閑話 エピソード『α』 ⑤
それはきっと一時間にも満たない、いや、三十分にも二十分にも満たない時間の出来事だった。しかし、その時間は永遠にも感じられた。俺はとりあえずモノみたいに扱われて、「アイツ」は俺をモノみたいに扱った。
「君は誰も頼れないです。これから先もずっと。この家に生まれたせいで。きっと君はここから出られないでしょうね。無価値な人生です。でも―――」
やめろ、言うな。
「もし君の生まれた意味があったとするならば―――」
それだけは、やめてくれ。言うんじゃねぇ。
「私のキモチイイことのためでしょうかねぇ、α君。」
「あ…あぁ……ああああああああああぁぁあああぁ……!!!!」
「アイツ」がすることをして去って行った今、俺は一人、仰向けになって絶叫していた。涙で床を濡らしながら、発狂していた。
(イヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだイヤだ)
頭の中がその叫びで一杯になる。臀部に感じる違和感が、底知れない不安感を掻き立てる。
何度も何度も脳内で再生される「アイツ」のその言葉は、まるで事実の様に思えてしまって、俺の精神を蝕み続ける。
俺はとりあえず四つ這いになって、地面に散乱した液をそこら辺にあったタオルで拭うことにした。あいつらに何か変なことがあったとバレたら、俺はタダじゃすまない。
拭っても拭っても、床は液体で濡れ続けた。俺はそんな状況に、また床を濡らした。
やがて拭い終わって、いつも通りのごみ袋の横に膝を抱えて座り込んだ。その時妙な感覚に下から突かれて、俺は体を震わせた。
そのまま俺は、あいつらが帰って来るまで目を見開いていた。黒く、暗くなってしまったその目を。
カチ
カチ
カチ
十七時。扉が開いた。俺の父親は、扉から顔をのぞかせる。そしてその瞬間、その顔を歪めた。
「おいお前、もしかして外出たのか?」
その一言に、俺は体が強張る。震えが止まらない。
「鍵、かかってねぇし。泥みてぇのが玄関についてるし。お前、外出ただろ?」
「あ、……あぁ…」
「あ、ああ…じゃねぇんだよ!」
鞄が俺の顔面に当たる。マユミの玉より早さも威力も無かったのに、なんだか痛くて痛くてたまらなかった。自然と俺の目から涙が落ちる。
「なに逃げてんだテメェ、児相にでも行ったのか?あぁ?」
「ま、まあ落ち着いて。こいつが児相の場所なんか分かるわけないじゃん。」
女が男をなだめようと肩を触る。男は小さく舌打ちをして、俺の前にしゃがみこむ。そして俺の頭を鷲掴みにし、顔を覗き込んできた。
「ま、良いぜ。俺ァ寛大だからな。正直に言え。お前はどこに行ってたんだ?」
「………。」
腹部に鈍痛が走る。
「一つ言い忘れてたが、俺は黙ってる奴が嫌いだ。」
「……ちょっと…」
再び腹部に鈍痛。
「ボソボソ喋ってんじゃねェよ!」
「……ちょっと外を見に行ってた…だけだ…。」
絞り出されたその言葉に、男は顔を変えなかった。
その瞬間、頬に強い衝撃が走ると共に、視界が揺れる。俺はいつの間にか地面に倒れていて、頬には後からじんじんと痛みがぶり返して来た。
「次はねェからな。」
どすどすと、床に響く鈍い足音を立てながら、あいつは女を連れて家を出て行った。今日は外に食べに行くらしい。
あいつらがいなくなったこの狭い部屋の中で、俺は横に倒れたまま目だけを動かしてキッチンの方を見た。「調理」とかいう概念しか知らない行為のための場所らしい。キッチンの流しは汚い食器やよく分からないもので埋め尽くされていて、産まれてこの方あそこが空いているのは見たことがない。
急に視界が歪み始めた。ぼやけて目の前の物の形が定まらない。
「………あ。」
俺はまた、泣いていた。
感情が、溢れる。
(クソ……クソクソクソ……クソクソクソクソ……!!!!)
嗚咽と涙を漏らしながら、俺は床に顔を擦り付けた。
(なんだよ…クソ……クソみてぇな人生…俺は何でここに産まれちまったんだ……産まれちまったんだよ……!!)
音も無くひたすらに嘆き、叫ぶ。
(こんな人生なら…俺は……産まれたくなかった……)
次第に彼の心には陰りが生じ―――
(死にたい。)
ゴンゴン。
窓を叩く音。俺は今日もペットボトルを窓に投げる。これは所謂合言葉。あいつらにばれないように、あいつらがいない時はノックの後にペットボトルで音を出すという合図。
俺は這うように窓に向かった。そしてそれをこじ開ける。
夜の風が心地いい。なんだか心が救われるような、そんな気がした。そして目の前に広がる光景を見る。森羅有覇はそれを見て、自分の人生に希望の一片も無い事を知る。
「おいおい、なんだよこの女。人の家に勝手に入って来ちゃダメだろ?」
「お…クソ…離しやがれ…!」
男がマユミの首に腕を回して拘束していた。意味が分からなかった。思考が停止した。どうしてさっき出て行ったはずのこいつがここにいるのか、全く分からなかった。男から少し離れたところで、女が欠伸をしているのが見えた。
「なあ有覇、こいつがお前を誑かしたってことかァ?とんでもねぇビッチじゃねぇか。まだ小学生だろ?」
「く…クソ…!うるせぇなァ!とっとと話しやがれこのオッサン!」
噛みつく様に言うマユミの頭は、瞬間的に地面に押し付けられた。
「目上の人に対する言葉遣いには気を付けましょうって習わなかったかァ?ガッコ―行ってんだったら分かるよなァ?」
「ぐ……クソ……クソ野郎が…!」
「ああ、お前の親の躾がワリィのか。だったら俺がテメェの馬鹿親の代わりしてやる……って言いてぇところだが、俺も暇人じゃねぇ。」
男は俺の方を見た。なんだか嫌な予感がして、胸の動悸のリズムが崩れた気がした。
「おい有覇、こいつと××××しろ。」
その単語はなんだか嫌な感じで、もはや脳が理解を拒んでしまうほどに―――いや、俺は知らなかった。その単語の意味を。だけれど感覚が訴えかけていた。「そういう」意味なのだと。
「罰ゲームだし、これでこいつに誑かされることも無くなンだろ?俺天才過ぎねェか?いや一回見てみたかったんだよ。ガキの××。」
「ク…クソ…クソ…!クソ!クソ野郎!」
「ガキの罵倒なんか痛くも痒くもねェ~…ほら、さっさと脱げよ。それとも脱がしてやろうかァ?」
「や…やめ……」
少しだけズボンをずらされ、下着がその姿をちらつかせたとき、マユミはその瞳からボロボロと熱い液体を零し始めた。
「やめて下さい…やめて下さい!やめて下さい!すみませんでした!本当にごめんなさい!許してください!」
泣きながら懇願する彼女の姿を、俺はただ見ていた。ただ見ていただけだった。何が何だか分からなかったからだ。
「泣いて許してもらえンのはガッコ―の中だけだぜ?俺が見てぇのはお前らの××だけだ。こう言うとなんか変態みてェで笑える。」
この空間で笑っているのはお前だけだ。一人は年相応に涙を流し、一人は興味なさげに「スマホ」をいじっている。
俺は―――
「ほら、早くヤれよ。」
「すみません…すみませんすみませんすみませんすみませんすみませェェん!!」
俺は―――
「ほら。」
「ごめんなさい…本当に……ごめんなさいって…言ってるのに…!なんで許してくれないの!?」
俺は―――
「うるせぇんだよテメェ!」
「………ぐ…ふっ…ぐぅ……ううぅ…うぁ……あぁ……」
俺は………
「助けて…」
一言。限りなく小さい音が耳に入る。誰が発したか分からないその声は、俺にしか聞こえていなかったみたいで、誰もそれに反応していなかった。
(俺は結局、何をすればいい。「助けて」ってなんだよ……誰か教えてくれよ……)
「あいつ」は言っていた「誰も助けになんか来ない」と。そして今の状況で発せられる「助けて」の言葉。二つの状況で関連性は―――
俺は気付いた。その瞬間、俺は男に飛び掛かった。
「俺が……俺が「助ける」……!「助けて」やる!」
あまり体重の無い俺だけど、運よく男はバランスを崩し、馬乗りになることが出来た。そのまま俺は握った拳で男の顔面を打ち続ける。
「ゆ…有覇……」
一心不乱に殴り続ける。ダメージが入っているかは不明だが、そんなことを気にする暇があるのならば殴り続けるのが俺だ。まさに鬼の形相で、一心不乱に殴り続ける。そんな俺の体は、突如として横に飛ばされた。
「あっぶな。これでいい?」
俺の認識の外側にいた女による蹴り。それは大して威力は無かったが、ちょうど鳩尾に入ったせいで意識が揺らぐ。
「ひー油断したわ。さんきゅ。マジで親に歯向かうとかどうかしてるぜ。」
男は地面に横たわる俺をさらに遠くへ蹴り飛ばし、足元に転がるマユミの頭を鷲掴みにした。
「おいおいおい、テメェのせいで無駄に反抗的になっちまったじゃねぇか。どう責任取ってくれんだ?」
男とマユミが会話を交わす中、俺は地面に這いつくばりながら思考する。
(違う……俺は…意味をはき違えてるんだ……)
「う……うるせぇよ…クソ野郎…」
「さっきまであんなに泣いて喚いてたくせに一丁前の口叩くじゃねぇか。嫌いじゃねェ。やっぱお前有覇と××××しろよ。」
(「助ける」ってやっぱり、ちげェんだ……)
思考が巡る。巡りに巡る。
「断る……断る!お前の言いなりになんかなってやんねぇ!クソ野郎が!」
(俺は“あの時”……何を思ってた……そこに答えが………)
その時俺は気付く、答えとか「そういうもの」を求める行為に意味が無いという事を。
(大事なのは…今何をするか……いや、何をしたいかだ。)
今この瞬間もマユミは叫んでいた。あいつに歯向かって。
(俺はあいつを助けたい……助ける…はつまり…)
これはほんの偶然で、確率的には間違いなくあり得る事。俺がたまたま這いつくばっていた地面のその先に、光るものを見つけるなんて事は。
それに不信も何もなく、俺はそれを握る。そして立ち上がる。
なんだか手になじむそれは、ぎらりと鈍い輝きを放ち、まるで自分の心のようだと思った。
いつの間にか、俺は男の首をそれで切っていた。赤いものが噴水の様に噴き出す。
「がッ……な、何すんだテメ…」
首元を抑える男の額にそれを投げる。ズドッという、これまた鈍い効果音を出してそれは突き刺さる。男は目をぐりんと回転させて、地面に力なく崩れた。
俺は男の額からそれを引き抜き、今度は女に向く。
「ひッ……こ、こないで…!」
これまたいつの間にか、女は首から赤い液体を噴き出しながら地面に倒れていた。残ったのは俺とマユミだけ。
彼女は俺を見て、少し怯えたような表情を見せた。しかし逃げ出すなんてことはしない。彼女は恐怖を押し殺し、俺に微笑む。
「あ……ありがとう……有覇…」
俺はそんな彼女の方を向く。
「……有覇…?」
ゆっくりと、ゆっくりと彼女に近づく。もちろん「ナイフ」を持ったまま。
「俺が……「助ける」……全員…」
その凶刃は誰にでも差し出され、刺しだされる。




