四話③ 第一次ファミリーレストランの乱
さて、ここまではいつも通りの日常の範疇に収まることだった。大した変化も起きず、変動も起きず、日常を日常に、日常のままで享受する。平凡でなくとも非凡であっても、非日常ではなかった。
僕はファミレスで彼女達と別れた後、たどたどしい足取りで帰路についていた。
いつも通りのコンクリートで彩られた灰色の道を、路肩に建つ家の壁を伝い歩きしていた。街灯が三つしかないような道なので、昔は街灯から街灯の間を息を止めて走っていたな、なんて思っていると、先の街灯の下に誰かが立っていた。
「よお」
なんて、彼は言った。まるで友人とでも会ったかのように。
もちろん僕に彼のような、髑髏の上に「Welcome Chaos」なんて書かれたTシャツと、上から真っ赤な革ジャンを羽織り、穴のあいたジーパンを履いているようなパンクな知り合いはいない。
僕はそんな不審者に眉をひそめながら、しかし一刻も早く帰りたかったので、立ち止まったりはしなかった。
「俺の名前は鬼木羅木有覇だ。お前は?」
「……眞弓ニコ…」
押し殺すように呟いた。
僕は彼の名前に聞き覚えは無かった。見知らぬ人に名前を明かすべきでないことは無論承知しているが、今は虚言を言ったり、抵抗する気力すらもない。それほどまでに、体調不良と言うのは盛大なデバフなのだ。
有覇は僕の名前を「ハッ、女みてーな名前だなァ」なんて、早速地雷原を踏み抜いた。
もちろんそれに何か苦言を呈する余裕なんかない。
僕は歩みを進めた。
「眞弓ィ、お前、さっき越智と一緒にいたよなァ…」
越智、彼が口にしたその名前を頭の中で検索すると、確か吹雪の苗字がそれだったという情報に辿り着いた。同時に、彼は結社に関係する人物なのだと把握した。
もしかしたら吹雪に恋する少年の可能性もあるが―――譫言が出てきたということは、段々と調子が回復してきているという事だ。
僕は溜息を吐いた。
「そうだけど、どうしたの?僕に何か用?残念ながら、僕は猫に吐かされて何もかも最悪の状態なわけだけど」
「いやいやいや、別に何かしようってわけじゃねェ。取って食うわけでも、お手手つないで介抱してやるつもりもねェ。ただただ、挨拶しておこうかと思ってな。結社の新メンバーに」
僕は口を吊り上げて笑う有覇のすぐ側まで行き、そのまま隣を通り抜けた。
「ふうん。なるほどなァ。お前、クソ甘ちゃん野郎だろ?」
「は?何を言ってるの?」
「匂うんだよ」
吐瀉物の匂いだろうか。
「手前ェから、甘々な環境で育った奴特有の匂いがするんだよ」
譫言のつもりだったけれど、本当に吐瀉物の匂いの可能性がある。ここまで歩いている最中も、甘ったるい臭いがずっとついてまわっていたからだ。いや、流石にそれは間違いなく譫言だ。
眞弓は立ち止った。有覇と背中合わせになるように。
「俺と手前ェは限りなく違う。育ちも思想も何もかもだ。だから会おうなんて思ってなかったが、まあこれも運命だな」
「さっきから何を言ってるの?譫言なら僕の得意分野だから取らないで欲しいんだけど」
その僕の台詞に、彼は「ハッ」と笑った。
「それこそ譫言じゃねぇか。よく言うぜ。ま、今後手前ェと出会わねぇことを祈ってるぜ。それじゃあな」
そう言い捨て、彼は歩き始めた。
僕は振り返って彼を見た。
その手元には、鈍く光を反射する、見るからに鋭利そうなナイフが握られていた。
「あぁ、あと―――」彼は数歩進んで振り返った「俺ァ再修正だから、そこんところよろしくな」
「………」
溜息。
外面だけ見れば特に何も感じていない様子だが、僕の頭は、確実に忍び寄っていた自らの命の危機に、全く気付いていなかったという事実に戦慄した。ここまで危機感に欠けることが出来た自分が、状況が、恐ろしくて仕方なかった。
僕はただ、溜息を吐いて、自分の精神を落ち着ける以外に出来る事は無かった。非日常と相対した日常の住民は、なんと無力なものかと痛感した。




