財政難
夏が終わり、収穫祭間近。
ルディとルタは森へ分け入り、榊と聖水の準備を始める。
森は静かだ。怒りはない。しかし、穏やかさは全く感じられない。
「見てますわね」
「うん」
腹が減っているのか、さっきからこちらの様子をずっと窺っている何かがいる。
ここは森の深部である。大型動物……ではないだろう。
「どう致します?」
「多分、バグベア、だよね」
歩みを止めずに,ふたりは会話を止めない。
「えぇ、おそらくそうでしょうね」
大きさ的に、気配的に。針金のような毛皮を持つ、深紅の瞳の大きな熊。
ルタがどうするかと尋ねる理由は、おそらくそのバグベアの心臓にある。
バグベアの心臓は乾燥させれば万能薬として高額なのだ。
「財政的には……ねぇ」
ルディは視線を少しだけ上にし、考える。ディアトーラの年中行事の予算的には全然大丈夫なのだが、蓄えの方を切り崩しているので、この上何かあれば、ちょっとばかり苦しくなる。
それに、いくらタミルがこちらの言い値で良いと言ってくれたとしても、あんまりな額での取引きは出来ない。あちらも無償活動ではないのだ。赤字を出すようなことは出来ない。
「こいつ一匹でどうこうできるかって話ではないけど、……」
「そうですわね。相場で言えば五千ニード」
「良いものだと八千くらいで取引してくれるけど……」
ルカにぶどうパンを大判振る舞い出来るようにはなる。あと、あの男の給金にも回せるか……。
「毛皮も一応取れますけれど」
「こっちは、良くて三千かな?」
ルタもわずかに視線を上に上げて、考える。針のようなその毛皮を兵士のベストにすることがあるのだ。一応、木製の板ほどの硬さは確保できる。
「では、止めはルディにお任せしますわ」
「うん、分かった」
ルタは心臓を一突きすることが多いが、ルディは首を落とすことが多い。
「まぁ、襲いかかってきたら……だけど」
襲いかかってこないものをわざわざ仕留める気はさらさらない。襲いかかってこないのであれば、それは森の女神がそのようにしているからだ。
「それとも、全部お任せして、先に榊を取って参りましょうか?」
「えっ、一緒に行こうよ、榊取りは。安全確保した場所で物見遊山してくれていても良いけど……」
リリアに操られていないバグベアなら、ルディ一人でなんとか出来るのも確かだが、大切な年中行事の一つを、ルディはルタと一緒にしたいのだ。
「それは、つまらないですわ」
わずかに森が拓けた場所に来た。
「来ますわね」
自分の体格が大きいから、地の利を活かせると本能的に思ったのだろう。
ルディは脇差しではなく、長剣の柄に持ち変える。
地の利は、ルディも同じだった。だから、この道を選んだ。
ルタとルディが二手に分かれる。ふたりのいた場所に大きな黒い塊が飛びかかり虚空を掴んだ。そして、その魔獣が気付かぬうちに、背後に回ったルディの剣が、その首に向かう。
硬い毛を掬い上げるようにして線を描く銀色の刀身が、その流線を描き切ると、それを追うようにして宙を舞った黒い塊が、大地に落ちた。
「ルタ、そっち行くよ」
ルディの声に、バグベアの前方にいたルタが微笑みで返すと、落ちてなお飛びかかろうとするバグベアの頭部を大地に縫い付けていた。
ルディは、緩慢な動きで振り返ろうとした首なしの背を迷わず押し倒し、そのまま大地に縫い付けるように剣を突き立て、背中から腹部を抉った。
致命傷を負えば、約十五秒。魔獣はそのくらいで動かなくなる。首を落とした時点で、致命傷を受けているのは確かだが、この体自身は心臓を綺麗に回収するため、即死になるような致命傷を与えなかった。だから、三十秒くらいは気を抜けない。後は血液が抜けるのを待つ。首の傷は既に塞がり始めているし、抉られたはずの腹部ですら、回復の兆しが見られる。だから、ルディはその刀身を滑らせ、血が吹き出すのも構わず、再び傷を抉る。
吹き出すと言っても、その血は体外に出ると煙のように蒸発していくものが魔獣だ。そして、常にどこかを傷つけておかないと、すぐに傷口は塞がり、頭なんてなくても、不思議と目的の者に襲いかかってくる。
だから、間違っても腹側から縫い付けてはいけない、が鉄則だった。今も鋭い爪が生えている手足をばたつかせ、ルディを掴もうと足掻き続けているのだ。
ルディは体重をかけてそれを抑え込み、倒れたバグベアの側面から剣をさらに押し込む。バグベアの肘を膝で踏みつけ、もう片方の足で重心をとり、体重をかけて動きを止める。
剣を支える両腕の力は決して抜いてはいけないのは当たり前だが、周囲の警戒も緩めてはいけない。
集団行動も取る動物と違い、魔獣が単体行動しか取らないことに感謝したくなる。
要するに、リリアが魔獣を操れば、動けない十五秒間に更なる魔獣を嗾けられるのだ。勝機なんて見えない。
このバグベアでさえ、致命傷と思って、首を落とせば二手に分かれて飛びかかってくるのだ。
だから、本当は、ルタの心臓一突きが独りでの戦い方の基本ではある。
独りだったらルディもそちらを選んだ。首がある分、動きに緩慢さが現れないが、そちらの方が確実なのだ。
しかしその場合、体の足掻きは、手足に加え、体をよじり、体勢を整えようとする。
致命傷を与え、動きを止めてしまわなければ、人間に抑えきれる力ではない。
頭付きで、もし突き刺した場所が心臓をずれてしまっていた場合、形勢はすぐに逆転される。さらに首よりも的が小さく、防御しやすい場所にある心臓を確実に狙うのは意外と難しいし、隙を狙うために時間がかかる。
実力が伴う二人なら、首を落とす方が倒すに易しい。
しかし、ルタは難なく心臓を一突きする。その小柄な体躯を器用に生かし、仕留める。
魔女だった頃は、それに加え、魔法を使えたのだ。
ルタが恐れられる理由は、決して魔女だからだけではない。
バグベアが少し大人しくなって、余裕が出てきたルディは、目の端に映るルタの様子を確認した。綺麗に脳天を突いてある。あっちはもう少しで終わりそうだった。
あぁやって、確実に首を仕留めてくれるのならば、こちらの方が楽な戦い方になるのは確かだ。
半年ほど前にルタがリリアにこちらの意志を伝えてから、リリアは積極的に人間を襲わなくなった。しかし、魔獣を抑えることもしなくなった。だから、百年前よりも魔獣自体の数は減っているのだろうが、当時と同等の危険な森に戻っているのだ。
ただ、リリアの気配はあるらしい。
窺っている状態なのだろう。
十五秒経ったようだ。
首が完全に動かなくなったので、ルタがその首を持ってルディの傍へやってきた。
「それどうするの?」
まだ動けないルディは、痙攣を始めたバグベアに跨がったまま尋ねる。
「牙も使えたかと思いまして」
「あぁ、コレクターがいるけどね」
あんまり……歯を抜くのって意外と面倒だし、割に合わない。
「あ、タミルが欲しがってたかも。その犬歯だけもらっとこっか」
その言葉にルタが「では、犬歯はタミルに贈りましょう。タミルにはお世話になりましたものね……他の歯はわたくしがいただいて構いませんか?」と言う。
「どうするの?」
「薬に変えれば高く売れますでしょう?」
あぁ、そうか。ルタはもう魔法は使えなくても魔女としての知識があるんだった。
「砕いて薬草に混ぜ合わせれば、強力な咳止めになるのです。以前に比べるとだいぶ効果は薄れると思いますけれど……」
「それでも、よく効くんでしょう?」
あの事件が起きてから、ほとんど作ろうとしなかった薬を、ルタが作り始めた。町のみんなも『ルタ様印のお薬』と重宝している。カズがお金を取れば、と言うほどの重宝ぶりである。
「ごめんね、うち貧乏で」
ルディが苦笑いを浮かべながら、冗談めかして伝えるのは、ルタ自身が『薬作り』と『魔女』を結びつけてしまわないためでもあり、ルタがあの事件と魔女を結びつけないためでもある。ルタの出来ることが魔女だと言われるようなことは、ディアトーラではもうない。気にしなくてもいい。それでも、褒められてルタは寂しそうにする。
「いいえ。そもそもわたくしのために無駄遣いさせたようなものですから」
「無駄遣いじゃないって。必要経費。それに、そもそもはうちが貧乏だから悪いの」
「そもそもで言えば」
ルタが譲ろうとしないので、ルディはわざと動かなくなったバグベアに意識を向けた。
「動かなくなった。採集しなくちゃ。榊もまだだし」
そもそもで言えば、の続きは想像できた。
そもそも森に棲む魔女と女神がディアトーラに制約を設けているのだ。ルディ自身それを不自由だとは思ったこともない。制約を付けてはいるが、魔女も女神もこの国を見限ったりしないのだから。彼女たちはこの国とあり続けようとしてくれる。
「その薬草もここで採れるの?」
「えぇ」
ルディの横に座って静かに歯を採集しはじめたルタが短く答えた。
「じゃあ、一緒に採って帰って、良いようにカズに売ってきてもらえばいいね。ぶどうパンも買えるよ、きっと」
「ルカはぶどうパンが大好きですものね」
ルタの言葉の緊張が少しほぐれた。
「みんなの分も買えるといいね」
ルディもそう言って笑った後、心臓の回収をするためにひっくり返したバグベアの体に脇差しを滑らせ、肋を丁寧に折っていった。














