六話① 水に流そうぜ
「ニコ、お前の思っている通り、にゃあは懐が深い奴なんにゃ。だからもうさっきのトイレでのことは、きれいさっぱり水に流してやるのにゃ」
トイレだけに、と。脱衣所で、猫は制服を脱ぎながら言った。そういえばこいつの制服は、他人にはどう見えているのだろう。毛皮だったら今剥いだってことになるけれど。
僕は腰にタオルを巻いて、浴室に入った。
「おいおいニコ、なぁんでそんなものを使ってるんにゃ?」
猫は不敵な笑みを浮かべて言った。
「常識的に考えろよ。ていうか、なんでお前は逆に何も巻いてないんだ?」
「体洗うためにゃろ。常識的に考えろにゃ」
辛辣に言い捨てた。間違いなく猫の論理は破綻しているが、これ以上ツッコんでもキリが無いと思った。
僕はシャワーの蛇口をひねり、ちょうどいい温度になったら猫の方を見た。
「おい、猫。洗ってやるから早くして」
「お?なんにゃ、ニコ。にゃあの体をまさぐりたいのにゃ?」
「シャワーが一つしかないから順番でやるしかないだろ」
なんて、譫言にツッコミを入れても意味が無いな。そう思った瞬間、理解した。どうして僕の発言が度々無視されるのかを。
あぁなるほど、こういう感覚なのかと新たな真実を得た僕は、少しだけ上機嫌になった。
「じゃあ、お願いするのにゃ」
そう言って、猫は素直に僕の前に置かれた風呂桶に腰かけた。僕はシャンプーを手に出して、猫の頭を洗い始めた。
「うお。上手いにゃあ、ニコ。少なくとも吹雪よりかは遥かに上手いにゃよ。あいつは力こめ過ぎてるからにゃ」
「お褒めにあずかり光栄だよ」
猫の長い髪は、洗うのにかなり手間取った。数年前までは奈央ちゃんと入ったりもしていたが、彼女は髪が短い方だ。長い髪の洗い方は心得ていなかったので手探りでやっていたのだけど、思ったより僕は髪を洗う才能があるらしい。
才能、そういえば。
「ところで猫、虹崎が今日、僕に能力が発現する事は無いって、そう言っていたわけなんだけど、それって本当なのかな?」
猫は少しだけ沈黙した。
「………にゃあに聞くべきでないことは確かにゃ。にゃあはそういう複雑なこの世界の仕組みについて、少しも把握しているわけではないからにゃ」
「猫は本当に知らないんだな」
僕は髪についた泡をシャワーで流した。
「ま、知らなくても良いにゃ。この世の事なんか、全て分かることもないんにゃから。そしてな、ニコ。結局お前の選択肢は二個しか残されてないのにゃよ」
「というと?」
僕はボディーソープをタオルに染み込ませ、猫の肢体を洗い始めた。タオル越しにも、彼女の体の柔らかさを感じる。
猫は言葉を続けた。
「吹雪を信じるか、虹崎を信じるか。どちらかが嘘をついていて、どちらかが真実を言っている。ま、にゃあはもちろん吹雪を信じているから、お前にもいずれ能力って言われる物が発現してもおかしくないとは思うけどにゃ」
僕は猫の背中を洗う手を止めた。
「…ん?どうしたにゃ?なんで手を止めたにゃ?」
「いや、もう僕が洗えるところは全部洗ったから」
僕はタオルを猫に差し出しながら言った。そんな僕を、猫は嘲笑った。
「なんにゃ?ほら、まだ前の方を洗ってないにゃよ?どうして前は洗わないのにゃ?もしかして、恥ずかしいのにゃ?」
にゃひひ、なんて笑う彼女を前に、僕は言葉を失った。
これは、仕返しだ。あのトイレで猫の事を辱めた僕への復讐だ。そう気付いた時にはもう手遅れだった。後に引けない僕は、猫の前面と向き合った。
「ほら、お前から言ったことにゃよ?」
猫はもう一度にゃひひと笑った。
「洗え」
「………」
僕はもう、命令に背くことは出来なかった。
泡立ったタオルを、まずは猫の細い首から肩にかけて動かす。そして肩から順に、上腕、肘、前腕、手、と遠位方向に洗っていく。反対側も同様に。
そうして今度は骨盤から、足部にかけてタオルを動かしていく。足の裏を、指の一本一本の間を、細かく、丁寧に洗っていく。
「おい。時間稼ぎはそこまでにするにゃよ」
気付かれた。猫を見上げると、にやにやと僕の事を見つめていた。
仕方なく、覚悟を決めて、僕はタオルを腹部から胸部にかけて動かし始めた。見ないように、目を閉じながら拭いていたが、それだとかえって手に伝わる感覚が敏感になった。目を開けば、眼前に広がるのは彼女の肢体。妹の裸体なんて見てもなんとも思わないのに。
思考をすることもままならない、自身の一挙手一投足が全て僕を追い詰めるこの状況、僕は完全に、猫に負けさせられたんだと実感した。
「………終わった」
シャワーで彼女の体についた泡を流しながら呟いた。この十分にも足りるか危うい時間で、ずいぶん憔悴してしまったと思う。
「………疲れた」
僕は溜息を吐いた。
そんな僕を見て、猫は上機嫌になっていた。
「おうおう、ご苦労だったにゃあ、ニコ。そんな疲れさせちまってにゃあも申し訳ないと思ってるにゃ」
本当に申し訳ないと思っているのなら、そんなにニヤニヤしていないだろうと僕は思うのだけど。
しかしこれは聞いてはいけない事だった。
「本当にそう思ってるのか?」
「当たり前だにゃ。今から証明してやろうかにゃ?」
そう呟いた猫は、僕の手から泡のついたタオルを奪い取った。
「今からお前の体を洗ってやるからにゃあ……」
猫は僕を風呂桶に座らせた。
「前、開けろ」
そう命令した猫に、僕はもう抵抗する力も残っていなかった。




