ディアトーラの子
森が騒がしい。それは、消灯を過ぎた領主館の中にも伝わってくるほどの、不穏な騒がしさだった。ただ、それは、侵入者があったという騒がしさではなく『森が揺れている』と領主館にある者には感じ取れるものだった。
そうすぐにエリツェリが動くとも思えないのもあって、ルディはルタにしばらくルカと一緒にいてあげてと伝えた。すると、ルタは「ルディがよいのであれば、そうさせていただきますわ」とあっさり答えた。
そのルタの引き際の良さにルディは戸惑いもしたが、ルタ自身からそれ以上の含みも感じられず、そのまま「明後日くらいに、ルカと一緒に食べものを持ってきてくれると嬉しいかな」と伝え直し、ルタを見送った。
だから、今、領主館にはアノールとルディ、そして、アース、それからヒガラシがいるだけだった。
そして、教会の奥に広がるときわの森の様子を偵察してきたルディが、アースの部屋へ戻ってきて、驚きの表情をあらわにした。
「お祖父さま、お立ちになって大丈夫なのですか?」
「あぁ、大丈夫だよ。少しは動かんとな。足も駄目になる」
「そう言って、聞いてくれないのだ」
そのアースの歩行介助をしながらのアノールが苦笑いを浮かべながらも、嬉しそうにする。
「森の様子は変わりないか?」
「えぇ、変わりありません」
森は静かだった。だけど、あんな森、初めて見た。
小さい頃から森の傍に住んでいるが、あんなに不安定な森は今までなかった。
「でも、危険かと言われれば、危険かと……」
「ルディがそう感じたのなら、危険なのだろうな」
幼少の頃からここに住んでいないアノールには、今でもその微妙な感覚が分からない。
「でも、……」
ここにいる限り、危険ではないとも思える。
「怒っている訳ではなさそうで……」
不思議だった。
「これだけ、森が揺れるということは、ルタ様が上手くやったということでしょう」
アースがやっとベッドに腰掛けてくれ、微笑んだ。
「あの悪党についてなのですが……」
ルディはまだヒガラシのことを『悪党』としか呼ばない。
ルディの言葉に、アノールは領主の顔に戻る。
森から帰ってきたルタが言った。
あの男にもう危険はないかと思われます。
ルタもヒガラシのことを『あの男』としか呼ばない。
「外錠は外しても良いのではないかということだな」
「えぇ」
あの男、ヒガラシがルディをもう狙うことはないし、過ってもディアトーラの人々に危険を及ぼすことはない、とルタは判断している。ルディも悔しいけれど、同じ意見である。
「あとは、あの男がどれだけ素直に話をするかが、問題だが……」
アノールでさえ、ヒガラシの名前を言おうとはしない。誰もが彼を個人として認めようとはしなかった。
「その後の処遇問題も残る」
「あの悪党の、この先……」
しかし、ルディの心はそのもっと向こうにある気がした。
ディアトーラで死罪はない。基本的には他国民はその国に返して、量刑を決めてもらうのだが、今回の場合はそれも出来ない。この館にずっと居座られるのも、やはり、気持ち的に許せるものでもない。
エリツェリに引き渡せば、……ディアトーラとしては問題ないのだ。
この悪党が、この先どうなろうと、この悪党の家族が、どうなろうと、ディアトーラの与り知らぬ所ではある。
一つ、駒を進める。しかし、そこがゴールというわけではない。証言だけ取れば、あの男をリディアスへ突っ返すという選択肢もあり、こちらで量刑を決めるという選択肢もある。それについてもリディアスは口を出してこないだろう。
あの男は、リディアスを憎んだのではなく、ディアトーラを憎んだのだから。ときわの森を憎んだのだから。
ただ、……。
「ルディは何か言いたいことがあるんじゃないのかい」
深くなった皺がアースの好々爺に拍車を掛けて、優しく微笑む。
ルタの言葉を察するに、あの男はもう嘘はつかない。おそらく、そこにトマスの名前も出てくるはずだ。
「父さんに伝えておきたいことがあるのです……」
「言っておきなさい」
アノールがルディの発言を許可する。言っておいて良いというのであれば、それは内容次第では考えてくれるかもしれないということだ。
「あの悪党にも家族があるのです。その家族がどこまで何を知っているのかは分かりませんが、いかなる断罪も受けるべきではないと思っております。それに、あの悪党は森で墓守をしたいと言っていたそうです。だから、リディアスには真実を、エリツェリには『死んだ』と伝えても良いのかと思っております」
今は森に住まわせるなんてことできない。
下手に魔獣に餌をやって、町に誘き寄せるわけにもいかない。
アノールが言葉を発さないので、ルディが言葉を紡ぎ続ける。
「もちろん、森の女神さまであらせられるリリア様のお心次第となるかと思いますが、昔、魔女達が住んでいた村に、住まわせ、月に一度はこちらの庭の手入れをさせます。あの場所からなら、エリーゼの花畑は安全に進めますから」
月に一度、ルディを怖がるあの悪党にルディの顔を見せれば、忘れないかもしれない。ルディの中で、あの出来事は、あの男の悲しみに流されてしまうものではなく、向き合っていて欲しいことでもあるのだ。
「ルタはなんと言っていた?」
静かに聞いていたアノールが口を開く。
「ルタは、僕がそれでいいのならと言ってくれています。手入れの日に、ルタはこの館にいないようにさせます」
「森の女神が気に入らなければ、即『死』も考えられる」
そう、女神の化身であるリリアがどう思うかは分からない。アノールはその女神を信仰する国からやってきた。リディアは、人を利用するために力を与えるが、利用されるようなことはない。
ルディはそんな国から来た父の瞳の奥を見つめる。
しかし、ルタの言葉を借りるなら、森を傷つけない者であるのであれば、リリアが人間に手を出すことは、ないのだ。
ただ、それも憶測である。これは伝えられない。
「それは、あの男にも伝えます。それでも森で墓守をしたいのであれば、と。そして、そのように取引すれば、あの男が包み隠さずに真実を吐いてくれるのではないでしょうか」
空によく似たアノールの瞳がルディを真っ直ぐに捉えていた。
「お前は、それで良いのだな?」
月に一度、あの男の命を護衛する形で、ときわの森からここまで連れてくることとなる。もちろん、ときわの森の中にある廃村では、当座の食糧もままならない。調達することも必要だろう。
だから、庭の手入れをする代わりに一月分の食い扶持として、食料を与える。
「はい」
ルディは迷いなく、返事をした。アノールは力が抜けるような溜息をつき、父の顔に戻った。
「やはりお前はディアトーラの子だな」
その言葉の意味が呑み込めていないようなルディに、アースが「ルディは、私の孫ですからな」とにこやかに続け、伸びをした。
「そろそろ、明日に備えて就寝準備としようかね」
大きな欠伸がその場の者を家族に戻した。
ディアトーラが祀るトーラは人の望みを叶える者。
しかし、その『トーラ』を人は望んではならない。
手を伸ばし、手の届くものを求めよ。
多くを望んではいけない。範疇を超えてはいけない。
多くを望むことは、世界が崩壊することと同義となり得る。
その手に零れない望みを願うのであれば、奪われることはない。
リディアスの聖書にも同じことが記されてある。
女神の思し召すそのままに願い望めば、叶えられる。
望まれる世界とは、女神のために存在するものである。
その世界以上を望むのならば、女神はその手から、すべてを奪い去るだろう。
ワカバもリリアも奪うことを目的とはしていない。
護りたいものが異なるだけなのだから。














