閑話 エピソード『α』 ③
あの男は俺をとある部屋に送り届けて、早々に元の場所に帰って行った。その部屋の名前は「校長室」。自らを「校長」と名乗る人物がその部屋にいた。
俺はなんとなくこの世界の仕組みが分かってきた。「学校」に来るまでにいくつか「渡辺」とか「佐藤」とか「雉宮」とかの文字が彫られた板とその奥に扉があった。つまりこれまでの経験的に言えば、その扉の先にはその名前の人物がいるのだ。
こんな程度の事でも、俺は世界をしれた気がして、少しだけ嬉しかった。
内心少し喜んでいる俺に、低い机を挟んだ椅子に座る「校長」はコップに入ったお茶を差し出した。
「まあ、まずは飲みなさい。話はそれからです。」
俺は何の疑いも無く、差し出されたお茶を飲んだ。別に俺は「校長」を信頼なんてしていない。ただ飲み物に何か毒物を混ぜるとか、そういう可能性があることを知らなかった。他人と関わる機会が無いため、他人を疑うという事を知らなかった。だから迷いが無かったのだ。
俺がお茶を飲み干したのを見て、「校長」は話を始めた。
「時に有覇君、君は教育を受けさせてもらっていますか?」
「教育……?」
聞いたことはあった。印象にも残っている。なぜなら俺の父が俺を殴るとき「これは教育だ」とよく口にしていたから。いいイメージなんて抱きようがない。
「この国にはね、大人は子供に教育を受けさせないといけないというルールがあるんですよ。」
「………。」
「校長」は言葉を続ける。
「教育というのはつまり、生きるために必要なことを学ぶためのもの。教育が無ければ、今のこの国では生きられないんです。」
「ちょっと質問なんだが、教育っていうのは悪いことをしたら叱ったり殴ったりしたりすることを言うのか?」
俺のその発言に、「校長」は首を傾げる。
「…ふむ。そう言う人も、おそらくは今でも居るでしょう。ですが一般的に、常識的に、それらは教育とは言えませんね。」
であれば俺の受けてきたことは教育ではないという事だ。だったらなんなんだろう。もしも意味が無い事だったら、俺は―――
「教育は痛みを伴って行われるべきではない。痛みを伴ってしまえばそれは、動物の躾と変わりません。」
少しだけ、何か少しだけ心が救われたような気がした。「動物」の「躾」が何なのか、俺は全く知らないけれど、つまりは「そういうもの」なんだと分かって、ほんの少しだけ安心した。
俺もいつか分かるんだろうか。「俺」が「どういうもの」なのか。
「つまりは、君は虐待を受けているという事になります。その身なり、まあ見るからにって感じですが。」
汚い裸足。汚れた白シャツ。袖から覗く細い腕。ところどころ穴の開いたジーンズ。俺のいつも通りの服装は、見るからにって感じらしい。
一方「校長」は、綺麗な白い半袖のシャツに、傷一つないズボンを着用し、肉付きの良い腕を見せていた。
「森羅さんの家は、地域では少し有名だったのですよ。虐待をしているんじゃないか…てね。なので何度か児相の方々が伺っているはずなんですが…まあ、今回が良い機会でしょう。」
「校長」は太い腕を胸の前で組み、独り言のように呟いていた。そして彼の座っている椅子の傍から、ある一枚の紙を取り出し、机の上に置いた。
「明日にでも、職員さんが君の家に来てくれます。」
とにかく難解で堅苦しい文字が、ずらりとそこには並んでいた。紙の一番下の左端には、用紙の横幅三分の一程の長さの二つの線が引かれている。
「虐待があったという事が分かれば、ちゃんと対応してくれますよ。これは所謂証明書。この線の所に、自分の名前を書いてください。」
そう言って「校長」は手のひらサイズの棒状で黒いものを俺の手前に置いた。俺はそれをただじっと見ていた。何の用途に使うのかがさっぱりだったからだ。
そんな俺に、「校長」やはり優しく声を掛ける。
「悩むのもよく分かります。だけど安心して。これから有覇君は同じような境遇の子達と一緒に色々学んでいけるんですから。そこでの生活はきっと、今の生活より幸せなものだと思いますよ?」
「いや…そういうのじゃなくて……ただ…「書いて」ってなんなんだ…?それにこれも…俺には分かんないことだらけだ……」
手にその棒状の物を持ちながら漏らす。滑らかで細く長い紡錘形。手に持つとその重みがずっしりと感じられる。
「校長」は俺からそれを取り、上半分を回転させた。すると、先から針の様なものが飛び出す。
「これはペンですよ。書くときに使う道具です。そして、書くとはこういう事です。」
そう言うと、彼は机に置かれたその紙の二本ある線の内、下の線の上でその「ペン」を走らせる。針の先から黒い線が出てきて、紙には「鬼瓦正芳」という文字が書かれた。
彼は「ペン」の針が出ていない方を俺に向け、差し出した。
「こうやって書くのですよ。」
俺はそれを受け取った。しかし自分の名前の書き方なんて習っていない。何を書けばいいのか分からず、とりあえず俺はその線の上に丸を書いた。本当にただの丸で、それ以外の何でもなかった。少なくとも俺はその丸に何も意味を込めていなかった。だがしかし、「校長」は違ったらしい。
「……君の名前は有覇と聞いていたのですが……なるほど、『α』ですか。」
呟きながら、頭上の何もない空間を彼は見る。そして、俺が丸を書いたその紙を薄く透明な物に入れた。
「まあ欲しいのはサインですから。認められるでしょうね、『α』君。」
「あるふぁ……君?」
その呼び名は新鮮だった。新鮮だったし奇抜だったけれど、しっくりきた。
「校長」は組んでいた腕を解き、腰を上げた。俺もそれに倣って立ち上がる。
「さてと、これで終わったわけですけど。何か聞きたいことはありますか?何でも聞いてください。」
「………じゃあ…俺も……」
言おうとして、言い淀む。声が自分の思うように出ない。
「俺も……あいつらと……」
喉が何だか動かない。気分は別に悪くない。顔が熱い。
「あいつらと……同じように……」
いや違う。これはただ単に、恥ずかしいだけだ。
「遊んでも…良い…か?」
俺は意を決して言った。その言葉を言うのがなんで恥ずかしかったのか、俺には分からなかった。
「校長」はそんな俺の様子に微笑んだ。
「あれはね、遊びではないんですよ。教育です。」
笑みの中に静かな厳格さを感じる。それは全く、緩むことなく―――
「教育は、子供に平等に与えられなければなりませんからね。もちろん、許可します。」
「校長」は優しく笑い、僕と共に運動場に歩き出した。




