悪党
悪党の名前はヒガラシと言った。
ヒガラシには、木こりの息子がおり、自身は庭師もしていたらしい。二人は揃ってエリツェリ近くの森の木を切って暮らしていたのだ。
息子には既に家族がおり、ヒガラシ自身も夫婦で一緒に住んでいた。貧しいながらも慎ましやかな、そして、自分の腕と仕事に誇りを持って過ごしていた。
それは、貴族達が考える幸せには遠いものだったのかもしれない。ヒガラシ自身もそれを不幸だと思ってはいないが、幸福であると実感したことはなかった。
もっと裕福になれば、もっと幸せな生活を送れるのではないか。
もちろん、夢の話だ。
しかし、リディアスがワインスレー地方の国に木を求めたことで、夢が現実になる可能性が出てきたのだ。
息子が言った。
「良い仕事見つけた」と。
日々の木材から得る金額の倍で、雇うという。
息子はにこやかに手を振り、「美味しい物たくさん食べような」と家族と別れた。
しかし、息子はいつまで経っても帰ってくることはなく、大黒柱を失ったヒガラシ一家はさらに貧しくなる一方だった。
息子はときわの森へ向かったのだ。ときわの森には立派な一本樹木があるからと。
悪党が語るのはいつもここまで。
逆恨みとは言え、森を抱くディアトーラを恨む理由には成り得る。成り得るが、……。
最初に悪党と話をしたのはアノールだった。アノールは落ち着いて、彼と向き合う。3日間彼は何も話さず、何も口にしなかった。
三日後、やっと悪党は僅かな彼の身の上を話し始めた。
しかし、ルディはアノールに悪党と面と向かって話すことを禁じられていたのだ。
「まだ、お前はお前個人としてしか話せないだろう?」
確かに、ルディ自身、悪党に怒りをぶつける自信があったのは、あったのだけれど。
実際にあの男を前にして、リディアスに対して送った自身の書状にある通りに動ける自信は、なかったのはなかったのだけれど。
ヒガラシは四日目に熱を出して倒れた。暖かい国リディアスから、夏でも春並みの気温までしか上がらないディアトーラとの気温差も、弱ってきていた体調に影響があったのかもしれない。
リディアスにいた頃からほとんど何も食べていないということは、アノールも聞き及んでいた。ルディは「そのまま放って置けば良い。死にたければ勝手に死ねば良いんだ」と初めのうちは言っていたが、悪党が本気で死にかけた頃に、アノールがルディに話をしろと伝えたのだ。
確かに死にかけている相手を掴みかかるような気持ちにはなれない。薄い扉の向こうには、アノールもいる。
「君が何も食べずに勝手に死ぬのは別に構わない。だけど、君はルタが死ぬことを望んではいなかったんだろう?」
ルディの発した第一声に、痩せ細り、寝込んだままの悪党が静かに肯いた。
「だったら、まず、謝るのが筋だと思う」
その言葉は悪党にとって寝耳に水とも言える、予想だにしない言葉だった。ただ、それはルディが最大限譲歩して、捻り出した最低限の要求でもあった。
そもそも、領地を犯してときわの森へ入った時点で、罪は問われるのだ。しかし、何千歩も譲って、ときわの森が彼の息子を奪ったのだとして、ディアトーラを逆恨みするところまでは理解してやろう。さらには、その逆恨みが跡目であるルディに向かうまでなら、頭では理解してやろうとは思う。
なぜなら、今、この悪党を殺したとして、彼の隠していることは明らかにならない。さらに言えば、本当に何かを企んだ誰かをあぶり出すことすら不可能になるからである。
ルディの内心ではそんな風に折り合いを付けながら、煮えたぎる怒りを自分で言い含めているだけなのだが、悪党はその言葉を発したルディの声に驚いて、ルディを見つめていた。
ルディの声は、とても冷静で、自分のことを言っているとは思えなかったのだ。まるで、第三者のような。
「君は、僕だけを狙ったんだよね」
「……はい」
「じゃあ、なんでルタに見破られた時に、グラスを渡したんだ? 失敗だって思わなかったのかい? 引くことができなかった理由があるんだろ?」
悪党が黙ったので、ルディは「言えないんなら、いい」と言って、別の言葉を継ぎ出す。
「だけど、ずっとここでただ飯を食わせている訳にもいかない」
悪党は肯く。きっと彼は悪党ではあるが、本当の意味での『悪党』ではないのだ。
「……わかっております」
掠れた声に続く言葉は「殺してください」だったのかもしれないし、「死なせてください」だったかもしれないし、「許してください」だったかもしれない。それよりも別の言葉だったのかもしれないし、謝罪だったのかもしれない。それをルディが先に阻止する。
「殺せって言うんならお断りだから」
謝るのが筋、そう言っておきながら、ルディ自身彼を許す気は全くないのだ。ただ、……。
ルディの脳裏にルタとのやりとりが浮かんだ。
「ルディは、あの人間をどうしたいのですか?」
殺したいのか、生かしたいのか。利用したいのか、目の前から消し去ってしまいたいのか。
ルディは答えずにルタに尋ね返した。
「ルタは、どうしたいの?」
「そうですわね。……わたくしは、わたくし自身が憎くてたまりませんわ。もっと良い、最良を探すこともできたはずでしたのに……だから」
ルタの口癖は『無駄に命を奪うことは嫌い』だ。
だから、きっと、ルタはこの男の死なんて本当に望んでいない。
最良とはなにか。
ルタがこれ以上苦しむことのない、最良とは、なんなのだろう。
死にたいのなら死ねば良い、苦しむのなら永遠に苦しめば良い。だけど、どれだけこの男が苦しんだとしても、例え、命を奪ったとしても、何も変わらない。
こいつは、ただ何も知らないまま『死』という時の中に逃げ込むだけで。
永遠の中で同じことに苦しもうが、失われた時によって救われようが知ったことではない。生きる者を見守ることのない死がどうなるかなんて、ルディにとってそんなことはどうでもいいのだ。
だけど、知るべきだと思うのだ。
何があって、何が起きて、どんな結果を招いたのか。
それが、どれだけ関係のない者を傷つけたのか。
ルタと違って、ルディの考えなんて、世界が滅ぶには全く及ばない。しかし、ルタにとっての『世界』に匹敵する世界をルディだって持っていると思っている。
その世界が滅ぶ可能性があるのなら、それは極力潰しておきたい。
―――どうしたいのですか?
この男を悪党にした背景を知りたい。じゃなきゃ、ルディの持つ『世界』は護れない。
だから、ルディはこの男との接見を望んでいたのだ。ルタがここに残ると決めた時点で、クロノプス家の外錠が下ろされた時点で、自身を殺して掴み取らなければならなかった。
もちろん、殺し切れていなかったかもしれない。しかし、ルディは一つ、彼にとっての真実を掴んだのも確かだった。
『狙われていたのは、ルディ自身』だ。
とりあえず、これで完全に『魔女』は関係ないと突っぱねられるようになる。
そして、ルディは男に続けた。
「庭師もしてたんだったな。だったら、君自身が森の様子を見て来るといい。だから、それまでに歩けるくらいの体力を付けておくこと。それが、今の君への要求だ」
「じゃあ、ルタはどうしたいの?」
柔らかい声が春風に乗せられ、ルディの耳にルタの声が届く。
「わたくしは、……彼に花を見せたいと思います」
そんな答えをくれたルタはルカの手をつなぎ、庭を歩み進んでいた。
「僕は、あいつに覚えておいて欲しいと思ってる」
その言葉を歩むルタの背中に、ルディは投げかけた。














