星空の約束
ルディが帰ってきている。結局アノールはルディを連れていかなかった。「ルディは置いていくことにしました。あいつも帰ったばかりで疲れておると思いますし。まぁ、ここにいる方が何かの役に立つかと思いますしね」
アノールの言葉は確実にルタの負い目を深めるものにはなった。しかし、現状を思えば、ときわの森の魔獣に対応できる人間が一人でも多く残っている方が、ディアトーラにとって都合が良いのも確かだった。
ただ、ルタが気になるのは、ルディの代わりにカズがアノールに連れて行かれたことだった。
何事もなければ良いのだけれど……。
ルディが帰ってきた翌日、三日ほど前からルカはルディに会っている。もちろん、ルタも「おかえりなさい」の挨拶はした。ただ、ルタは家内の仕事に託けて話しかけることを避けてしまう。
おおちゃま、だっこ、たか~いしたの。
おおちゃま、ねんね、したの。るかもいっしょしたの。
んこちゃん、かーいかーい、したの。おおちゃま、いいこね、したの。
あぁちゃまは、いっしょないの?
どうして?
「そうね、一緒にいきたいですわね」
いしょがし?
「そうね、忙しい……のかもしれませんわ」
いっしょ、ない? どうして? いしょがしから?
「そうね……」
ルタはルカが覚えるほどに『忙しい』という言葉を使っていたことに胸を痛めた。そして、この日の晩は、ルカのぐずりがいつもに増して酷かった。
いくら抱き上げても、いくらなだめても、いくら言い聞かそうとしても、聞く耳を持とうとしなかった。
体をよじらせ、ルタの腕の中から逃げ出そうとする。
「ねないのっ。いや。あぁちゃま、きらい」
仕方なく下ろすと、大きな声で泣き始める。
「いやー」
何が嫌なのか全く分からない。
「ルカは何が嫌なの?」
「いやっ」
「そう、嫌なの……」
そう言いながら、ルタは困っていた。
そして、以前ルディが同じようなことで真剣にルカと戦っていたのを思い出した。
その時ルタはルディにこう言った。
『なにも世界が滅びるわけでもないのですから、そんなに目くじらを立てなくても……』
まだルカの『いや』が単純だった頃の話だ。
「ルカ、でも、もう夜も遅いですわ。眠たいから嫌なのでしょう?」
「ちがう。ねない」
違わないと思う。既に目は半分据わっているのだから。
「ベッドに入るだけでも入ってみたら?」
「いやっ ねんね、ないの。あぁちゃま、あっちって」
このまま放っておいても眠ってしまうんだろうなとも思えた。だけど、とルタは思い直す。ルカはルカでいろいろ我慢しているのだろうなと。ただでさえあまり遊んでやれていないのだ。しかも、ルタのわがままで振り回されているのは、ルカの方かもしれないのだ。だから、同じやりとりの言葉の先を変えることにした。とりあえず、ルカが興味を持ちそうなものへ。
「じゃあ、寝ないでいいわ」
「いやだぁ」
いつもなら「いやなのでしょう?」と繋がる。だから、叱られていると思っているルカは、また『いや』を繰り返す。
「いや」
ルカがむすっと口を閉ざし、ルタと目を合わそうとしなくなる。
「外にお散歩に行きましょう。眠たくないのでしょう? きっとキラキラがいっぱいあると思いますわ」
自分の好きなものの言葉に変わったことに気付いたルカが目を輝かせた。
「おさんぽ、いくの? きらきら、みる? るかも、いく?」
「えぇ、キラキラ見に行きましょう。一緒にね」
ルカが「だっこ」と手を伸ばした。やっと抱っこはさせてくれるらしい。現金なものね、そう思い、ルタが安堵の微笑みを浮かべる。
「ちょっと待ってね。羽織だけ持って出ますからね」
羽織りに包まれて、にこにこと抱っこされていたルカは、さんざん「おつきさまっ、きらきら、ほししゃん、きらきら~。いっぱいあるねぇ。あぁちゃま、ほら、みて、きらきら~」と嬉しそうに人差し指で指し示し、得意そうにルタにさんざん教えた後、急に黙り込んで、うつらうつらと寝てしまった。
すぅすぅ寝息を立てながら、ルタが動く度に「ううーん」と眠りの阻害に対しての抗議をする。
今はまだベッドに入れると起きてしまうのかもしれない。しかし、重たくなってきているルカをずっと立って抱っこしていることもないだろうと、ルタは涸れた噴水の縁に静かに腰を下ろし、ルカの背中を擦りながら、ぼんやりと夜空を眺めていた。
星はいつも変わらない。
ワカバと見た時もルディと見た時も。
ルカと見た今も。
かつてのルカと一緒に見た時も。
何も変わっていないように思える。
変わったのは、ルタだけ。
溜息が出た。
土を踏む音が聞こえた。
「あ」
ルタの声に、悪いことを隠そうとするような、そんな表情を浮かべたルディが、なぜか「ごめん」と謝り「ちょっと、星を見ようかと思っただけで」と言い訳を始める。
「どうして、ルディが謝るのです?」
「え、いや、なんとなく……」
「なんとなく……ですか?」
そのルタの質問に、ルディが答える。
「えっと、なんとなくじゃなくて、会いたくないんだろうなって思ってたから。会っちゃったし……」
二人はそのままの状態でそんな話を交わして、黙り込んでしまった。ルタの腕の中でルカが動く。
「起きちゃった?」
「いいえ、眠っていますわ……ルディも一緒に座ります?」
「いいの?」
「えぇ、ここはルディの家でしょう?」
「ルタの家でもあるけど……」
「座りたくないのなら、構いませんわ」
ルタは生産性のない会話だなと思いながらも、まだまだ真っ直ぐルディを見ることの出来ない自分に呆れてしまった。ルディが謝るから、おかしなことになるのだ。謝らなければならないことがあるのはわたくしの方なのに……。
「座る……」
「どうぞ」
再度の沈黙が訪れた。その沈黙の間、ルタは一生懸命に考えていた。考えていたというのも違う。何を考えていたのか、分からないけれど、つまらないことばかりを頭に巡らせていたのだ。
たとえば、会話のきっかけはどんな言葉をかければ良いのだろうか? とか。謝って追求されたらなんて答えれば良いのだろうかとか。
正直に話せない、となれば、どう言い訳すれば良いのだろうかとか。言い訳したら、その後どうすれば良いのだろうかとか……。
黙っておくと決めたのだ。ルディはきっと悲しむから。悲しみがどこかへ向かわないように、だから、アノールもセシルもそのように動いてくれている。
ただ、誰もルタを咎めない。咎められても同じように苦しいのかもしれない。だけど、咎めないというそれが苦しいと感じる。
そして、どうしてこんなにも『怖い』と感じてしまうのか、それを認めたくないと思ってしまうのか、分からないから、話が出来ない。
膝の上にいる温かなルカを見つめる。
「……今日は、全く寝てくれなくて……」
僅かな逡巡の後、ルディが返事をした。
「そういう時、あるよね」
「無理をさせていたのだと思うのです」
「うん、たくさん頑張ってくれてたよね……ルカは偉いよ」
ルディがルカに視線を落とす。ルカは偉い。ルタもそう思う。だから、きっとルタの気持ちを吸い込んだから、あれだけぐずってしまったのだろう。
ルカの『ぐずり』はルタのものだったのかもしれない。
「ルディ……」
ふと声を掛けてしまったルタに、ルディの視線が戻ってきた。しかし、少しは言葉を続けられる気がした。
「決して会いたくなかったわけではないのです……」
会いたくなかったわけではなくて、会えない自分がいただけで……決してルディが嫌になったわけでも、ここが嫌になったわけでもなく……。それなのに「いや」とも表現できない自分がとても嫌で。
こうなったのはお前が魔女だからだ、と言ってくれた方がどれほども楽で。
人間になっているのに、人間にはなれないと思う自分が、とても嫌で。
人間として認められたい、と願うことが恐怖でしかなくて。
弱い自分が、どうしても認められなかっただけなのに。
人間だと認めてしまえば、立っていられなくなるかもしれないという、恐怖に怖じ気づいてしまって。
そんなことに怖じ気づいて、動けない自分がとても嫌で、目を背けた。
ルタは、ただ『今』が失われることだけを恐れていた。
だから、失ってしまった。
「……許していただこうとは、思っていません……」
償いきれないことをしてしまったのだと、ルタは言葉を呑み込む。
恐いのだ、ここから進む『人間』の未来が。人間は今から未来を変える者なのに、ルタには未来が見えない。
目を伏せると、ルカが寝息を立てていた。
相手が誰であれ『いや』を言える強い存在。思いを伝えようとする存在。ルディに、尋ねたい言葉がある。
『ルタ』は本当にここにいても、良い者なのでしょうか?
そんなルタを見て、言えない言葉があるのだろうとルディは思った。それは、悪意じゃなく、今の自分には、言えない言葉なのだ。そんな風にルディは思う。だから、言葉に詰まるルタにルディが続けた。
「ううん、きっと僕が何かに気付けていれば、良かったんだよね。その何かは、分からないままなんだけど。だから、ごめん。きっとルタがたくさん傷ついたのって、僕のせいなんだよね。ルタのせいだなんてこと、ない。だから、僕も許して欲しいなんて、思わない」
ルディはセシルの言葉を思い出しながら、答えていた。なんて思いやりのない子。そこもまだよく分からないけれど、セシルの言葉にいつも間違いはないのだ。
きっと、思いやりを持つべきところに、思いやりが足りないとセシルは感じた。しかし、誰も教えてくれないし、口も割らない。
言ってくれなくては分からない。
ルタに会えなくなった半月ほど前はそう思っていたけれど、多分それも違う。
そもそもが、違う。
ルタを真っ直ぐに見ることのできないルディは、喉につかえた言葉を吐き出すようにして、言葉を零す。零れ始めると、今度は言葉が口を衝いて出てくる。
「……もっと、頑張るから。ルタからすれば、頼りないんだと思うけど、ちゃんとルタの抱えるものも背負えるように頑張るから」
ルタを魔女だなんて、そんなこと言わせないように……。大切にするって誓ったんだから。だから、僕にもルタを護らせて欲しい。
「わがままだと思うんだ。今すぐは無理かもしれない。でも、だから、いなくならないで欲しい。ルカとルタとこれからも一緒にいたい」
静かだった。恐かった。ルタがいなくなってしまうのが。視線を戻すのに時間がかかる。具体的にどうすれば良いのかなんて、分からなかった。ルタが背負っている二千年。ずっと傍にいたけれど、ずっと見てきたけれど、ルタはいつもルディの何歩も前にいる。届きそうで届かない。ルディがその視線を戻す。
ルカをしっかりと抱きしめているルタが、瞬きもせずにルディを真っ直ぐ見つめていた。
「ルディは、頑張ってくれていますわ。でも、…………無理だけはしないでくださいね」
沈黙の後に続いたルタの言葉がわずかに揺れ、伏せられた瞳にルタの長い睫毛が影を作った。
ごめんなさい。わたくしには、もうあなたを護れるほどの強さはないのかもしれません。
ルタの中で痞えた言葉に代わり、光るものが一筋こぼれ、流れる。ルディはそれに気付かない振りをして、静かに同じ言葉を繰り返した。
「……ルタも、これ以上無理はしないで……」
目を伏せたままのルタが寄り添う先には、雪解けの春を彷彿させるようなただ温かなルディがいる。
ルカはすっかり眠りの中。暖かな春の夢を見ながら、ぐっすりと眠っていた。














