第50話 余暇:決意
安らかな時間というものは疾風の如く素早く、そして細やかに過ぎてしまう。予期していた時間を大幅に切ったのは一重に彼女らの強靭な肉体故だ。しかし時間が余ってしまったのは事実。結果、彼女らは時間を持て余したままエノクの案内したレストランの一室に腰を下ろしていた。
四方を壁で仕切られた大部屋の中、巨大な円卓の前に腰掛けるのはたった2人。彼女は一通り食事を終えたタイミングで食器を置くと、目の前でいまだに艶やかなレバーにナイフを当てる彼に声をかけた。
「それにしてもエノク、お前よく突然こんな場所をとれたな?」
「ユウリ、君は私を誰だと? 世にも知れた魔術師の主にして、いまや魔導国国議会長の懐刀だよ。できないことなどそうそうありはしないさ」
「それを聞かされた店主はさぞ驚いたろうな。そして恐怖しただろう?」
「そうでもないさ、ユウリ。彼らは君の思うよりも肝が据わっているよ。所謂表にでない情報と言うべきかな。彼らは彼らなりに私という大局の針をちゃんと把握しているのさ」
彼はワインの注がれたグラスを揺らしながら、純白の平皿の縁をスウっと撫でる。いつのまにか食事を終えたようだ。彼の手元にはナイフの代わりに、使い終えたオープナーが置かれている。彼女はなにを言うこともなく、自分のグラスにもワインを注ぐ。そして乾杯をしながら一口。そこまできてやっと次の言葉を投げた。
「分からないのは一般市民だけか。裏に伝手があれば伝わる。お前の名前も、一応知ってはいたからな」
「出会えば逃げろとでも言われなかったかい? 私は最低でも命を狙った輩は生きて返したつもりはないのだが…?」
「そもそもお前を危険視している奴なんていなかった。というか、死んだと思われてたんだからな」
「なるほど。私はそういう扱いに落ち着いたのだね。もしそのまま私が静かにしていれば、こんな事態は起こらなかったと思うかい?」
「お前が渡世に舞い戻って行ったのは魔導国での調査協力のみだ。確かにそれで諸々の事象に前後はあるかもしれないけど、起こるべくして起こったことだな」
もしエノクが彼女と出会わずにどこかで静かに長閑なで生活を送っていたとしよう。ならばなにか世の中の動向が変わったのか。それはあり得ないだろう。彼女の見る限り、外界への調査は時間の問題だった。そしてそこから人型の発見、及びそれの活用は必然の流れに思える。つまり彼の行動はなにひとつ動向に影響を当てるモノではなかった。
「なかなか手痛い指摘だね。魔術師の長であり、現世を睥睨する錻人形である私も命じられたことさえ遂行できていない。この世とはそう簡単には動きはしないね」
「だからこそお前とその力、なんだろ?」
「その通り。これはその為にある。私は決して優越だけを飲み干せるわけではないのさ」
彼は空になったグラスを置くと、軽やかな動作で席を立った。だが突然後ろを振り向くと、バツが悪そうに顔を伏せる。何事か、彼女が訝しんでいると、彼は顔をあげて彼女に右手を差し出した。
「すまない。分かっていることだったね」
「エノク…。勿論だ。だがお前がそう言ってくれなきゃ俺はどうしても直視できない。覚悟はあるが勇気はないんだ。だから一緒に見せてくれ」
自分が単に死ぬための機関であることを彼は理解している。そしてそれに対して既に覚悟や諦観とは異なる整理をつけている。しかしそれは彼が“強い人間”だからではない。常人が理解しかねるほどの苦悩と時間の中でそれは自然と形成されるのだ。
彼女は今、人の身でありながらそんな彼の隣にいようとしている。常識外れの愚かしい行動だ。だが彼女には覚悟があった。しかしそれでは足りない。彼女は差し出された手をギュっと握る。すると彼はもうなにを言うこともなく、手を握り返して足を進めた。
「ユウリ、この後はどうする?」
「少しばかり時間が余った。フラリと歩いて時間でも潰さないか?」
「そうだね、では一度広場に戻るとしよう。あそこであれば、なにかしら思いつきもするだろう」
廊下を渡り会計を済ませた彼女らは、隠れ家じみた店を後にする。そしてそのまま言葉通りに元来た道を遡りながら広場へと向かうと、そこには朝より一層の賑わいが広がっていた。
愚昧な民衆。事の全容を見ようとしない民衆。見たいことだけを見て、聞きたいことだけを聞く我儘な民衆。その時、突然彼は彼女の手をギュっと握った。
「エノク…?」
「責めてはならないよ。元よりそう仕組まれているのだから。彼らからすれば無条件に裁く権利を与えられた私の存在こそ不条理さ」
「っ!」
「誰にも責める資格はない。ほら、どうやら祭りの準備らしい。少し付き合おうじゃないか」
彼はそういうと、彼女の手を引いて、責任者らしき者の元へと歩いていく。その間、彼女はどうしてもまわりに目をむけることはできなかった。彼女は彼のように魔術師ではない。故に人間と己らを隔てて考えることは出来ない。まわりの人間が全て能天気なように見えて仕方がなかったのだ。
暫くして彼が沢山の荷物が積まれた荷台を押して戻ってくる。すると、彼は小さな紙切れを取り出し、木箱の中身の確認を始めた。
「なあエノク、お前は、羨ましいとか感じないのか?」
「ん?」
「俺は好きでお前の隣にいる。だからお前の運命を背負うことは、俺の当然の務めだ。だがお前は違うんだろ? 自分から望んだわけでもないのに、その力が恨めしくなったりしないのか?」
「ふむ、それについてはいまだ判断は出しかねるよ。私も君と同様、なにかのためと思えばいくらでも耐えることが出来る。だが何故妹にまでこの十字架を背負わせているのか。甚だ疑問だ。そして耐えかねる」
「…………」
「しかしそれとは別に、私は慈しむことを覚えたのだよ。私の恨みを誰かが受けるのではなく、代わりにこの感情を慈悲や愛と呼ぶべき感情に変換しよう。飢えて怨念を湛えるのは虚しい。私が悠久の時間のふちに導いた答えさ」
彼はそういうと、何の言葉も言えなくなった彼女の頬をなでた。黒い瞳が持ち上がり、彼の顔をまっすぐに直視する。“君にはまだ早いよ”その声とその瞳に彼女は思った。その答えこそが自分が彼に惹かれた理由なのだと。彼の両瞳には、まるで父親のような、兄のような、夫のような、またそれ全てとは異なる親愛が満ちていた。
ー ー ー ー ー ー ー ー ー ー
その晩、ひとり先に温泉からあがった彼女は手にしたお守りに視線を落とした。これは昼間、祭りの準備を手伝ったお礼にと責任者の青年が渡してくれたものだ。青と赤の二本の組紐が絡み合いながら一つの輪を作り、その先には牙を模したであろう骨の彫刻が飾り付けてある。
昼間を過ぎて夕方頃、彼女らは思わぬ加勢に大袈裟なほど喜び礼をいう人々に見送られながら広場を去った。宿に戻り、予定通りの時間に夕食を済ませる。そしてあとは昨日と同じ。だが彼女は考えたいことがあったため、彼より先に部屋に戻ったのだった。
「…………」
今回の旅路はまるで彼が終局へと歩くための鎮魂の道のりだ。彼女と言う見届人に彼は自分の全てを見せようとしているように感じる。最期。意識しなくても、それは常に脳裏にある。
彼女はお守りの縁をなぞりながら、夜風の吹き込む窓際に移動した。既に湯で火照っていた体はシンと冷たい風に早々と征服されている。背後で足音が聞こえた。どうやら彼が戻ってきたようだ。
彼女は窓を閉める。そして手にしたお守りを机の上に置く。フワリと蒼い花弁が宙を舞いながら部屋の中を闇に閉ざす。すると入ってきた彼の腕をとって、彼女はぼふんっと布団の上に倒れ込んだ。
「俺のことも知ってほしい」
「ユウリ…、君は」
「俺はユウリ・スノーハント。世界と等価の力を、そして同値の絶望を持つお前を伴侶として慕う者だ」
彼女は胸の奥底にある決意を噛み締めながら、不思議と落ち着いて自分を見返す彼の上に跨がった。照明の消された暗闇の中ではお互いの顔は驚くほどに視認できない。だが両目に宿る光から不思議と互いの表情は見透かすことができた。
彼は暫く真っ直ぐに彼女を見返していた。彼も予想していた筈だ。彼女の不自然な挙動がこの状況に繋がること、そしてその裏には何か重大な決定を抱えていることを。彼女は自分の心臓が思いのほか落ち着いていることに気付いた。トクントクンと静かな鼓動が聞こえる。するとそこにきて彼は初めて口を開いた。
「君はそれでいいのかい?」
「なに?」
「愚問を愚かにも問いかけよう。しかし我が愛故こそ、これは幾たびも重ねなければならない。ユウリ、私は魔術師エノクとして君に問う。本当にいいのかい?」
“今更…”、舌の上にまで登ってきた言葉を彼女は寸前で呑み込んだ。そうではない。それは単なる思い込みによる逃避であり断定だ。それは彼の愚問を愚かだと切り捨てることに等しい。
だが答えは同じだった。“今更、俺はお前の元を去れるか”“今更俺がお前とは違う誰かを想えるか”。彼女はなにを言うこともなく、倒れ込むように彼の体に覆いかぶさった。すると彼は隣同士目が合うように体を傾けた。
「もう戻れなくなるよ、ユウリ」
「覚悟の上だ。そもそも、でなきゃこんな旅についてはこないぞ」
まっすぐに目を見返しながら、彼女は断言した。全て分かっていたことだ。その上でここに来て、彼とごくごく自然な生活を送り、平穏を楽しんで一時の甘い感覚に酔いしれていた。ならばもう十分だ。既に満ち足りるほどの満足を得ている。
ユウリは彼の手が自分の着物の帯を解く気配を感じた。するりと肌からほんの薄い布地が滑り落ちていく。暗いこの部屋では互いの姿をはっきりと見ることは出来ない。すると彼の細くしなやかな手が彼女のか細い首に回され、彼はそのまま彼女を自分の傍へと引き寄せた。
「君に最期に問う。私と同格に堕ちる覚悟はあるかい?」
一瞬、彼の言葉の意味が理解できなかった。本能的に背中を絶対的な悪寒が駆け巡る。触れてはいけない禁忌の扉。そして皮肉にもその予感が彼女に事の正体を告げる。つまり彼は“同じになる”覚悟があるかと聞いているのだ。魔術師などではなく、またいつか言ったように不死の存在でもない。ひとつ、彼らと同じ万民の敵となることができるかと。
自然と震えだす体が情けない。意思はあるのに、この操りがたい体が獣のように身を縮まらせる。するとその時、もう片方の手が彼女のサラリと伸びる黒髪の上から彼女の頭をなで、彼は昼間あの時と同じ声で静かに彼女に語り掛けた。
「正直に答えたまえ。私の想いはたかがその程度で揺らぐものではない。故に恐怖など感じる必要はないよ。ただ君に答えて欲しい。私と君が一線を越す為に違えてはならない意思を、示してくれるかい?」
彼はこんな時でもあくまで冷静だ。そして深く愛情を持ってくれている。自然と溢れ出す涙がなにに由来するのかはわからない。泣いたことがないためだ。傷だらけで血濡れで生涯誰かと交わるなんて考えもしなかった自分が今、より大きな傷とより膨大な血と怨嗟を浴びた者に抱かれている。そしてその者は何よりも自分が愛し、自分を愛してくれている。
彼女は必死に答えようとした。しかし意思とは反して溢れ出す嗚咽が彼女の言葉を阻んでしまう。彼の胸に縋り付き、言葉がでない事の混乱を押し殺しながらなんとか答えようと口を開く。彼女はなにかを伝えようと顔をあげる。するとその時、そんな彼女の口唇を彼が有無を言わせずに塞いでしまった。
「ぅんっ…!」
咄嗟に飛び出しかける言葉が半ば強制的に鎮められる。普段とは異なる仄かに触れるだけのキス。だがその効力は事実を越えて絶大だった。
暫くして彼は静かに顔を離す。その表情は先程となんら変わらない包容力に満ちたものだ。だがこの短い間に夫のような彼は彼女に確かな安心を与えた。そしてそこでふと、彼女は既にもう自分が震えていないことに気付いた。強大な恐怖は同じく強大な存在に否定された。
「エ、ノク。俺は不甲斐ない…。お前の隣に立ってられる度胸なんてない。だがそれでも、もしいいのなら、俺にお前の荷物を分けてくれ。あとはお前だ。俺はもう、受け入れる準備は出来ている」
「ユウリ…。これは重く辛い、そして孤独なものだよ。もし一度受け取れば、君の味方は私とアリアのたった2人だけになってしまう。孤独に、耐えられるかい?」
「愚問だ。俺にはお前達だけで、十分だからな」
彼女は涙に濡れて微笑みながら、彼の頬に手を当てた。彼が昼間、彼女にしたように彼の疑念を安心へと変える為に。彼は小さく頷いた。もう後戻りはできない、今日この瞬間こそ彼女の生涯を区切る分岐点だ。
彼が彼女の左胸の上に手を添えた。高鳴った鼓動が聞こえる中、熱い魔力が彼の手を通して2人の全身を循環しだすのを感じる。彼女の瞳には魔力がうつる。光り輝く躰と全身の中枢、心の臓で一際輝く強い光。気付くとそれは彼女の左胸にも現れた。暴れ馬のように荒れ狂う魔力の濁流、胸を引き裂かんばかりの鼓動と熱の放流。その中で2人は互いにただその姿のまま、無心に循環する魔力に意識を集中させ続けた。その間彼女を繋ぎとめたのは彼が彼女の首に回した腕、そして彼を繋ぎとめたのはそんな彼女が彼の背に回した腕だった。