六話② 水に流そうぜ
僕は自分の部屋で、ただなんとなくぼうっと、ベッドに寝転がって天井を見ていた。猫はというと、リビングで奈央ちゃんと母と一緒に遊んでいる。先刻、僕の尊厳を破壊した奴と楽しく遊べるなんて、僕の家族はどうかしている。
まあそんな事、彼女たちが知るわけも無いのだけど。
「………」
正直………
「………」
僕は………
「………」
いや……
「だめだな、こりゃ」
呟いて、眞弓は夜の風を浴びに外に出ることにした。機能しない頭をさっぱり冷やすために。
時間帯的にはまだギリギリ補導されないくらいなので、近くのコンビニまでアイスでも買いに行こうと思った。
そのはずだった。
玄関の扉に手を掛ける眞弓の背中に、母は声を掛けた。
「あ、猫の散歩やっといてね」
振り返ると、母は紐を僕に差し出していた。その紐は、猫の首に繋がっている。複雑そうな顔をしている猫の首に。
「ちょっとまって?猫って普通散歩しなくない?」
これはかなり当然の疑問だった。町を歩いていると、犬を散歩している人を見る事はあれど、猫を散歩している人を見る事は無い。それの理由としては、散歩はそもそもペットの運動不足解消のために行う事であって、屋内の運動だけで事足りる猫にはする必要が無いかららしい。
しかしそんな理由があれど、僕が母を出し抜くことは出来ないのだった。
「この猫ちゃん、だいぶデブちゃんじゃない?だから、散歩してあげるのも良いかなと思うんだけど?」
「元からデブなんだから、別にいいだろ」
猫は僕の事を睨みつけた。
「散歩しないなら外出許可しないわよ」
「ぐう」
の音は出た。だがしかし、そんなことを言われてしまえば反論などできなかった。
そうして僕は、吹雪とかに見られたら間違いなく縁を切られそうな状態で家を出た。
「楽しいかにゃ?」
不満げに猫は僕の隣を歩きながら口を開いた。
「何が?」
「女子を夜の散歩に連れ出すのは楽しいか?って言ったにゃ」
僕はそれに溜息を吐く。
「楽しいわけないだろ。ほら、首輪外すぞ」
そう言って首輪に手を伸ばすと、猫はそれを叩いて拒絶した。
「いや、これは外さない方が猫っぽいからいいにゃ」
「どっちなんだよ」
「その紐」猫は僕が持っているリードを指差した「それをお前が持ってるのが気に入らねぇにゃ」
「あぁそうかい」
僕はリードの持ち手を彼女に渡した。
車通りが少ない通りで、眞弓と猫の二人の足音だけが響いている。この季節の夜は虫が少ないのでかなり静かだ。空にはところどころ雲が覆っていて、星の輝きもそこまで見えず、あまりきれいとは言えない。
僕達は最寄りのコンビニまで歩いている最中、小さな公園を見つけた。遊具が滑り台くらいしかない、面白みが消された公園だ。
「僕が小さい頃はさ」
僕は切り出した。
「この公園にはブランコとかジャングルジムとかあって、ついでに土地ももっと広かったんだよ」
僕の話を、猫は隣で静かに聞いている。
「でも小学生の頃、駐車場が造られるって話で、公園の半分くらいが持ってかれることになったんだ」
僕達は公園の中に入り、近くのベンチに腰かけた。
「普段の遊び場がここだったからさ、僕とか友達は必死になって抗議しに行ったけど、大人は聞き入れてはくれなかった」
その時の情景を思い出そうと、僕は目を瞑った。市役所まで行って事務の人に要件を伝えたら門前払いされてしまった、そんな光景が浮かんだ。
「だから僕達は考えたんだ、僕達の―――」
「つまらない日常の話なんてすんにゃ」
一蹴し、猫はベンチから立ち上がった。これからが面白いところなのに、空気の読めない奴だな、と僕は思った。
「というかなんでお前はそんな話をし始めたのにゃ?」
「え、いや、ただなんとなく公園が目に入って…」
「なんとなくでにゃあの時間をとるにゃよにゃ」
猫は自身の髪をいじりながら言った。そうして頭の上に二つの山を作った。
「猫耳…?」
「うんにゃ。元々この髪型だったけど、最近はのんびりすることが多くてにゃ……」
「………?」
そこで彼女は言葉を止めた。彼女は空を見上げ、月を眺めていた。僕も見上げた。少しだけ欠けている不完全で不格好な月がそこにはあった。
「ニコ」猫が首だけ動かしてこちらを見た「お前はあの月、美しいと思うかにゃ?」
質問の意味が分からないが、とりあえず返す。
「えぇ、まあ、奇麗な方じゃないかな?」
「……そうか」
猫は呟き、また視線を月に戻した。いったい何の時間なんだろう、これは。
「にゃあは本物が見たいにゃ」
「…本物?」
「そう。この仮想の世界の元になった世界。つまりは本物の世界。そこにある正真正銘本物の月。この世界の物とは比べ物にはならない美しさのそれを、にゃあは一目見てみたいにゃ」
僕はその言葉に、以前から思っていたことを打ち明けることにした。
「本物の世界ってさ、言うけどさ、実際この世界が偽物だっていう根拠は君達の昔の仲間の証言以外にないだろ?僕としては、この世界も疑いようがないくらい現実なんだけど」
猫はその言葉に「やっぱりお前はつまらない奴にゃね」と呟いた。
猫は再び、僕の隣に腰かけた。
「にゃあの過去話をしてやるにゃ。つっても、断片的にしかおぼえてねーけどにゃ」
「僕の過去話を差し置いて?」
「差し置いて、にゃ」
あまりにも堂々と言うので、僕は溜息も吐けなかった。
唖然とする僕をよそに、猫は話し始めた。
「にゃあは今でこそこんな風にゃが、産まれはごく普通の一般家庭だったにゃ。別に不自由はしてなかったと思うにゃ。優しい母親と不干渉な父親。その時はそんな父親がにゃあの家だけだと思ってたにゃが、思ったよりそんな父親って珍しくないらしいにゃね」
僕は確かに、と思った。僕の家も、父親は小学生のころから一人海外に単身赴任中で、かろうじて顔は思い出せるけれど、父と何かした記憶は無い。幼稚園の頃にこの公園で遊んでいたらしいが。
「でまあ、にゃあは……弟が一人居たんにゃけど、その弟とにゃあ、父母の四人で暮らしていたわけにゃ。吹雪の家程金はねーにゃが、まあ不自由はしてなかったにゃ。食う事には困らにゃいし、欲しい服があったら買ってもらえる。高い物はダメだったにゃけど、案外何不自由ない生活って言うのはこういう普通より少し良い暮らしを続けられるってことなのかもしれないにゃね」
猫は言葉を続ける。
「そんにゃある日、にゃあ達は父親に連れられてこの街の…ちょっとばかし離れたところにある遊園地まで遊びに行ったにゃ。にゃあの家では恒例の旅行でにゃ、なんの変哲もにゃいただの日常にゃった」
僕は黙って話を聞いている。
「もう五回くらい行ってたかにゃ。にゃからにゃあは飽き飽きしてたにゃ。こんだけ同じ遊園地に行って、何が楽しいのか。そう思って、にゃあは思わずこぼしちまったにゃ。“つまんない”ってにゃ。その時の母さんと父さんは、どんな顔してたと思う?」
彼女の唐突な問いかけに、僕は何も頭をひねらず言葉を出した。
「え?普通に怒ってたんじゃないの?」
猫は首を横に振った。
「どこまでも、悲しそうだったにゃ。なんでそんにゃ表情をしたのか、多分、自分たちを責めちまったんにゃろうね。にゃあ達子供を満足させられない自分たちが、情けなく思っちまったのかもしれんにゃ」
「いや、それはないんじゃないか?」
「それしかないにゃ。だってその翌日―――」
猫は息を吸って、吐いた。
「―――父さんと母さんは自宅で首を吊って死んでたからにゃ」
僕は思考が止まった。
「“満足に育てられなくてごめんにゃさい“って丁寧に置手紙まで残して、この世を去ったにゃ。にゃあはそこで多分、逃げ出したんにゃろね。自分のしたことの罪深さにも気づかずに。ま、記憶が曖昧で覚えてにゃいけれど」
猫は足をプラプラさせて、そんな過去の話などどうとも思ってないかのように能天気に見える。
「で、だ。この話でニコは違和感を覚えたにゃろ?奇妙な点が一個だけあるからにゃ」




