闇に射し込む光のように……1
アノールとルディ、そしてルタは森の入り口近くにある教会裏で、森の様子を窺っていた。それは万に一つ逃げ延びる者がいるかもしれないという期待と、この混乱に乗じて魔獣が森から飛び出してくることを警戒してだった。
森が騒いでいるのだ。それはあの『揺れている』と感じた騒がしさではなく、幾度となく繰り返される怒りの方の騒がしさの方だ。
愚かだな、ルディは思う。
しかし、同時に助けられはしないだろうかとも思う。森の中で怒りを買っているのは、おそらく木こりを含む民衆もいるのだろうから。
そんなルディの心の中を察するようにして、ルタがルディを引き留める。
「あぁなったリリアをどうにか出来る人間なんて、存在いたしませんわ」
アノールにも言われた。「魔獣にやる餌を増やすな」と。
「分かってる……けど」
リリアがルタの言葉を覚えてくれているのであれば、逃げ出せる者もいるかもしれない。ヒガラシの話だと護衛の兵士もいるかもしれない。いくらなんでも、なんの護衛もない者を夜のときわの森へ向かわせるはずはない。
そう思いたい気もした。
だったら、逃げ切る者もいるかもしれない。
風に乗って血の臭いがぬっとりと流れてくるのを感じた。揺れた森が容赦なく切り裂いたのだろう。
甲高い鳥の声が森の奥に響き、木の葉が散るようにして、月明かりにその影を現し、森へと戻る。
影が空を覆い、再びの沈黙。
終わったのだろうか……。
ルタが口を開く。
「誰か来ますわ。でもまとわりつくように魔獣の臭いも微かにあります。どう致しましょう?」
ルタが暗闇の森の奥を睨んだままそう告げ、ルディを見る。ルディにはまだ感じられない。生きているなら、なお良い。
「行こう」
ルタの表情が一瞬緩み、すぐに硬くなる。血の臭いに誘われた別の魔獣が飛び出してくる可能性もある。
「アノールはここを護っておいてください」
「しかし、」
肯いたアノールは表情を強ばらせたまま、忠告に留めた。二人の性格を考えれば、行かせるべきなのだ。あれだけ揺れ続けたルタのことを考えても、ここで見殺しにさせてはいけないのも確かだ。
「分かりました。でも、深追いだけはしないように」
必要なものだけを拾ってくれば良いのだ。
生きていればなお良いだけ。
☆
領主館内ではセシルがルカを抱きしめながらアースの傍に寄り添っていた。
「大丈夫ですからね。お父さまもお母さまも、お祖父さまもとてもお強いのです。きっと護ってくださいますから」
アースはそんなセシルの頭を抱いた。セシルの言葉はルカに向けられたのではなく、セシル自身が自分を言い含めるために発した言葉だったからだ。
ルカはきょとんとしながら、尋ねる。
「りぃあ、怒ってる?」
ルカは以前教えてもらった森の女神さまの名前を思い出していた。
「かあさま、りぃあ、かわいいしてる?」
「可愛い?」
「うん、もり、おこってる。りぃあ、かわいいする。にこっするの」
ルカは無邪気に本気でそう思ってアースとセシルに伝えた。
「るかもかわいいするの」
そう言ってルカはセシルの腕から抜け出した。
「だめです」
思わずセシルが大声を出すと、ルカがビクンと体を強ばらせ、泣き出す。
「かーいーするのーっ。るかもいっしょに。かあさまと、とうさまといっしょにーっ。いくのーっ かーいーするのーっ」
「ルカ、大きな声を出してごめんなさい。でもね、それは危険なのですよ」
慌てたセシルがルカの前にしゃがみ込み、謝り続ける。
「ごめんなさいね。でもね、お祖母さまはルカのことが大好きなの。だから、ごめんね。大きな声、びっくりしましたね。ごめんなさいね。お祖母さまがもっと……」
そんなセシルとルカを見てアースが彼らに声を掛けた。
「ルカは優しいからね。でも、森の中は魔獣もたくさんいる。だから、もっと大きくなって、もっと強くなったら、リリアにも可愛いをしてあげなさい。森を傷つけることのない人間には、リリアは優しく応えてくれるからね」
そして、穏やかな声で続けた。
「セシル? お前の出来ることがあるだろう? ルカに教えてあげれば良い。ルカはお兄さまだからな」
「……そうですね。ルカ、おばあさまと一緒に準備をしておきましょう」
まだ完全に泣き止めていないルカだったが、何かをするのだということは分かった。
「お湯を沸かしておいたり、傷薬や包帯を準備しておくのです。お留守番をする者にも、役割があってとても大切なことなのですよ。お手伝いしてくれると嬉しいわ。きっとお父さまもお母さまも、ルカのことを可愛いしてくれますよ」
ルカは熱心にセシルの言葉を聞いた後「かわいいする?」と尋ねた。
「えぇ、たくさん可愛いしてくれるように、おばあさまからも伝えますね。ルカがお兄さまだったことを必ず伝えますからね」
「うん、にいさまする」
セシルの表情を見たルカが、にこっと笑った。
☆
兵士の一人が木こりを背負いながら森を切り分けて、走っていた。その兵士よりも腕が立ったという理由だけで、足止めをしてくれたあいつは……。木こり自身は足を挫いてしまっているし、兵士自身も肩に大きな傷を負っていた。バグベアの首が噛みついたのだ。自分で引き剥がしたが、それを仕留めたのはあいつだった。そして、自分たちを逃がすために、その場に留まった。
あいつは、今その本体と戦ってるはず。それが追いついてこないということは、まだ生きて戦っているはず。
早く森を抜けなければ……。
森の外に木こりを置いて、あいつを助けに戻らなくては……。
一人でどうにか出来る相手ではない。
ときわの森には大型魔獣がいることを知っていたが、多数で襲いかかってくるなんて反則にしか思えなかった。誰も帰って来られなかった理由がよく分かった。前方から感じられる魔獣の気配は、少なくとも五体以上。
自分は、運が良かっただけなのだ。
若い木こりが泣きながら呪文のように唱え続ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あれは傷つけてはいけない木だったんだ。森の神様が怒ってらっしゃるんだ。ごめんなさい、ごめんなさい」
兵士はその呪文を聞かないように走り続けた。
ディアトーラへ向かう道だ。行ってはならない方角とだけ聞いている。行ってはならない理由は濁って見えないが、未熟な兵士にでもそれが濁りであるということは、分かっていた。だけど、木こりをかくまってくれる人間が住む場所は、こちらの方向しかない。
走って、……。
「あ……」
人影が二つ。
「この人を助けてやって欲しいんだっ」
兵士は叫んだ。影も走って近づいてくる。安心もあったのだろう。兵士の足が縺れる。そして、抱き留められる。思わず木こりを落としそうになり、腕に力を込め直す。
「よく頑張った」
男の声がした。
「ゆっくりで大丈夫ですわ。このまま真っ直ぐ行けば、すぐに灯りが見えるはずです。そこでディアトーラの領主が介抱してくれるでしょう」
女の声がした。
しかし、兵士は頭を振った。
「友達がまだいるんだ。足止めしてくれてるんだ。戻らなくちゃならないんだ」
「その方は訓練を受けた方でしょうか?」
兵士が肯くと女がさらに尋ねた。
「魔獣は一体でしたか?」
穏やかな女の声の後に、やはり穏やかに男が続けた。
「大丈夫、気にしなくても僕たちが行くから。君も怪我をしてるでしょう? 足手まといになるだけだから、その人を最後まで送ってあげて」
☆
ルタが尋ねる。
「その方は訓練を受けた方でしょうか?」
兵士が肯く。その肯きを見てルディはわずかな希望を見ていた。
木こりならもう無理だろう。だけど、訓練を受けているような者であれば、生きている可能性もある。この兵士が走って戻っていこうと思える距離……。
「魔獣は一体でしたか?」
ルタが尋ねたいことは『リリア』の有無だ。兵士がやはり肯く。
「大丈夫、気にしなくても僕たちが行くから。君も怪我をしてるでしょう? 足手まといになるだけだから、その人を最後まで送ってあげて」
足手まといが分かったのだろう。兵士はルディの提案に「分かりました」と素直に答え、歩き始めた。
「ルタ……」
あのね、……しかし、ルディは言葉を呑み込む。助けなければならない者ではない。ディアトーラにとって必要な者は得たのだから。
ルタは帰って。大丈夫、深追いはしないし。
もちろん、ルタが承知するとは思えない。しかし、ルタの潜めた声がルディの耳に届いた。
「……危ないと感じたら知らせます」
「いいの?」
「えぇ。引き返すありきであれば」
生きている可能性は限りなく低い。だけど、とても若い兵士だった。近くで見れば、その面差しはルディよりもテオに近いくらいの幼い顔立ちだった。その友達なのだ。
「まだ、生きている匂いがしますので……」
ルタの言う言葉には、引き返すタイミングがその者の死を意味するのだということが含まれていた。
肯き合った二人はそのまま森の闇の中へと走った。














