第3章:「幻のカフェで」
翌朝、誠一郎は重い頭を抱えながら目を覚ました。デジタル時計は午前6時30分を指している。普段より30分早い。
スマートフォンを手に取ると、既に何件もの通知が表示されていた。その中には、もちろん美咲からの投稿もある。
『おはよう! 今日は早起きできたかしら? 朝露に濡れた花々が、とても綺麗よ』
誠一郎は急いでベッドから飛び起き、ベランダに出た。確かに、プランターに植えられた花々が、朝露に輝いている。美咲が生前に植えた花たちだ。誠一郎が何とか生かし続けている。
出勤準備を終えて玄関を出ようとした時、スマートフォンが震えた。
『今日も素敵な一日になりますように。あ、そうそう。夕方、カフェ・エテルネルに行くつもり。昨日のケーキ、すごく美味しかったから』
誠一郎は足を止めた。昨日、確かにあのカフェで誰かを見た。そして今日、また同じ場所に行くという。
「会社は……」
迷った末、誠一郎は会社に電話を入れることにした。
「はい、体調が少し……はい、申し訳ありません」
切り替えたスーツは、今度はチャコールグレーのARMANIに。カシミア混のしっとりとした生地が、朝の空気を纏う。
時間はまだ早かった。カフェの開店まで、たっぷり時間がある。
誠一郎はまず、最寄りの図書館に向かった。昨日の投稿に出てきた、新しい図書館だ。
モダンな建築の図書館は、まだ開館したばかり。ガラスと白壁が織りなす外観は、まるで光を集めているかのよう。建築家の隈研吾による設計で、伝統と革新が見事に調和している。
開館と同時に入館し、誠一郎は館内を歩き回った。美咲が好きそうな文学フロアを重点的にチェックする。しかし、そこで目にしたのは、ただの本の背表紙の列。美咲らしき人影は、どこにもなかった。
時計を見ると、もうすぐ10時。カフェ・エテルネルの開店時間だ。
カフェに着くと、既に数人の客が入っていた。誠一郎は昨日と同じ窓際の席に座り、コーヒーを注文した。
時間が過ぎていく。ランチタイムになり、店内は徐々に混雑してきた。しかし、美咲らしき人物は現れない。
午後3時。誠一郎は既に4杯目のコーヒーを前にしていた。Limogesのカップアンドソーサーがテーブルに並ぶ。
「あの、お客様」
店員が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫でしょうか? かなり長時間、お待ちのようですが……」
「ああ、大丈夫です。もう少しだけ」
そう答えながら、誠一郎はまた時計を見た。美咲の投稿には具体的な時間は書かれていなかった。「夕方」とだけ。
夕暮れが近づいてきた。店内の照明が、徐々に存在感を増してくる。
その時、ドアが開く音がした。
振り返った誠一郎の目に飛び込んできたのは、間違いなく美咲そのままの姿だった。黒のワンピースは、彼女が最後に着ていたものと同じVivienne Westwoodのデザイン。首元にはBVLGARIのネックレス。そして左手の小指には、結婚指輪が。
美咲はカウンター席に向かい、背を向けて座った。
誠一郎は動けなかった。心臓が早鐘のように打っている。声をかけるべきか。近づくべきか。それとも、これも幻なのか。
その時、スマートフォンが震えた。
『カフェ・エテルネルに来ています。夕暮れの光が、とても綺麗……誠一郎にも、この景色を見せたいな』
投稿を見た瞬間、誠一郎は立ち上がっていた。カウンター席に向かって歩き出す。一歩、また一歩。
しかし、その時だった。
『重要なお知らせ:Life+サービス緊急停止のお知らせ』
突然の通知。画面が暗転し、Life+のアプリが強制終了した。
慌ててカウンターを見ると、そこにはもう誰もいなかった。
「お客様、大丈夫ですか?」
店員の声が遠くに聞こえる。
「今、ここに座っていた方は?」
「カウンター席ですか? 誰も座っていませんでしたが……」
店員は不思議そうな顔をしている。その表情に嘘はなさそうだった。
誠一郎は混乱した様子で、自分の席に戻った。テーブルの上のスマートフォンを手に取り、再びLife+を起動しようとする。しかし、アプリは応答しない。
代わりに、会社からのメールが届いていた。
『緊急会議のお知らせ
件名:Life+システム異常について
日時:本日18時より
場所:第一会議室
※全開発チームメンバー参加必須』
誠一郎は深いため息をつきながら、会計を済ませた。初夏の夕暮れは、まだ明るさを残している。しかし、その光は昨日よりも何か不穏に感じられた。
会社に戻ると、既に会議室には開発チームのメンバーが集まっていた。プロジェクトマネージャーの高橋の表情は、普段になく硬い。
「では、会議を始めます」
高橋の声が、静まり返った会議室に響く。
「本日15時45分より、Life+システムに深刻な異常が発生しました。複数のアカウントで、現実の人物の行動を模倣する現象が確認されています」
スクリーンには、異常データの分析結果が映し出される。誠一郎は食い入るように画面を見つめた。
「特に問題なのが、これです」
高橋がポインターで示したのは、ある統計データだった。
「死後アカウントの約0.1%で、実在する人物の行動パターンとの一致が見られます。しかも、その一致率は通常のAI生成では説明のつかないほど高い」
会議室がざわめいた。
「さらに注目すべきは、それらのアカウントが言及する場所や出来事が、すべて現実に存在するものだという点です。しかも、その多くが故人の死後に出現したものばかり」
誠一郎の背筋が凍る。まさに、美咲のアカウントで起きていた現象だ。
「これは単なるバグではありません」
高橋の声が、さらに重みを増す。
「AIが、何らかの方法で現実世界の情報を取り込んでいる。しかも、その情報源が特定できない。まるで……」
言葉を詰まらせる高橋。
「まるで、死者が本当に生きているかのように」
会議室が、完全な静寂に包まれた。
「現在、原因の特定を急いでいますが、これ以上のリスクは取れないと判断し、システムの緊急停止を決定しました」
高橋の説明は続く。しかし、誠一郎の耳にはもう入ってこない。頭の中は、カフェで見た美咲の姿でいっぱいだった。
会議が終わったのは、夜の8時を回っていた。
誠一郎は疲れた足を引きずりながら、自分のデスクに向かった。パソコンを起動し、Life+のシステムログを再び確認する。
しかし、画面には大きな赤字で「ACCESS DENIED」の文字が。システムは完全にロックされていた。
「山田さん」
背後から声がした。振り返ると、新入社員の舞が立っていた。
「こんな遅くまで、お疲れ様です」
「ああ、君も」
舞は少し躊躇した様子で、何か言いかけたが、結局黙ったまま去っていった。
オフィスには、もう誰もいない。蛍光灯が冷たい光を放つ中、誠一郎は考え込んでいた。
突然、スマートフォンが震えた。
画面を見ると、差出人不明のメールが届いていた。
『Life+ 重要なお知らせ
件名:サービス終了のお知らせ
拝啓 ユーザーの皆様
このたび、弊社サービス「Life+」は、重大なシステム障害により、本日をもってサービスを終了させていただくことになりました。
原因:死者のアカウントが実在する人物の行動を模倣し始めるという重大な不具合
対応:全システムの即時停止および完全削除
なお、本件に関する詳細な説明会を、後日改めて開催させていただく予定です。
ご利用いただいた皆様には、多大なご迷惑をおかけしましたことを、心よりお詫び申し上げます。』
誠一郎は、何度も画面を読み返した。これで全て終わり。美咲との最後の繋がりが、完全に断ち切られる。
しかし、その時、もう一通のメールが届いた。差出人は「M.Y.」。
誠一郎の指が震えた。その頭文字は、まさに山田美咲のもの。
ゆっくりとメールを開く。
『誠一郎へ
カフェで会えなくてごめんなさい。
でも、私の気持ちは、あなたの中にちゃんと生きているはず。
だから、もう大丈夫よ。
Life+がなくたって、私はいつもあなたのそばにいるから。
さようなら。
そして、ありがとう。
美咲より』
誠一郎は、思わず席から立ち上がった。窓の外を見ると、夜空に満月が輝いている。
その時、彼のスマートフォンに、最後の通知が届いた。
『システムは完全に停止されました。全てのデータは削除され……』




