閑話 エピソード『α』 ②
平日の朝から夕まで、この家は俺一人だけの空間になる。あの男も女も別に働きに出ているわけではないらしいが、俺にはそんな事関係なかった。とりあえずこの時間帯に限って、俺は自由でいられるのだ。
これまで出ることのなかった部屋の扉を開く。すると、涼しい風と暖かな日差しが俺を歓迎した。
心地が良い。そう思った。しかしここはスタートラインであり、終着点ではない。俺はその裸の足を踏み出した。
地面は温かい。空気も温かい。あの部屋にいるより体が温かく、心が前向きになっているのを感じる。
「学校」というものがどんなものなのか、俺は知っている。あいつから散々聞かされていた。俺の様な年齢の子供が普通行く、巨大な施設なんだとか。俺が普通じゃないという事は、薄々気付いていたことではあったので、今更傷つくことでもない。
(いや違う。普通じゃないのはあいつらだ。俺は違う。)
普通の親に産まれていたら、俺はきっと学校に行っていた。学校に行かせてくれない俺の親こそが異常なのだ。
そう思いたかった。思わなければ、生きていけなかった。俺は俺が異常だと、認識したくなかったんだ。
ただなんとなく歩いていると、俺の先を腰の曲がった人が歩いているのを見つけた。俺はその人に話しかけることにした。
「あ、あの迷子なんだが…」
後ろから突然話しかけたので、その人は戸惑っているように見えた。
「え…?ああ、親御さんはどこかな?」
「親」そんな言葉、俺は知らない。
「親は……違う。学校に行こうと思ったら迷ったんだ。」
「あら、そりゃ可哀そうだ。ここら辺なら…翠小の子かね。お爺さんと一緒に行こうかね。」
自らを「お爺さん」と名乗ったその人は、俺に手を差し出した。俺はその手を見て、首を傾げる。
「また迷子になったら危ないだろ?ほら、お爺さんとはぐれんようにな。」
どうして手をつなぐ必要があるのか分からなかったが、「そういうもの」なんだと理解して、俺はお爺さんの手を取った。その理解の仕方は得意だった。
俺はお爺さんと一緒に、道を歩いた。「何年生なの?」とか「何組なの?」とか「友達は?」とか歩いている時に何度も質問されたけれど、俺はよくわからなかったので、毎回適当な答えを返していた。その答えが変ならば怪しまれていただろうけど、全くそんな素振りを見せなかったので、上手く騙せたんだと思う。
そうやって他人を騙しながら、俺はおそらく目的の場所に到着した。
大きな建物だった。ところどころ劣化したところはあるけれど、俺の部屋よりは遥かにマシだった。
「さ、ここだよ。急いで行ってきなさい。」
お爺さんは俺の背中を押した。俺は振り返ることなく、その建物に駆けて行った。そんな俺の背中を、お爺さんはなんだか心配そうな目で眺めていた。
そんなことも露知らず、俺はとりあえず辺りを見回した。正面に見える白い大きな建物、ガラスの扉があるのが見えるが、どれも閉まっているようだ。ここからは入れそうにない。
学校の左側を見ると、そこには広い砂場の様な土地が広がっている。そしてそこでは多くの人々が白っぽい、統一された服を着て遊んでいた。俺もその一員になりたい、とかそんなことは思ってないと思うけれど、しかし俺はいつの間にかそこへ歩き出していた。
足に伝わる感触が温かく硬い物から、ザラザラとしたものに変わる。足の裏には砂がついてしまったけれど、俺はあまり気にしなかった。
たとえそこが広くとも、群に紛れていない者は分かりやすい。俺の下にその群の中の、一人だけ黒い服を着た、背の高い者が駆け寄って来た。
「ちょ、君、どこの組の子かな?授業から逃げ出してきちゃった?」
男とは思えない程優しい声で、俺の前にかがんで問いかける。俺はそれにほんの少しだけ衝撃を受けた。
「授業……まあそんなところで。」
俺が逃げ出したのはあの家からだが。いや、夕方には戻るから実質逃げては無いけれど。
「あっちゃー……君、何年何組?言える?」
「あ……えっと……」
先ほどのお爺さんの時の様にはいかないだろう。状況的に。ここにいる大人ということは、ここの事を知っている大人という事。それも詳細に。そんな者に小手先の嘘など通じない。子供は素手では大人に勝てないのだ。
打開策を何とか練ろうと頭を回転させていると、目の前の男の奥から、見覚えのあるやつが顔を出した。
「あれ、お前、来たのか!」
俺と度々飯を食っていたあいつが立っていた。おれとそいつは顔を見合わせて、そんな俺達の様子を男は見ていた。
「なんだ“マユミ”、知り合いなんだ。」
男はあいつの事をそう呼んだ。あいつの名前が「マユミ」なんだと、今初めて認識した。マユミは男の方を見上げる。
「確かに有覇は知ってるぜ?森羅有覇、俺の近所の。でも俺、有覇がどこのクラスとか知らねぇぜ?ていうかそもそも有覇って学校通ってなかった気が済んだけど。」
マユミのその言葉を聞くと、男は神妙な顔をした。
「森羅有覇……森羅………君、ちょっと一緒に来てくれるかな?」
「え、あの…」
俺の返事を待たず、男は俺をそこから連れ出した。




