四話② 第一次ファミリーレストランの乱
「にゃあにゃあ、お願いだよう。お願いするよう。超懇願するよう」
「分かった。分かったから、今回は僕が持つ。だからちゃんとキャラを保ってくれ。語尾を忘れてるから」
まったくもう、と思いながら僕は自分の財布に手を入れた。その瞬間、頭の奥が冷えていくような感覚が、僕を襲った。
(そうだ、だから僕はドリンクバー以外注文しなかったんだ。)
財布に手を突っ込んで動かない僕の様子を見て、猫はすべてを察したようだった。
「え……まさか、お前…」
「………」
「こんっっっのあほちんが!お前はにゃんて使えない奴なんにゃ!かー!使えにゃい使えにゃい!」
耳障りな甲高い声を発する猫に、僕は不満をぶつけた。
「おいこのクソ猫、そもそもお前が財布を忘れてなかったら済んだ話じゃないのか!?」
そう言うと彼女は開き直り、
「にゃあが財布にゃんて持ってるとでも思ったにゃ?元からお前におごられに来てやったのにゃ!にゃのにお前ときたら…つっかえねぇにもほどがあるにゃ!」
こいつ、どさくさに紛れてとんでもない告白をしてくれたな。僕は溜息を吐いたが、心の中ではそんな余裕がない程に焦っていた。
(これって、払えなかったら逮捕されるのかな……)
無銭飲食など、これまでやったことのない僕なので、これからいったいどうなってしまうのか。僕は珍しく冷や汗をかいた。
「ま、お前が使えねーのはしゃーねぇにゃ」
と、悪びれもせずに猫。彼女は鞄からスマホを取り出した。猫がスマホを持っているのはおかしいことじゃないのか、なんて疑問は今の眞弓の頭には浮かんでこなかった。
「あ、もしもし吹雪?今にゃ、駅前のファミレスにいるんにゃけど―――」
ブツ。ツーツーツーという音が聞こえた。猫は一旦画面を確認し、再び電話を掛けた。
「もしもし、吹雪。まじでお願いにゃ。今回はちゃんと返すから―――」
ブツ。ツーツーツー
「………」
これまでの僕の猫に対する良いイメージは、途端に打ち崩れた。猫はというと、少しだけ時間を空けて、また吹雪に電話を掛けた。
「あ、吹雪。にゃんかここら辺通信悪いにゃ―――」
ブツ。ツーツーツー…
「吹雪、にゃあ、今お金にゃいのにゃ―――」
ブツ。ツーツーツー…
「救急です―――」
ブツ。ツーツーツー…
「あの、本当に申し訳ないんですが、またお金を融資してくれませんか?ちゃんと行動で返しますので。……はい。…はい。も、もちろんです。何でもします。…はい。……はい。ありがとうございます…」
最終的に彼女は、席にうずくまって膝を抱えながら電話していた。今度は最後まで電話できたようで、猫は一息ついてスマホを鞄にしまった。
「いやーにゃんとかなったにゃ!ちょろいもんにゃ、ちょろいもんにゃ」
あっけらかんに笑う彼女は、なかなか人生が楽しそうだと思ってしまった。
「吹雪が来てくれるってこと?」
「そうにゃ。にゃあに感謝するのにゃ、ニコ」
出来るわけ無い。
猫は最後に一回ドリンクバーに行き、僕の分まで混沌飲料を作って来た。
「ま、今日はにゃあのおごりにゃ。飲め」
「何が悲しくてこんなもの飲まなくちゃいけないんだ。っていうか、別に猫のおごりでもないだろ」
目の前に置かれた混沌飲料は、薄気味悪い茶色と緑が混ざった、まさしくクソみたいな姿をしていた。それを猫はイッキするのだから、同じ人間とは思えない。紛れもなく猫だけど。
僕は一旦、奈央ちゃんに「もし僕が死んだら部屋は奇麗なままにしといてね」と遺言を遺し、目をつぶってそれを掴んだ。
(人が飲んじゃいけない色だ…)
しかし、眞弓は覚悟を決めて、その飲料を一気に飲み始めた。
ジュースの甘味と緑茶の苦み、ウーロン茶の香ばしい味と香り、ジンジャーエールのほんのり酸味のような甘みが混ざり合い―――
―――僕は虹を見た。
しばらくして、吹雪がファミレスに駆け付けた。
「……ん?」
しかし、そこに眞弓と猫の姿はなかった。店内をきょろきょろする吹雪に、店員が声を掛けた。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「いや、ここに友人がいるはず。だけど…」
見当たらない。もしかしたら店を間違えたのかもしれないと思った吹雪だったが、その耳に、紛れもなく奴の声が聞こえた。
「にゃはははは!馬鹿みたいに吐きやがって!弱いにゃあ、あほちん!セクハラ!とんちんかん!」
トイレからしたその声を追ってみると、そこには便器に吐きまくっている眞弓と、その後ろで背中をバンバンと叩きながら彼の事をからかっている猫の姿があった。
吹雪は別に溜息を吐かなかった。
「なるほど。ずいぶんと楽しそうね、猫」
「ふにゃっ!?」
猫は振り返り、そこにいる人物を眼中に収めた。そして、急に態度をしおらしくして、僕の背中をさすり始めた。
「だ、大丈夫かにゃ?あんなに食べてたからにゃあ…まったくもうしょうがない奴にゃ……あ、吹雪か!今にゃ、ニコが食べ過ぎて吐いてたから看病してたにゃ!いやーこいつが馬鹿みたいに注文するから、にゃあの持ち金じゃ足りにゃくなっちまったのにゃよ」
「……てめ…絶対…ゆるさねぇ……オェ…」
アドリブで虚言を吐きやがる猫に、大した反論も出来ないままの僕は、便器の中のほとんど胃液しかないような吐瀉物とにらめっこしていた。
吹雪はそんな、僕が頭を突っ込んでいる便器の中を覗いた。
「…見た感じ、ほとんど固形物はないみたいだけど」
「あ、あぁ、それはにゃ、もうさっき流しちまったからにゃよ!ほら、吹雪はさっさとお会計してくるにゃ」
吹雪は僕の背中をさすっている猫に促され、そのままカウンターへと向かった。
「すみません。あそこで吐いてる人の友人です。先に会計だけお願いします」
「あ、はい。……えーっと、合計で二万千二十円ですね」
「………はい」
吹雪は高そうな財布の中から三万円を取り出した。店員はそれを受け取り、レジに打ち込む。
「おつりは八千九百八十円です。ご確認ください」
吹雪は確認などするわけも無く、無造作に釣銭を突っ込んだ。
「では」
そう言って彼女は店を出ようとしたが「あ、ちょっと」と店員に止められた。
「すみません。あの方々のお連れ様でよろしかったでしょうか?」
「はい。そうですが」
「だとしたら、あの、罰金が生じてしまうのですが…」
「………」
店員は申し訳なさそうに言った。申し訳ないのはこっちの方だ。
しかし吹雪は、溜息なんて吐かなかった。確かに呆れてはいたが。
「いくらですか?」
「…一万円なんですが…もしなかったら、親御さんに連絡をしていただいて…」
「はい」
吹雪はポンと、札を出した。
「これで大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫です!いやほんと、申し訳ございません…」
だから、申し訳ございないのはこっちの方だ。
店員がこれほどペコペコしているのは、単に吹雪の無表情が不機嫌に見えるからだ。もちろん吹雪は猫と眞弓に対して怒りはあれど、店員には申し訳ないという気持ちしかなかった。
吹雪は一礼し、眞弓たちのいるトイレに向かった。
僕の生んだ虹はもうすっかりおさまり、少しだけ胸に気分の悪さが残っていた。
「うえ…もう二度と猫とファミレス行かねぇ…」
「にゃー?釣れねぇこというにゃよぉ、ニコぉ」
「ずいぶんと楽しそう。私も混ぜてほしいくらい」
べたつく猫を振り払って振り向くと、いつも通りの無表情で、いつも通りの制服姿の吹雪が居た。しかし僕はその顔に、静かな怒りが宿っていることを察知した。いつもと空気がなんか違う。
「お、会計終わったにゃ?助かるにゃあ。ほらニコ、お前が迷惑かけたんにゃから、お前もちゃあんと礼言うにゃ」
笑顔で猫を被る彼女にもちろん腹が立ったが、反論できるほど僕は今元気ではなかった。
「…ありがとう…ございます……」
青白い顔で頭を下げる僕に、吹雪は「………?」と首を傾げた
「どうしてあなたが感謝する必要があるの?私は猫の食事代と迷惑料を払っただけ。あなたが謝ったり感謝したりする必要は無い」
「にゃあ!?なんでにゃ!?いっぱい食ってたのはニコにゃよ!にゃあはドリンクバーで遊んでただけにゃ!」
吹雪は淡々と続けた。
「さっき、店員さんに確認を取った」
その言葉に、猫は僕よりも青ざめ、足取りがおぼつかなくなった。
「にゃ、どうしてにゃあ……どうしてこうも、にゃあの策略は上手くいかんのにゃ!?」
「嘘。確認なんて取ってない。引っかかったな?クソ猫」
「にゃ」
吹雪は一瞬にして猫の首根っこを掴み、持ち上げた。猫は、まるで本物の猫のようにしんと大人しくなり、吹雪の小脇に抱えられた。
「一人で帰れる?」
彼女の口調はいつも通りの無感情っぷりだったが、先程よりかは優しくなっている感じがした。
「なんとか、頑張ります」
「そう」
彼女はそれだけ言うと、店から出て行った。
僕も急いでトイレを流し、そそくさとそのファミレスを後にした。もう二度とここには来れないだろう。しみじみ思う。




