第18話 体験
その晩、
彼がアリアに今晩のことを伝えると彼女は苦々しく笑いながら頷いた。そしてそれ以上はなにも言わずにいつも通り家事をこなしてくれた。
そして時間は夜に。日が沈み彼が玄関を出ると、彼女は複雑そうに、だが嬉しそうに笑うのだった。そして今、場所は例の教会。ユウリがそこに着くと、既に教会の扉は開いていた。
「こんばんは、といったところか?」
「思っていたよりも早い到着だね。しかし準備は出来ているよ。ほら、おいで」
教会の重い扉を押し開くと彼は最前列の席に腰掛けながら彫像背後の豪奢なステンドグラスを眺めていた。彼女は彼の言葉に従っておずおずとシンと静まり返った教会の中を彼の隣にまで歩いていく。すると彼女の影を見た彼はステンドグラスから目を離すと席を退いて彼女を隣へ招いた。
「なんだ? 妙に優しくないか?」
「そうかな? ただまあ、そうだね。折角初めて体験するんだ、落ち着いた穏やかな心持の方がいいだろう」
「なるほどな。なら、今宵だけは存分に甘えさせていただこう。ああ、お前といると落ち着くな」
「私が妙に優しいと称するが、君も妙に素直ではないかい? ただまあ、不安があるのは察するよ」
彼はそういうと、懐から白い小さなキューブ状の物体を取り出した。接合部分のないことから魔術で作り出したものであることがわかる。彼女は差し出されるままにそれを受け取る。すると突然、体の底が酒に酔った時のように熱くなると、意識が混乱するのとは反対に視界が明瞭に、そして思考が霧を除いたようにクリアになった。しかしそれは彼女にとって強い衝撃であることにはかわりはなく、思わず手に持ったキューブを取り落としてしまった。
「な、なんだこれは?」
「ふふ、ほら、驚いてないでしっかり味わうといい。大丈夫。私がここにいるから安心していいよ」
「っ!」
彼はそういうと床に落ちたキューブを持ち上げ、飛びのいた彼女に再びそれを差し出した。ここまでくればもう後ろはない。彼女は意を決して彼の手から白いキューブを受け取った。
瞬間、落雷にでも打ち据えられたような激烈な感覚が駆け抜ける。しかしそれとは別に無機質的な表面に触れらたままの手からは人肌のような大人しい温もりも感じることができる。気付くといつの間にか彼女は縋るように彼の手を握り、おそらくは暫くの時間が過ぎていた。
「っ! す、すまん!」
「温かいだろう? 心が落ち着く様な、頼れる杖になるような」
「っ!」
「少し遊ぼうか。ユウリ、おいで。魔術師を体験しよう」
「お、おい待てよエノクっ!」
フワリと身体を宙に浮かべ泳ぐように天窓から外に出るエノク。魔術故の常識離れした行動は恐らく彼女を誘っているのだろう。しかしおいそれとそれに乗ることはできない。彼女は慌てて教会を出る。するとそこには黒い翼の鴉が集まり、瞬く間に彼女へ群がるとその身を屋根上に立つ彼の元まで運んで行った。
「ここから町を見てごらん。明るく正確に見通せる筈さ」
「どういうことなんだ? 魔術師は魔術を使えるだけじゃないのか?」
「正確には素地と知識を与えられた者を指す。残念ながら知識だけで魔術は扱えないよ。必要なのは潤沢な魔力。そしてそれを制御できるだけの「魔術師の脳」さ」
「つまり俺は今、その魔術師の頭を持ってるってことなのか?」
「そういうことだね。ただそれを有しているのは君の持つキューブ。君の脳はそのキューブと同調して魔術師の力を体験しているといえる」
しかし実際に彼女の肉体に変化がないわけではない。いくら修練を重ねた武人も、魔力という面に関しては素人とそう大差はない。その一方魔術師となれば人が武術を極めるのと等しく魔術、しいては魔力の修練を積んでいる。素人が達人の力を体験するのに、そのままの肉体では物理的なダメージに体がもたないのだ。
「さて、ここで君には魔術を使ってみてほしいのだが何か脳裏に浮かぶものはあるかい?」
「そ、そう急に言われてもな…。うーん、そうだな。ほんとに小さなものでいいのか?」
「魔術は願いを叶える術だよ。それが些細なものであれ、能力はその微かな願いを叶えようとする。なあに、心配はいらないさ。これは人を呪う力ではない」
魔術を使う。それは具体的に言うと第三の手足を知識に基づいて動かすようなものだ。そして知識は溜まり水のように深く分厚くそこにある。彼女はなんとなく腕を前に突き出した。そうすると魔力が動く様に感じたから。そして指先でユラユラとわけも分からぬままに宙になにかを描く。すると全身をフワリとした風になでられたかと感じるやいなや、なにかから解かれるような感覚と共に、体は重力の制約から脱した。
「なるほど。君ならばもう少し物騒な魔術を選ぶと思ったが」
「し、仕方ないだろっ! お前が飛んでくのが見えたんだから」
「ふむ、直前の記憶から想起したんだね。であれば私も付き合おう。ついでに君を連れていきたい場所がある」
そういうと彼の体がフワリと屋根から離れ、いまだ不安定なまま浮遊を続ける彼女の手をとった。すると一瞬、なにかが腕を伝わってきたかと思うと彼女の魔術は安定。足を前にだすように魔力を操ると、体は前に移動した。
「さあ、行くとしよう。闇夜の散歩は慣れない間は、神秘的だよ」
その言葉通り、見えない階段を蹴るようにして駆けあがった彼女の目の前にはシンと立ち込めた闇の中で小さくなった町が仄かな光を放つ姿が見えた。少し顔を上げれば空には圧倒されるような満天の月が浮かび、白んだ空に浮かぶ褪せた薄水色の雲は手を伸ばせば届く様な位置にある。そこで彼女はふと気付いた。繋いでいた右手が離れているのだ。
「お、おい…、手が…」
「不安かい?」
「そ、そういうわけじゃ…」
「空は気持ちがいいよ。重力のない我々には臓腑の重みがない。フワリと身体を揺らせば風がなで、サラリと駆ければ己が風と化す」
ぎこちなくユラユラと宙を揺れる彼女に対し、彼はまるで泳ぐように宙を漂っている。ここにあるのは単純な経験の差と言えるだろう。しかしだからこそ埋めることは敵わない。すると突然、突風が空を薙いだ。そしてそれに伴って吹き飛ばされた彼女だが、既に当然の如く彼はそれを受け止めた。
「あ、ありがとう…」
「気をつけなさい、ユウリ。これは魔導具による浮遊ではない。重力の制約は自身で応用できるよ」
「そ、そうか。ふむ、なるほど。言われてみれば、確かに」
「さて、君も慣れてきたことだし少し浮遊以外の魔術も体験してもらおう。ほら、転移の魔術さ」
そういって彼が腕を持ち上げると、いつもの蒼い花弁が集まって小さな円状の板を形成する。そしてそれは溶け合い広がり、そして彼の身長以上もある大きな鏡と化した。背後の月が映り、彼がそこに触れるとまるで水面に指をつけたような波紋が広がった。
「少し退屈な時間になるが付き合ってほしい。魔術を私が与えたとなると、少し面倒なことになる可能性があるからね」
彼はそういって苦笑いを浮かべると、自身の半身を鏡の中へ。そして彼女についてくるように言った。だが当の彼女にとっては不安しかないのもまた事実。彼の言葉をどうにか信じて呑み込み、意を決して鏡に触れるとヒンヤリとした水のような感覚が指先を襲う。正直不安だ、しかし今更止めることも不可能。半ばやけくそに体を押し込むと、その先には紅い塗装に塗られた部屋があり、目の前にはソファー、部屋中央へと続く眼前には白い薄手のカーテンがかかっていた。
「へえ~、その子がエノクのお気に入り?」
「その通りと言っておこう。しかし自己紹介はすまい。そのためのこの場所だからね」
「ふふ、それもそうね。私とあなたはともかく、まだその子には見せるべきではないわ。お互いに。ただそうね、私はあなたの子を傷付けはしないわよ」
「それも分かっているさ。ただ魔術師は君だけじゃない。それに、アレを奪われては本当の意味で魔術師が終わる」
「ふふ、今代の主としては的確な判断ね。はじめましてそこの人、私は魔術師のリリス・ミリア。以後、よろしくね」
カーテン越しにそう話し掛けてくるリリスに悪意は感じられない。しかしそれこそが妙なのだ。純粋なまでの悪意のなさは彼に似た絶対的なものでありながら、どこか裏付けのあるような人間臭さがある。彼女は無言で彼を見上げた。すると帰ってきたのはこれまた無言で首を振る仕草。彼女は返事をしない代わりに深く頭を下げると、彼の腕をとりながらその背後に身を隠した。
「ふふ、よく懐いていて羨ましいわ。人間に好かれるなんて、あなたらしくないじゃない」
「我ながら私もそう思うよ。その点、この子もまた私に等しく異端なのだよ。恒例の人に漏れた性質だからこそ私を理解できる」
「なら、あなた達は似た者同士ね。人間の異端と魔術師の異端。ただ、そうね。やはり人間と魔術師よ、あなた達は」
まるで探るようにカーテン越しの黒いシルエットが前かがみになって彼女らを凝視する。その瞳は僅かに紅く光り、それが魔術の光であることは彼と短いながらもそれなりに付き合いをしている彼女ならば容易に察することが出来た。彼女は思わず腕を抱き締める手に力が入るのを自覚した。魔術とは恐ろしいもの。それは彼の強力な魔術に理解はしていた筈だ。しかし彼の魔術とリリスの魔術にはなにか大きな違いがある。すると突然、大きな手が彼女の頭を優しくなでた。
「あら、怖がらせたかしら? あなたといるのなら魔術には慣れているのかと思ったのだけれど…」
「君の魔術は私に比べ覇気が強い…。魔術師でさえ、君の魔術には恐れ戦くのを忘れてはならないよ?」
「私達古参の魔術師からすればあなたの魔術の方がよっぽど恐ろしいのだけれど…。しかしそうね。あなた、ごめんなさい。怖がらせるつもりはないの。私とて、彼ほど人間が嫌いなわけではないわ」
彼ほど人間が嫌いなわけではない、その言葉はリリスが彼の持つ激烈な心境を理解していることを意味している。彼は先日、彼女の言った「人間が嫌いなのか」という問いにおいて、「憎しみを持つが人間全体が憎悪の対象ではない」と言った。しかしそれは裏を返せば人間の一部にはいまだ怒気を拭えない程の憎悪を抱えていることを意味している。だが彼はそれを滅多に表には見せない。つまり目の前の顔も見えない魔術師リリス、彼女の存在はユウリの思う以上に彼と密接だと思われた。
「さて、それでは話を始めよう。今日の参加者は私達だけだがね」
「ん、彼女に聞かせてもいいのかしら?」
「その程度の感情でこの場に連れてはこないよ。本題に移ろう。元来、これは人間と魔術師両者共有の問題さ。必ず訪れる終わりを次回にどう受け継ぐか。そもそもそれをいつもたらすのか」
突然の終焉を匂わせる神話のような言葉に彼女はピクリと眉を動かした。普通ならば笑い飛ばすような話、しかしそれを話すのがこの2人ならばそれは一気に深刻さを帯びる。彼女は不安そうに顔を上げた。だがそこにあるのはいつも通り、柔和な笑みを浮かべたままのエノク。それに疑う余地はなかった。
「唐突に話すわね…。それをこの時期に持ち出すなんて、正気?」
「先日、いいや、本日、魔導国にて教会の人間を見付けたのだよ。しかも例の過激派の連中さ。検問を張っていた、のを見ると既に各国で魔術師の摘発は行われている筈だよ」
「ふむ、けれどたかがそれだけ? 魔術師の総数なんて増やすこと難しくない筈よ? それこそ、その子のように特異な精神構造を持つなら余計にね」
「しかし魔術師を増やすこと正された秩序に歪みを増やすことさ。加えて新たな火種も投下されつつある。それを構え無しに迎える事、魔術師や人間以前にヒトの滅びを意味するよ」
「外界、のことね」
「我々の予想を越えて人間は外を探求したがる。リリス、君は連盟の招集には反対だったね?」
「あれは人間の傘下に魔術師が下る事を意味したからよ。結果、答えはあの通り。信じたこと自体を否定はしないけれど、結論的にあなたの行動は間違っていたわ」
「ふむ、それもまた事実だなのだと実感している。故に此度はそうもいかないよ」
「なに?」
連盟の失敗は彼が人間を過度に信頼したこと、そして連盟が責任を魔術師という存在に擦り付けたこと。故、既に彼の中には人間に対する信頼は無かった。となれば答えは簡単だろう。実行には膨大な時間と巨大な提示、無数の覚悟と溢れる血涙が必須になる。しかし発展と守護においてこれらを失うことは半ば必須条件なのだ。ならば彼はそれを切り捨てる。だが最後に1つ、彼には心残りがあった。だがそれもまた些細なことだった。
「リリス、私は些細な組織を結成する。人間を抑止し、魔術師を守り、時に世を還すための組織。これは魔術師の存在意義さ」
「そこの子、生かしてていいの?」
「この子にはいくらでも制約をかけられる。信頼とはそういうものさ。例え私が枷を嵌めたとしても、この子は決して私に噛みつきはしない。何故ならそれは互いに全幅の信頼があるから」
「なるほど。それで、現実性は?」
「我々が旅をしよう。君も力を貸してくれるとありがたい。この場所を解放しようではないか。必要なのは全体思想を持つ公平主義の魔術師本来の姿。君が選ぶといい。私は君なら賛同してくれること、信じているよ」
彼はそういうとヒラリと踵を返し背後に浮かんだ鏡の中へ消えていった。続いてユウリもその中へ。残されたのは彼の言い放った氷のように冷たい現実と溶岩の如き危険性を秘めたデンジャーな計の片鱗。彼女は手元のグラスを煽る。そして隣に踏み出したメイドがワインを注ぎ足しキッチリとコルクを締める様に、彼女は困り顔で小さく笑った。