七話② 非日常の始まり
彼は公園のベンチに腰掛け、空を仰ぎ見た。少し雲が多くなってきている。「これは降られるかもな」なんて思いつつ、誰が聞くでもない独り言を始めた。
「……十歳の頃、俺は両親を殺した。両親なんて言うのも嫌悪のある糞親さ。朝から夕まで街をふらついて、帰ってきたら俺を殴る。俺はあいつらからしたら多分、子供じゃなくてサンドバッグだったんだろうな」
彼の背後の木に縛り付けられた少女は気絶しており、彼の言葉を聞く人はここにはいない。しかし彼は、言葉を続けた。もしかしたら、この行為は彼にとって重要なものなのかもしれない。
「……いや、サンドバッグだったらまだいい方だ。ちゃんと意味を持って生まれてきてるからな。サンドバッグっていう。むしろ俺は、その時の俺は、自分があいつらのキモチイイ事のついでに産み落とされただけの、無意味な存在なのかもしれないって事の方が恐ろしいと思ってたからな」
通行人は彼らの方をちらりと見て、そして何事も無かったかのように過ぎ去っていく。映画の撮影だとでも思っているのだろうか。いや、彼がそう思わせているのか。
「自分が無意味な存在だってことを認識することよりも怖いことってェのは、この世に存在していなかった。だからこそ、自分の役目を見出した時はそれはもう生まれ変わったような気分だったぜ。あいつに拾われて、あいつの指示で動くのは、俺からしたら最高に気持ちいいことだった」
彼は体を大きく反らせ、後ろに張り付けた少女を見た。
「お前も、兄貴のために命を散らす役割を持ってたって思えば、他の無名の連中からしたら案外幸せなのかもしれねぇぜ?」
そんなことを言う彼に、近づく人影があった。いや、人影ではなく猫影か。
「そんな崩壊した論理、聞いてて呆れるにゃあ、鬼木羅木」
彼女は、彼の正面の林から音も無く現れた。彼女の鋭く長い爪は、おそらくナイフよりも人の頸を掻き
切るのに適していた。
そんな人物の登場に、鬼木羅木は溜息を吐いた。
「なんでてめぇなんだよ、猫。俺は別に招待なんかしてねぇぞ?」
「いやいやいや、猫の嗅覚を舐めてもらっちゃあ困るにゃあ。少しここから血の匂いがしたからにゃ、なんだろうと見に来てやったわけにゃ」
その言葉に鬼木羅木はハッと笑った。
「血なんて一滴も垂れてねェけど。もしかしてお前、ただ単にずっとつけてただけだったりするか?」
「さあ、真実はネコ様だけが知るにゃ」
にやり、と猫は口角を吊り上げた。しかし鬼木羅木は相変わらず、体を反らせた姿勢を保っていた。まるで前にいる人物になんか興味がないように。
「で、お前は何しに来た?もしかしてこれを止めに来たのか?だったら今ここで敵対するしかなくなるけどなァ?」
「もちろん、止めに来た。だがにゃあ、一つ聞かせてほしいわけにゃんだけど、どうしてお前はそんなことをするのにゃ?」
猫の言葉に鬼木羅木はまた溜息を吐いた。
「俺のさっきの前段ストーリーは聞いてなかったのかよ……まあいい。とりあえずお前にも教えてやろう。どうすれば演者が体験者に成れるのか。その条件ってやつを、詳しく」
彼は言葉を続ける。
「まずな、大前提として、気持ちが大事っていうのはあるだろ?強い気持ち、欲求が、体験者に至るための重要な役割を持つ。それはお前でも当然知ってておかしくない事さ」
彼はどこからともなく取り出したナイフを、手の上で遊ばせている。
「で、その強い欲求ってのは、満たされている人間には産まれねェ。現状に満足しちまってる奴は、これ以上を望むことがねェからな。ま、眞弓君は結構おかしな奴だったから、こういうことをしてもこっち側に来れるかは分かんねェけど」
鬼木羅木は持っていたナイフを縛られた少女に投げた。それは顔の真横を通り、背後の木の幹に突き刺さった。
「おそらく眞弓君は、勘違いをしてるのさ。で、お前達はそれを訂正してやることも出来ずに、ただただ嘘であいつを騙してる。それって俺が今からする行為と比べて、果たしてどっちの方があくどいんだろうなァ?」
猫は閉ざしていた口を開いた。長い爪を鬼木羅木の方へ向ける。
「お前にゃ。間違いなくお前が全て悪いにゃ。ニコは、別にそんな事望んじゃいないにゃ。ただあいつは、日常を享受したいだけ―――」
「いやいや、それは単にお前達の願望だろ。まだ異常を体験していないあいつを、勘違いで入れちまったお前達が、自分達のミスを誤魔化すためにあいつの気持ちすら誤魔化してるんだよ」
鬼木羅木は言葉を続ける。
「あいつは幸せになっていい。だから俺は、今からあいつの目の前であいつの妹を殺すのさ」
言い切って、体を起こした。猫は既に姿勢を低くし、臨戦態勢を取っている。
「狂ってる…狂ってるにゃ……お前…」
「世の中、正しさを突き詰めたらこうなるんだよ」
鬼木羅木は立ち上がり、何処からともなくナイフを取り出した―――いや、生み出した。
「そういやお前、あいつと仲良かったんだよなァ?」
空から取り出したナイフを両手に持ち、鬼木羅木は不気味に口角を吊り上げた。
「お前も殺してあいつに見せびらかしてやるよ!」
「悪趣味なヤローだにゃあ!」
猫は四足で駆け、鬼木羅木に飛び掛かった。
☆☆☆
公園に着くと、僕の鼻に水滴が落ちてきた。朝の天気予報は…見ていなかったので、ここで雨に濡れるのも仕方ないことか。
まだざあざあ降りではないが、三十分もしたら酷くなりそうな雲行きだ。急がなければならない。
僕は走って公園中を探すつもりでいた。しかし、案外簡単に見つけることが出来た。なぜならば、僕の妹が縛られている木はなんと公園の中でも中心の、人通りのある所にあったからだ。
「奈央ちゃん…」
走っていくと、奈央ちゃんの姿のほかに、二つの人影が見えた。その内一つは、今朝見たものだった。
あいつは相変わらず、真っ赤な革ジャンとダメージジーンズを履いていた。
「鬼木羅木…」
声を掛けると、あいつはこちらを見てにやりと笑った。
「遅かったな。俺からしたらちょうどいいんだが」
駆け寄る僕の足元に、鬼木羅木は足元に落ちていたものを投げた。それは、二つ見えていた人影の内の一つ。
「ね、猫!?」
ところどころ刻まれ、流血をしている猫の肢体が僕の足元に転がってきた。
「おい、猫!猫!起きろ!」
必死に頬を叩くが、猫は反応しない。だがしかし、消えないのならば安心できた。
「おいおい、そいつはお前に嘘をついてたんだぜ?お前がそんなにそいつを気にかけてやる義理も道理もねぇと思うんだが…」
「黙れよ!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
「なんでこんなことをした………なんだよお前、意味分かんないよ!」
「意味が分かれば納得できるのか?じゃあ―――」
鬼木羅木はどこからか取り出したナイフを、奈央ちゃんの頸に触れさせた。
「今からお前の妹をそこの猫ちゃんと同じようにしてやるよ。あとでその意味も教えてやるからさァ!」
「な…お前、やめろ!」
ナイフが掲げられる。ぎらりと光るそれは、僕の妹の奈央ちゃんの頸に―――
―――深く、突き刺さった。
刺さったところから血が溢れだす。あの小さな体躯からは想像もできない程の血が、だらだらと流れる。鬼木羅木は頸からナイフを抜き、その穴からはより多くの血が溢れだした。
そんな光景を見て、僕は―――
「う、あぁ、はぁあ…あ!ああぁあ……!」
―――呼吸が激しくなった。




