ふたりの母
薔薇のつぼみが少しずつ大きくなってきていた。そして、アースがそこにお手製の長椅子を置いたのは、二年前のことだった。木肌そのままの簡易的な長椅子だったが、どこかぬくもりを感じられ、どこかアースらしいどっしりとした構えの椅子だった。婚礼が終わり、まだときわの森が荒れていない頃だ。去年まで、アースがここによく座り、ルカのよちよち歩きやつかまり立ちを見守ってくれていたものだった。
ルタはそこでルカとミモナとモアナ姉妹が走り回って遊んでいる姿を眺めていた。
現在アイアイアへ向かっているルディは、帰って来次第、アノールと共にリディアスへあの男を迎えに行くこととなるだろう。リディアスを説得できなければ、おそらく、あの男がリディアスに関わっていようといまいと、処刑されるであろうことは誰が見ても明白だ。
あの春分祭はリディアスの春を祝う会。主催は挨拶だけだと言っても国王なのだ。そして、その手配はすべて皇后自らがしている。いわば、皇后が気に入った者があの会に招待されているのである。もちろん、余程のことがなければ、招待者が大きく代わることはないだろうが、今年ルディとルタが招待されたということは、皇后アリサの目に止まったとも言えるのである。
そして、そんな客を毒殺しようとした。
それだけで、泥を塗られたと考えて良い。
ただ、アノールとルディがいれば説得は可能とルタは思っていた。アノールは飄々としながらも周りをよく見て行動できる領主であり、退き時と責め時を見誤らない。ルディは無意識ながら、相手の『次手』を読み取るのが上手であるから、心配はしていない。
そして、ルタ自身、頭では全部理解して、自分がどう動けば良いのかの想像もできる。
あの男がディアトーラに連れてこられ、口を割るまでここに住むことになる。領主館はそんな役目もあるのだから、特例ということでもない。しかし、身元の分からない旅人を泊めるという訳ではないから、何か仕事を与えるかもしれない。領主館の門は閉められるかもしれない。
そうすれば、今走り回っているミモナもモアナも、牛乳を持ってきてくれているテオも、卵を持ってきてくれるクミィも自由に入ってくることが出来なくなる。
本来魔女を町に侵入させないために存在する鉄柵の錠が下ろされる。中にある者を逃がさないために門が閉まる。魔女以外に使われるのは前代未聞かもしれないが、ルタにとってその男は、何かを奪っていく魔女と同じにしか、今は思えない。
しかし、そんな風に感じてしまうことは、ここを護る者として間違っているとしか思えないのだ。
ルタはどことなく晴れない気持ちをディアトーラの空に映した。薄い灰がかかったような空。そもそも晴れ渡る空なんてほぼ望めないディアトーラが、リディアスのような日射しに恵まれる春になることはない。
はたと長椅子の背後にセシルの気配をルタは感じた。フィグが調理を代わってくれたのかもしれない。ルタは自分が必要以上に庇われていることに胸を痛め、罪悪感を募らせてしまう。ディアトーラに戻ってからそれは雪のように静かに降り積もり、溶けることなく重く伸しかかってきている。
フィグだって大きなお腹を抱えて大変だろうに、何も言わずに手伝ってくれている。それなのに、動けるはずのルタが動けない。動こうとしたが、家内の慣れた仕事でさえ捗らないのだ。
今のルタは何の役にも立てていない。
「まだ肌寒いでしょうに」
そう言うとセシルはルタに肩掛けを掛けて、自分はその横に座った。ルタはセシルに掛けてもらった肩掛けを胸元で合わせて、ぼそりと呟く。
「どうして怒らないのですか?」
その言葉にセシルは意外そうにした。セシルの中に『怒る』という感情が全く湧いてこなかったからだ。
「どうして怒るのですか?」
だから、セシルはルタに尋ねた。ルタは考えるようにして目を伏せ、その答えをセシルに伝える。
「今のわたくしは、何も出来ておりません。それに、セシルにとっても大切だった者を……護れませんでした」
そこまで言葉にしたルタは、再び考えるようにして口を噤んだ。
セシルはそのルタの様子から何をセシルが怒らなければならないのかを悟った。そして、自分はなんて考えの及ばない人間なのだろうと悲しくなった。だから、努めて淡々とルタに答えた。
「一番苦しんだのはルタ様だろうと思えるからです。これ以上の責めを負う必要はありません。それに、ディアトーラでの『死』は変遷を意味します。ここではないどこかで、きっと」
ルタももちろん知っていることだ。しかし、セシルはわざと言葉にする。
「生者の行列を見終えた死者は安心しして、灯火の道を通り命の泉へと還っていくのです」
世界すべてを書き換えた魔女であるワカバやトーラ自身は、そのすべてを記憶している。消し去った過去も泉の底へ沈めているだけであり、望まれれば甦らせることが出来る者たちである。
ルタなら望めば叶えられるかもしれない。ワカバなら上手く過去を変えて、叶えてくれるかもしれない。
だけど、すべてを望み通りに変えられる魔女達は、その流れ込む記憶に耐えられなくなる。
過去がぶつかり合えば、何かが失われるから。それが誰かの大切な時間であるということを知っているから、魔女は望めない。過去の魔女達は、少なくともそうだった。
実際、コラクーウンがそんなことまで思ってトーラを産みだしたのかどうかは、分からない。しかし、ディアトーラの聖書では、そう解釈されている。
だから「求めてはならない」と説く。
これも初代領主夫人のルカが関わっているのかもしれない。
だから、セシルは聖書の言葉を読んだだけだ。しかし、ルタの中ではそれはおとぎ話でも伝承でもなく、実感として頭に思い浮かべることが出来るのだ。どちらかと言えば、そちらの方が長くルタにとっての現実だったのだから。
「ルタ様」
その声にセシルを見遣る。セシルが心配そうにルタを眺めていた。これ以上、どうしようもないこんなことで塞ぎ込んでいるわけにはいかない。
「もう大丈夫ですから」
だけど、セシルはさらに心配する。
「本当に、ですか?」
「えぇ、本当に。セシルは優しいお母さんをしてくれましたわ。だから、一つだけ泣き言を言ってもよろしいですか? 気に障るかもしれませんけれど……」
ルタは無表情だった。だから、セシルは続く言葉を待った。吐き出したい言葉が一つでも吐き出せるのであれば、それでいいと思った。
「どうしてもルディに伝えられなかったのです。魔女の子であるということが、この世界でどういう未来を持つのか、分からなくなったのです。それが、良かったのか悪かったのか、今でも分かりません」
良かったのか悪かったのか、セシルにもその答えは分からなかった。ルディがあの罪人をまだ人として見ていられるのは、その事実を知らなかったからかもしれない。もし知っていたとしても、冷静に考えられたかもしれない。
でも、泣くことなんてないだろうと思っていたルタがあの時、耐えられないくらいに悲しんだことは確かで、今も出来るならルディと話したくないと言うルタがいるのも確かだ。それに、結果に対する良い悪いはセシルには決められない。しかし、母としての答えは一つ知っていた。
「ルタ様。ルタ様は人間ですよ。……それに、例え生まれてくる子が『魔女』であったとしても、ルディがそれを拒むとは思えません。だから、もっと頼りにしてあげてください。これはルディの母からのお願いです」
セシルはそう言うと、ルタと同じ者たち、きゃきゃと笑うルカと姉妹を眺めた。














