を改めて彼女の目に合わせる。彼女はずっと、僕の目を見ていた。
「もちろん君の事も大概じゃない。君のその惜しい推測も、私は愛しているのだよ。」
歯の痒いことを言う。僕は少し照れくさかったけれど、決して表には出さなかった。
彼女は僕から目を逸らして、椅子から自分の伸び散らかした髪の上に飛び込んだ。ふわり、とまるで無重力の空間の様に、髪達は空中に浮かび上がる。
「ところで愛は無償でない。限りのあるものだという事をここで言っておこうか。よく言うだろう?無償の愛を提供するとかなんとか。全く馬鹿らしい。愛なんて特別で高級なサービスに代償が発生しないわけがないだろう。」
つまりは?
「つまりは私の愛にも限界があるということだ。君の事を愛していても、いずれ限界が来てしまう。その時はすなわち、終わりだ。」
終わり。終わりと言うのが一体何なのか、僕はなんとなく分かっていた。しかしそれに対して言及をしてしまえば、向き合うことになる。この救いようのない日常の終焉に。
僕から体を背けたまま、彼女は言葉を続ける。
「私は頑張るよ。なんとか食い止める。だから君も、こんなところで諦めるんじゃないぞ。」
“何とか食い止める”“こんなところで”…分からない。僕にはその言葉の意味が分からない。これがいつの記憶なのか、それがはっきりしなければ。
記憶……いや、記憶だこれは。
「眞弓ニコ、君を愛している。君は私の中で一番の存在で、宝物だ。」
彼女はそんなことを言って、微笑みかけた。もちろん彼女は背を向けているので僕には見えていないけれど、なんとなく、微笑んだのだと認識できた。




