閑話 エピソード『α』 ①
※このエピソードは読まずとも本編にはさして関係ありません。人によっては不快になる方もいるかもしれないので、読む方は心の準備を十分にして臨んで下さい。
その家は荒れていた。荒れに荒れ果てていた。窓にはひびが入り、カーテンはところどころ破れ、壁には茶色い汚れが、床はゴミ袋とビールの空き缶まみれだった。鼻には常に酒と煙草の匂いが入り、まだ十歳の彼には不快な空間でしかなかった。
だがそれまではマシだった。ただの不快な空間に閉じ込められているだけのこの状況は、良くはないが、最悪ではなかった………最悪はほぼ毎日訪れてくれるものだけど。
今日ももう夕陽が傾いている。そろそろ来る時間だ。
彼はリビングで膝を抱えながら、横に置かれたゴミ袋に寄りかかっていた。人の肌よりもぬくもりを感じる。
そうしてただ、壁に掛けられた時計の秒針が時を刻むのをぼうっと眺めていた。
カチ
カチ
カチ
「あ。」
十七時。あいつらが来る。
扉が開く音がした。
「ようようよーう。生きてるかーい?有覇くぅーん?」
「一日放置しただけで死んでるわけないでしょ?」
男と女。こいつらの仕事はよく知らない。どうだっていい。俺は別にこいつらに興味なんて無い。こいつらも俺に興味なんて無い。だが、俺が産まれた理由がこいつらのキモチイイことの結果でしかないという事実だけは受け入れられない。
(俺が産まれた理由が、それ以外にあればいいのに。)
思って、濁った重たいこの部屋の空気と同じ色の溜息を吐いた。
「おい有覇、今日の飯これな。」
女は袋から小袋の菓子二つと乳酸菌飲料を一本だけ取り出し、俺の前に置いた。このラインナップの時はこいつらの気分が良い時だ。
俺はそれを無言で手に取り、ちびちびと口に運ぶ。一方であいつらは、カップ麺とプラスチックの箱に入った揚げ物を美味そうに食っている。
「だからよー、お前マジで打つの下手くそなんだよ。毎回中当たりで終わったもンを追いかけっから負けんだよ。」
「えー、でもなんか十回転とかでそれだったら調子よさげって思うくない?」
「結局運ゲーなんだよ馬鹿。その当たりでスロ行っとけっての……ん?何見てんだ?」
男と目が合った。思わず目を背ける。袋菓子をつまむ手が少しづつ震える。
「なァんでそんな震えてんだよ!見ててイライラすンだよ!」
硬いものが飛んで来た。俺は咄嗟に頭を守るために腕で防いだ。響く鈍痛と、同時に強まるあの嫌な臭い。投げられたのは灰皿だった。
女はそんな惨めな俺の姿を見て、男を止めるどころか嘲笑っていた。
「あんたにはやらないわよ。もうあげたでしょ。欲しいんならあんたも金稼いで来る事ね。」
女の言葉に男は「ハッ」と笑った。
「収支マイナスの癖に何言ってんだァ?だったらテメェの分のトンカツ俺が食っちまうぞ?」
トンカツに差し出された箸を、女も箸で妨害した。
「これから取り返すしーまだ五時だから閉店まで時間あるでしょ?」
女はラーメンとトンカツを一気に腹の中に落とした。そして、何か動物の皮だろうか。黒光りしていて見るからに高そうなバッグを肩に掛け、この部屋から出て行った。
「おいおい、そんな急くなよ。」
男は食いかけていたトンカツだけ口に放り込み、ラーメンの残りは机の上に放っておいた。
そして男も、安っぽい長財布だけ持ってそそくさとこの部屋を後にした。
部屋にはもちろん俺が一人残される。ここから二十三時までは安寧の時間だ。だからと言ってこの空間は安心できるわけも無いが。
俺は目の前のちゃぶ台に置かれたあいつのラーメンの中を覗いた。茶色いスープの中に麺や緑色の物が浮かんでいて、味噌と豚骨の匂いが鼻に入る。しかし食欲はそそられない。
そもそもあいつが食ってたものなんか、口に入れたくもない。
袋菓子の二つ目を開け、ちびちびと味わいながら食べる。醤油味だ。
糞みたいな生活だと思う。しかし俺がそれでも腐らず生きていられるのにはもちろん理由がある。
それは光。俺の人生で唯一の光だ。
窓を二回、叩く音が聞こえる。俺は傍らに置いてあった空のペットボトルを掴み、窓に向かって投げた。軽い音を出し、ボトルは家の中に転がる。
俺はほとんど肉が無いはずなのに、重く感じる体を窓の傍まで引き摺った。
そしてカーテンを開ける。
「お、生きてたか?有覇。」
手をひらひらと振りながら、そいつは笑った。俺は滑りの悪い窓を開ける。
「何とか生きてたよ…いつか絶対こんな家出てってやる。」
「はは、応援してるぜ。」
すると、そいつはいつも通り大きな袋を家の中に押し込んだ。そしてそいつも窓から部屋に入り、袋の中から三角形の白いものを取り出した。
「これ、一緒に食べようぜ。おにぎり。」
「おにぎり…?」
始めて見る食べ物だった。
きょとんとしている俺に、そいつはそれを差し出した。
「食ったことねーの?日本人だろ?美味いぞ」
俺は差し出されたそれを手に取り、そのままかぶりついた。
「ちょ、ちょっと待てよ。ラップは外せ。中身を食うんだ。」
ああなるほど、道理で味がしないと。
俺はその透明の包装をはがし、白い粒粒———白米を頬張った。少ししょっぱく、しかしどことなく甘さもある。そんな味わいだった。
「ん、美味い!」
「だろ?」
そいつは楽しそうに笑った。
いつも十八時くらいから、俺達はこうして俺の家で一緒に飯を食う。この時間帯はそいつの親も外に出ているらしい。寂しさからふらついていた時に、俺がこの家にいることを見つけたのだとか。
俺達はいつも他愛もない話をする。
「今日な、俺のクラスに転校生がやって来てさ、そいつがほんと呆れるほど問題児でさ、担任の先生もめっちゃ手焼いてたんだわ。」
「へえ、そうなのか。」
俺は「クラス」とか「転校生」とか「担任」とか「先生」とか、その単語が何を指しているのかはさっぱりだったが、とりあえずそいつに話を合わせていた。
そうしなければ、俺は———
「あーあ、有覇も俺の学校来てくれたらなー…」
一言、そいつは呟いた。
その瞬間、俺はとある決断をした。




