失うということ
薔薇の花はまだ咲かない。そっと空を見上げ、ルタは朝を思い出す。
今までずっと来なかったいつもの朝が、森が揺れた二日後からやってきている。そして、五日間、当たり前の日々が流れている。
ルカが眠っている間にセシルと共に館内の掃除をはじめ、朝食のパンを切り分け、クミィから卵をもらう。その後、テオが牛乳を持ってきてくれ、ルカがテオの声に寝間着のまま部屋から飛び出してきて、ルタがそんな彼を叱る。ルカは素直に「ごめんなさい」を言うが、すぐにテオに手を伸ばし、抱き上げてもらおうとする。テオは随分と背が伸びて、ルカをひょいと抱き上げられるようになってきた。テオが抱っこしたルカをルタに手渡すと、ルカは嬉しそうに手を広げてルタに抱っこされにいく。
「ルタ様おはようございます。ルカ、お母さんの言うことは聞かないと。ルタ様が困ってる」
ルタにはしっかりとお辞儀をしたテオはお兄さんぽくルカに言う。
「おはよう。テオ。いつもありがとう」
ルタはルカの服を着替えさせ、ルカに聖書を読む。その後は絵本を読んだり、歌を歌ったり、庭を歩いたり。
そんな時間をルタに作ったセシルは、安心してアースを起こしに行くのだ。
セシルは和やかなルカとルタの話をアースにしながら、目を細めると「ルタ様が元気になられて良かった」とアースに伝える。アースも「よかった」とセシルに答え朝食のメニューをセシルに尋ねる。
「お父さまはそればかり気になさりますね」
「それくらいしか、楽しみがないからね」
アースは茶目っ気いっぱいに微笑んだ。
ルディとアノールは朝の手合わせを終え、配達帰りのテオに挨拶をする。「おはようございます」「おはよう」「いつもありがとう」毎日同じ言葉を繰り返すだけだが、それがとても幸せな時間として流れていくのだ。
朝食は同じ食卓で摂る。以前はそこにアースも居たが、今は食事中ずっと座っているのが難しく、加わらなくなっている。
お喋りはしないが、はしゃぐルカの声とそれを窘めるルタの声だけが時々。
「おいしいね~。ぎゅうにゅう、のむ。あぁちゃま、はい。みて~。あーんした」
「お豆も食べたのね。偉いわ、ルカ。でもね、お食事中のお喋りは、お兄さまならしないのですよ」
「はーい。パンもたべたー。いっぱいたべた。みて~」
しかし、もちろん、それを不快に思う者もおらず、そんな食事が終盤に差し掛かってくると、既に食べ終わっていたルディがお茶の準備をするために立ち上がった。
跡目である間は特別ではない、がディアトーラでの扱い。いや、なんなら領主でさえも、手が空いていれば立ち上がってお茶を準備することもあるのだから、ディアトーラの朝食は、やはり他国とは違う。だから、不思議な国だとされる。中には野蛮な国だと言う者すらいるが、クロノプスの者たちは、誰も気にしない。
ルディとセシルは牛乳をたっぷりと注いだお茶を、ルタとアノールはお茶そのものを、そして、ルカには温めた牛乳を配る。
準備された側は皆、感謝を込めて微笑みを返す。
ルカだけが「あいがと」とにっこり笑い、ルディも「どういたしまして」とにこりと笑いながら、声を出す。
毎日変わらずにそこにあった日常が、当たり前のように流れていく。静かに、静かに。
そして、少しずつ変わっていく。
食後、ルディとアノールは書斎に籠もり、ルカを連れたルタは、セシルと共に領内の見回りをする。ディアトーラは小さな国であり、町として動いている土地は、本当に少ない。全住民を合わせて六百人弱。昨日は東地区だったから、今日は西地区。地区ごとに周り、変わりがないかの挨拶をしていく。ルカは東地区に行く時は「えど、あそぶ」と言い、西地区に行く時は「ねぇちゃま、あそぶ?」と尋ねる。
ルタとセシルはその変わり映えのないルカの言葉を心得ていて、エドの家であるマリエラの花屋とパン屋に寄った後、エドも連れてカズの家で軽食を摂ることにしている。
最近はルディの付き添いをしなくても良い日が続くカズは、万屋の仕事で不在が多い。しかし、フィグが言うには生まれたばかりで寝ているマナを、毎日一度は起こしてしまうほど、可愛がっているそうだ。
ルタはその話を聞きながら、ルディも同じようなものだったと思うに留める。
そう、ルディもルカが本当に小さい頃、寝ているルカをよく起こして泣かした。
午後にはルタ達の見回りが終わり、ルディは相変わらずブツブツ言いながらときわの森周辺の見回りへと出かけ、アノールはアースに現状報告がてら、その歩行訓練に付き合い、庭を見回る事が多い。
現状、もっぱらあの男の監視という役割である。
あの男が庭の手入れをしている。その手入れをして手に入れるはずだった彼への報酬は、ゆくゆくときわの森にある廃村の手入れに回される。
村はかつてのルタの主、ワカバが住んでいた場所である。
そして、ワカバが壊滅させた場所でもあり、そのように流れ進むようにラルーが仕組んだもの。
住むのならば、あのラベンダー畑の向こう側になるだろう。
ルタ自身はもう結界を施すことが出来ないが、リリアの怒りが収まっているのならば、余程のことがない限り生涯をそこで過ごすことは出来るはずだ。
そして、かつて時の遺児と呼ばれた魔女を閉じ込めていたその場所が、再びの牢となる。
繰り返される時間をルタは眺めていた。
「まだ先のようですな」
頭上から降ってきた声に、ルタはその声の主を見上げた。
「起きていらして大丈夫ですの?」
「えぇ、最近はアノールが手を引いてくれることが多いので、ずいぶん歩けるようになりました」
そう言いながら、アースは「よっこらしょ」とルタの横に座り、大きな息を吐き出した。
ルタはアースが座るのを見届けると、先の言葉に返事をした。
「今年も開くといいのですけど。早くてもひと月は先でしょうね」
「見られると良いのですがね」
アースは自分の衰えを思いながら、優しくルタに微笑んだ。
「今年も是非、見ていただきたく存じます」
ルタは気弱になっているアースへ静かに答えを返す。かつてのラルーならアースという人物には拘らなかった。永遠という時間を生きるラルーにとって、死に別れるということなんて、当たり前の通過儀礼だったのだから。
どこか未来でまた、どこかの時間でまた。
たとえ、それが別の世界であっても、完全に失われないのであれば、どこかで。だから、その日が来るまで大切に育てておこうとしか思わなかったのだろう。
「ルタ様がそんな風に仰ってくださるようになるとは、あの頃は思いもしませんでした」
アースはそんなルタに続けた。
「……ミラルダが森へ誘われた時ですわね……」
ミラルダはアースの妹である。おそらく、トーラ自身が生みだした最後の時の遺児。その妹の存在が消されようとしている。そんなことがあった。アースの双子の弟であるキースが単身、妹を取り戻しに森へ入った。
「アースはあの頃から冷静な感情の持ち主でしたわ」
「内心、焦っていましたよ。ただ、キースが走り出したから落ち着いていられただけです」
ワカバが保護したミラルダは、既にその叔母に当たるミランダになりつつあった。
「母トーラの……いえ、ミスティ最後の……」
ルタはそこまで言って、あぁ、と納得した。
親子というものがずっと分からなかったミスティが、我が子の存在を遺そうと足掻いた結果だったのかもしれない。
彼女も彼女なりに愛情というものを知ったのかもしれない。
「そうですわね。妹の存在を失うのですものね……」
同じ者だとは言えない。器として生まれ出たものだったのだとしても、イルイダが名前を僅かにずらしたくなった理由が、今ならよく分かる。
失ったものは戻らない。
「多分、わたくしも分かってはいなかったのでしょうね」
ワカバは、分かっていたからこそ、よく泣いていたのかもしれない。
「誰に謝れば良いのかすら、誰に償えば良いのかすら、わたくしには分かりません」
ルタは過去を振り返る。望んだ末に魔女になった者、その魔女が変えた過去のせいで存在を消し去ってしまった者、ルタ自身がトーラを護るために奪ってきた命たち。
誰かの大切な者だということは分かっていた。だけど、その誰かの心の行く先までを知ろうとしていなかった。世界を繋ぐために必要な失いものでしかなかった。
「ルタ様」
アースの声は固かった。しかし、それは苔むす岩のような、穏やかで柔らかな時を思わせた。
「人間とは愚かにできているものでしたね。ですが、熱いと知った鉄の上を二度と渡らないようになる者が多いのも事実です。だから、今クロノプスの者は、繰り返さないように進むべき道を探しております」
そう、繰り返さないように。二度と失わないように。
「ルタ様も同じなのではないですか? ルタ様はもう既に踏み出しておられるのではありませんか?」
「踏み出したとは言えません。なぜなら、わたくしはまだ『ルタ』という人間として動けておりませんもの。どこかラルーを思い出しながら、正解を探す自分がおります。『ルタ』は感情に流れやすく、脆い……折り合いをつけなければ、思い出す度に、また立てなくなるかもしれません。やっと歩いただけで」
今は、立っていられる気がする。ルディもアノールも、セシルもアースもいる。ルカも「かあさま」と言って付いて来てくれている。だけど、それはまた壊れそうになるかもしれない不安が常につきまとっているのだ。魔女であったということが、ルタを壊そうとする。それなのに、魔女であったことに縋らなければ歩むことも出来ない。
「ルタ様」
しかし、その答えを聞いたアースの言葉はさらに真っ直ぐ、石のように強く硬くなる。その声にはそこにあったはずの穏やかさがなくなっていた。
まるで、かつてディアトーラの領主だった時のようだ。
「人間の真似事などをして自身を殺さなくても、ルタ様はもう既にクロノプスの者として、生きておられるのです。そして、ルタ様もその失いたくない者の中に含まれておるのです。立てなくなったとしても、私たちがここにいます」
そう、こんな日が来るなんて、あの頃は思いもしなかった。
魔女を畏れるのではなく、その存在を護りたいと思う日が来るなんて、アースは思いもしなかった。
「どうか、ありのままのご自身を否定なさらないように。人間など愚かに出来ているのですから。熱いと分かっていながら、同じ鉄を踏みつける愚か者もいるのですから。誰も完璧になどなれないのですから。進もうとされているのは、ルタ様自身なのですから。熱い鉄を踏んでなお進めるのも、愚かな人間の一つの姿なのですから」
アースは真っ直ぐにルタを見つめた。
「歩めるのでしょうか?」
「ルタ様なら、歩めます」
不安を抱くルタは薔薇を眺める。アースはルタの眺めるまだ咲かぬ赤い薔薇の木を共に見上げ、誇り高く咲き乱れる薔薇の木を強く信じた。














