閑話 エピソード『α』 ④
「―――というわけで先生、α君を授業終了までのあと三十分間、彼らと一緒に過ごさせてやってはくれませんか?」
「校長」の物言いに、「先生」はあまり表情を変えなかった。
「…まあ、事情が事情ですからね……良いですよ。」
「生徒がどうかは知りませんが…」と誰にも聞こえないような小さな声で彼は呟いた。
もちろんそんな小声を聞き取ることなんてできるわけも無く、俺は周囲に集まっている人たちを見た。皆、興味深そうな目でこちらを見ている。
そんな中で一人、俺に後ろから声を掛けてきた。
「お、有覇!本当に来るなんてびっくりしたぞ!」
「ま……マユミ…」
一朝一夕の知識。まあ「おい」とか「お前」とかいう他人の呼び名よりは遥かにマシだろう。そんな呼び名も、マユミは特に気にしてないようだった。
その時、マユミの後ろから、黄色いボールを持った少女がひょこっと飛び出した。
「君…有覇って言うの?一緒にドッヂボールしない?」
「どっぢぼーる…?」
なんでも、「ボール」を投げ合って互いに当て合う「スポーツ」らしい。物騒だ。手に持った黄色いそれを見ながら思う。
先ほどの少女とマユミが、俺と白線を挟んだ場所で横移動を繰り返している。
「へいへいへーい、かかって来いよ有覇―」
「当ててみてよー当ててみてよー」
奇妙だ。奇妙すぎる。当てればいいのか?これに。
振りかぶって、「ボール」を投げる。思ったより力があったようで、まっすぐマユミの方へ飛んでいく。それをマユミはいとも簡単に捕らえた。
「ないすぱぁーす!差出人にへんそぉーう!」
と言って放たれたボールは大きな弧を描き、俺の脇腹に直撃した。
「ぐ……」
マユミの玉の威力が強すぎるのか、俺が軽すぎるのか、どちらかは分からないがとりあえず、結果だけ言えば俺の体は吹き飛んだ。二秒くらい空中にいたと思う。ざらざらした地面の感触と、口に感じる不快感。だけれど俺は楽しかった。
「ガハハ!弱いな、有覇!」
俺を見下して言うマユミ。見下されるのは嫌いだったけれど、今は別に何とも思わなかった。
そのままボールを投げ合って、楽しい時間は過ぎて行く。俺とマユミと他の数人は一緒に楽しく遊んでいた。
そう。数人であって、全員じゃない。
「なんか……臭くね…?」
誰かが言っているのが耳に入った。俺はふと辺りを見回す。なんだか俺の周りだけ、抉れたように人がいなかった。一定の距離をとって立っている人々は、皆俺の方を見ている。全員が全員、同じような顔で。
その顔はなんだか似ていた。俺の親が俺を見るときと。
「もうそろそろかな。」
校舎に付けられた大きな時計を見ながら、「先生」は言う。そしてドッヂボールをしていた俺達の方を向いた。
「じゃあ授業はこれで終わりだから、皆教室に戻るように。有覇君は………」
「先生、私が預かります。」
なんだか悩んでいた「先生」の下に、どこからか「校長」が現れた。
「私は意外にも暇なのですよ。え、意外じゃない?」
「私は何も言ってませんが……まあ、校長先生が良いと言うのなら良いのでしょうね。」
そう言うと「先生」は「校長」に一礼し、そそくさとその場から去って行った。
「じゃあα君、一緒に行きましょうか。」
残った校長は俺に微笑みかけ、手を差し出した。俺はその手を取ろうとして、やめた。そんな俺の様子を校長は微笑みながらただ眺めて、手を下ろした。
☆☆☆
俺と「校長」は横に並んで歩いた。もちろん俺の家へと続く道を。 親と歩くというのはこういう事か、なんて思った。全く戯言だけど。
俺はあの時「校長」の手を取らなかった。それは別に逃げたかったとか抗いたかったとか、そんな反骨精神旺盛な感情からじゃない。
横を見上げる。優しそうに微笑んでいる顔に思わず口が緩む。
「校長……俺って…臭いか?」
「ええ、臭いですよ。」
迷いなく言った。ズバっと言い切った。体が両断されたような感覚だ。結構ショックだったのだけど、彼は相も変わらず微笑みながら言葉を続ける。
「体臭を気にしているのは良いことですよ。あ、変な言い方になりましたね。自分を見直すことが出来るのが良い事というわけです。」
「それってどういう…?」
「自身を見れるという事はつまり、周囲も見れるという事。他人と比べることで自分が見えてきますからね。他人を気にかけることが出来る人に、きっと君はなれますよ、α君。」
なんだか「校長」の言葉はくすぐったかった。誰かにかけてほしかった言葉とはまた違うのだけれど、いつか俺が必要とするであろう言葉が、今ここにある様な気がした。
きっと俺の求める答えも、この人は出してくれるだろうと買いかぶってしまうほど。
俺の求める答え、それは「俺の生まれた意味」だ。
だがほとんど初対面の人物に聞くようなことでもないので、俺はそこまで聞くことはしなかった。
やがて俺は俺の家にたどり着いた。俺は自分の家への道筋なんか全く覚えていなかったけれど、「校長」は知っていた。俺の家は地域で有名らしいので別に違和感は覚えない。むしろそれが普通だと思っていた。他人が自分の家を知っていることが。
鍵のかかっていない扉を開く。そして中を覗く。
「よかった…誰もいない。」
呟いて、足についた泥や砂を払ってから中に入る。「校長」も靴を脱いで、僕に続く。
かちゃり。
後ろで音がした。だが俺は気にしなかった。気にしていても、振り返っていても、結局どうにもならなかった。
唐突に、俺の頭は床に押し付けられる。衝撃でそこらにあったビール缶がカランカランと軽快な音を立てて転がる。
俺は何とかして首を捻り、後ろを見た。
「君の親御さんは朝から晩までパチンコなんか行っている、まさしく毒親、ダメな親です。」
優しい声で「校長」は言う。その優しさが、怖かった。どこまでも底の知れない、人の黒より暗く濃い裏面。その一端に触れた気がして。
いつの間にか俺の腕は後ろで固定されていた。両手を、片手によって。
「ああ、本当に、ダメな親ですね。こうして子供を一人にするなんて…この世界、どんな人間がいるかもわからないのに…」
「校長……なんで……何する気だ…」
「別に悪いことはしません。むしろ良い事です。気持ちの良い事。」
呼吸が浅くなる。俺のズボンに手が掛けられる。それを体の回旋だけで振り払う。その拍子に手の拘束もほどけたが、すぐに押さえつけられる。両足は「校長」の両足に押さえつけられ、俺と「校長」は向き合う形になった。
「誰も君を助けには来ませんよ、α君。誰も君に手を差し伸べない。君は救われない。だったら無駄な抵抗はナシに。早々に諦めた方が楽ではないかな?」
「う…うるせぇ……俺は…諦めたり…なんか…」
俺の言葉はそこで止まる。止めたというか、止められた。俺の口は塞がれたからだ。「校長」の口によって。
「んむ……!…ん……ん…………………」
暴れた。暴れたけれど、止まった。抵抗する力も何もかも、俺の体から抜け落ちた。
そうして俺の目から、光が消えた。
大事な何かが、奪われた。




