ルタ様の薬
今、ディアトーラではルタの作る薬が一種の話題となっている。
ルディとルタが町を歩けば、挨拶代わりに「足が痛くて」「肩こりが」「頭痛が」「腰痛が」と体の不調を訴える者が後を絶たない。ただ、ルタはそれを微笑みだけで躱してしまう。
「全部渡すの?」
とルディが心配して尋ねると「いいえ。お医者様が困ってしまいますわ」と何ともなしに言っていた。
それなのに、同じような症状を訴える他の者にはなんの逡巡もなく、分け与えることもあるので、ルタの基準は不思議極まりない。
もちろん、不思議極まりないと思っているのは、町の者だけではある。
ルタの基準は、本当に必要な者へ、である。それはディアトーラにとって、ルタにとって、その民にとって。
『ルタさま印』の薬の話題が国外へ漏れることを狙ってもいる。
「何か届いてる?」
「そうですわね……以前、わたくしをお気遣いくださったリディアスの商人から、薬についてのお尋ねをいただいているくらいですわね」
おそらく同情から始まった付き合いである。春分祭にいた貴族からの扱いに共感してくれたのだろうと思われる、面識のない商人だったが、リディアスで少しずつ認知を広めている堅実な薬問屋である。
「どうするの?」
「そうですわねぇ……」
小首を傾げながらルタはその書面に視線を落としている。
「価値がないわけではないとは思いますが、儲けを出したいわけではありませんし。もう少しやりとりをしてから決めたいと思っています。それにクミィに練習させてみるのも良いかもしれません」
そこでクミィの話が出てくるのは、ルタが薬を作り始め、覚えたいとここに通っているからだ。
「クミィ、頑張ってるんだね」
「えぇ。とても熱心に……と言っても魔獣関係の薬は教えていませんけれど」
ルタがクミィに教えているのは、せいぜい庭で取れる薬草を煎じる程度である。ときわの森が傍にある以上、教えるのは危険であると、クミィの熱心さからルタが決めたことである。
「痛み止めくらいなら、クミィの薬で充分だと思うのです」
そこから噂を広げても良いのは良いが、クミィに危険が及ぶのは避けたい。
「クミィすごいね。二ヶ月だよね。それで、ルタが認めるんだから……薬屋さんになるのかな」
そこで、ルタはくすりと笑った。
「どうしたの?」
ルタはルディを見ながら、クミィの弟子入り志願理由を思い出したのだ。
『あたし、ルディ様みたいな人と一緒になりたいのです。だから、ルタ様みたいになりたいのです』
「薬屋さんになりたいわけじゃないみたいですわ」
十四歳になるクミィが目をキラキラさせていた。それは、ルタがルディとの婚礼を挙げる前に読んだターシャ・グレースの物語に出てくる「『恋』に『恋』する」と描かれていた少女にそっくりに思えたのだ。
そして、おそらくそうじゃなければ、ルタはクミィに薬作りを教えなかっただろう。
ルタみたいになりたいと言ってくれるのは嬉しいが、ルタの様にはなって欲しくないのだから。
「もったいないね」
ルディは心底もったいないと思ったようだ。
「そうですわね。興味があるのであれば、採集物関連は全部教えても構いませんけど、本人にその気がないのなら、必要ありませんし。そちらは、いかがです?」
「あぁ、こっちは届いているみたいだよ」
森が静かになってきている。ディアトーラが木材をリディアスへ献上した。
ルディが吹聴している事実。アノールがやんわり否定する事実。
「ときどき、カズがエリツェリの商人にも尋ねられるって言ってたから」
「こちらの評判が上がる前に、動きがあるかもしれませんね」
ミルタスはアリサのお供でワインスレー諸国にもよく訪れている。リディアスで行われる小さな晩餐会にも連れて行かれるということだから、アリサがミルタスを気に入っていると言うことは目に見えてよく分かった。
トマスも鼻が高いことだろう。
リディアスが求めるものを、各国に求めに行くかもしれない。
しかし、それはトマスの功績ではないのだ。今はまだ。ミルタスが気に入られているという事実しかない。
本当に後ろ盾が欲しいのであれば、トマス自身がリディアスに気に入られなければならない。しかし、あの春分祭があったがために、彼の歩む道は足元にしか存在していない。
闇の中にあった者が光に縋りたくなるように。
ミルタスに縋ることは出来よう。だが、ミルタスに何か力があるわけではない。さらにアリサがそこに手を貸すと言うことはない。
アリサが自国のための献上品に口添えすることなどない。
一度見た光を失うということは、恐怖でしかない。
恐怖は、人間をたちまちの内に崖下へと突き落とす。
攻め時ではある。
「ルディ? やはりリディアスの商人とのお話を進める方向で、動いても良いでしょうか?」
ルタの提案にルディは鷹揚に答えることが出来た。
「いいよ。人を殺す薬を売り出さない限り、好きに動いて大丈夫にしているから」
春分祭が終わった後からもワインスレー諸国を回り続けているルディには、それがよく分かっていた。
★
「この度は災難でしたな」
そう言ってディアトーラの様子を窺いに来る各国に、ルディはにこやかに挨拶をする。
「ご心配をおかけしております。本当に妻が回復してくれたから良かったものの、火の車です」
そもそも裕福だと思われていないディアトーラが火の車だという。余程、関係が悪くなければ、相手は同情の表情は浮かべてくれる。治療代が高く付いたのだろうなと思う者がほとんどだ。
だからルディはわざと背景をぼやかして伝えている。
本当はアイアイアから材木を購入したから火の車なのだ。
そして、ルディに代わりカズが言葉を繋ぐ。
「幸いにしてディアトーラには腕の良い薬師がおりますので、助かっておりますが」
カズも言葉をぼやかす。幸いにして腕の良い薬師がおりますので、財政もなんとか回っております、が本当だ。
お愛想でも皮肉でも、彼らは「ほぅ、ディアトーラで薬ですか。よく効きそうですな」と繋げることが多い。
だから、ルディは伝えるのだ。
「よく効きますよ」と。
背景をぼやかすだけで、彼らは勝手な想像をしてくれる。
その薬でルタが助かったのだろうと思う者。
魔女がやはり存在するのだと思う者。
純粋に試したいと思う者。
しかし、誰もが伏せっていたルタとその薬師を繋げる者はいなかった。
「いずれ、回復された奥方様にもご挨拶させていただきたいものですな」
「ありがとうございます。妻も喜びましょう」
彼らが恐れる『魔女』は確実に『架空』になりつつあるのだ。
★
ヒガラシは完全に冬になる前に庭の剪定を終えようと思っていた。背後にはもちろんあの若旦那がいるのだが、彼はヒガラシの仕事に対して何か注文を付けるわけでもなく、手伝うわけでもなく存在しているだけだった。
それでも声を掛けられれば、ヒガラシの心臓は飛び上がるのだ。
若奥様の名前はルタ様と言うらしい。
そんなことも知らずに、ヒガラシはあの時、彼女にグラスを渡してしまった。
若旦那が言ったように、引き返せば良かったのだろう。
引き返せない理由があったのだとすれば、それは、ヒガラシの中に生まれた恐怖が一番の理由だった。
ここまで来てしまった。ここで引き返すことなど、出来ない。引き返せば、未来はない。
どうしてそんな風になってしまっていたのだろう。それは、ヒガラシ自身も分からなかった。
脇芽を目安に短く切ったラベンダーの束を、脇に置いてある箱の中に入れる。
若奥様の姿はあれ以来見ない。
森の中で、苦しそうなお顔をなさっていた。それなのに、あの花を見せに連れてくださった。エリツェリの花であるエリーゼは息子も好きな花だった。森を侵した息子でも、きっと安らかに眠ってくれている。そう思いたかった。
しかし、若奥様は、森の女神さまへ悲痛な思いを叫んでおられた。
どうなさっているのだろう。回復されているのだろうか。ちらりと背後を見ようとするが、それが出来ない。その視線が怖いのだ。
償えるものではない。お元気になられているのならば、少しは気持ちが楽になるのかもしれないが、それもどうか分からない。今度は奥様の視線が怖くて仕方がなくなるのかもしれない。
そして、怖いという気持ちが再びヒガラシを呑み込もうとすると、エリツェリ元首のトマスの言葉が甦る。
『陥れられたのだよ。あの国に』
木こり連中が彼の元に押し寄せた時に聞かされた話だ。
陥れられたのだよ。あの国に。
森は国境が曖昧だという。
私だってそんなややこしい場所で、とは思わない。しかし、エリツェリを一度滅ぼしたあの魔女があの国に入ったのだ。
あの国の元首は元々リディアス王族だ。それが魔女を受け入れたのだ。どこの国も魔女に対して考えが甘くなりつつなる中、あの魔女に因縁を持つ我が国が、目障りになったのだろう。
あの国は情報を操作するのが巧みだから、我が国が力を持たないように言い回っているのだ。
それを証拠にアナケラス様が退位された途端にあの魔女がリディアスの祭事に招かれている。
『そうか、君は息子を取られたのだな』
もし、その気があるのなら叶えるよう手筈しよう。
これは、国の威厳の問題なのだ。
皆でこの国を奪われないようにしようではないか。
正義はそこにあると思っていた。だから、退くということは『悪』だったのだ。悪に陥るのが、怖かった。
ヒガラシは恐る恐る若旦那を振り返った。
蒼い瞳がヒガラシを捕らえる。だから、視線を合わせることは出来ない。しかし、ヒガラシは躊躇いの後、言葉を発した。
「あの……」
「何?」
彼は不機嫌な声を出したが、それでもヒガラシの声は聞いてくれそうだった。
「お尋ね、しても、よろしいでしょうか?」
「あぁ」
彼はあの時以来、一言で会話を済ませようとする。話もしたくないのだろう。しかし、ヒガラシを生かそうと毎食を運んできてくれるし、墓守の件も承諾してくれた。
何よりも、家族の心配をしてくれた。放っておいてもよい御霊を弔ってくれようとした。
彼は、悪ではない。
その彼が大切にする国が『悪』な訳がない。
「若旦那様は、エリツェリを……邪魔だと、思っておられましたか?」
彼の瞳から一瞬あの冷たい色の光が消えた。
「大切な隣国だと思っているよ。それは今も変わらない」
★
「父さん……あの男がトマスの心情を語ってくれた」
「そうか。こちらの揺さぶりも上手くいっている」
「動くね」
「動くだろうな」
動かなければ、このまま氷塊を抱えたままではあるが、崩れずに過ごせてはいただろうに。
しかし、あの男の語った理由からすれば、動かなければならない衝動に駆られるのだろう。
「さて、どう受け入れようかね」
アノールが空を見つめた。ルディが視線を大地に落とした。
ルタの薬がリディアスの商人によって、話題に上り始めていた。
ディアトーラの薬はよく効くよ。
なんと言っても、あの毒に倒れた奥様を救える、力量ある薬師が作っているからね。














