ラルーとルタ
朝起きるとルディの姿はもう既になく、代わりにセシルが悲愴な顔をしてルタの部屋へ入ってきた。
「ルタ様……」
呟いたセシルの祖母譲りの黒髪には白いものが目立ちはじめ、寝不足だろうその青い目の下は隈が表われていた。
「ルタ様……」
ルタと視線が合ったセシルはもう一度、今度はルタに聞こえるように呼びかけた。
「心配しましたの。だって、カズから連絡をもらって、ここに来るのに手間が掛って、一刻も早くそばに駆けつけたかったのに」
セシルはくずおれるようにして、ルタのそばに駆け寄ってきた。
「心配かけましたね」
ルタ自身が回復してきて、やっと調和薬本来の効き目が出始めたのかもしれない。ふと自身の首に手をやり、思った。その首にはまだ包帯が巻かれてあるが、声はいつも通りに出すことができた。
「ルタ様、違うんです。そうじゃなくて」
セシルは慌ただしくルタの手を握ると「そうじゃなくて、ルタ様にそんなお顔をさせるために来たんじゃなくて……」と続けた。
「わたしは、ルタ様がラルー様でいらっしゃった頃からよく存じております。だから、出来事に関しては何の心配もしておりません。ルタ様のことですから、ご自身の身の守り方はよく考えた上での行動だったと思うのです」
セシルは力強くルタの瞳を見つめた。
「医者から全部聞いて参りました。ルディは知らないはずです。でも、わたしが事情を知っていると知ると、言ってくれましたから。かなり強い毒だったこと。調和薬も飲んでいらっしゃったとのこと。それは、春分祭で振る舞われる飲み物を断れないからの対策でもあったのですよね? だけど、わたしだって同じ場所にいて、アノールが狙われると感じる出来事を知ってしまったなら、同じことをしたことでしょう。今の世で様々な国との関係を考えれば、一国を支える者が突然いなくなるという混乱を避けたいものですから。それに、いくらルタ様が調合した調和薬を飲んでいたとしても、ルタ様のように目を覚ますことはなかったかもしれません」
まだ、新しい国王アルバートの足元が盤石ではない今、そして、アルバートの治めるリディアスがどのように動くのか分からない今、元首ではないとはいえ、それに準ずる者の喪失は、国にとっての痛みでしかない。そして、セシルはラルーだった頃のルタを知っている。ラルーが持つ逸話も自身の記憶として持っているものさえあるのだ。
トーラを護るためにだけ、トーラを陰に隠すためだけに、常に表に立っていたラルーを、よく知っているのだ。
魔女を疎ましく思うその国、現エリツェリは、ラルーに毒を盛ろうとし、その不死に怯える結果になった。毒を飲み干し、さらに微笑みを浮かべ、歩み寄り、警護に入った衛兵を打ちのめしたラルーが、王の前へ立ちはだかった。
「陛下? わたくしは常日頃から、無駄に命を奪いたくないと思っておりますの。魔女を疎ましく、怖がられるのは自由ですが、人間を殺すために生成されたような毒で、わたくしを葬ろうだなんて甘いと思いませんでしたの?」
わたくしがいなくなったからといって、トーラが人間の手に渡ることはもうない。今のワカバはそんなに弱くありません。
「さて、そんな陛下にお尋ねしたきことがあります。この晩餐会に招かれ、毒を盛られたわたくしは、それほど失礼なことを致しましたでしょうか?」
彼の王は苦し紛れにこう言った。
「魔女であること、それだけで充分ではないのか」
『招待した魔女』に『毒を盛った王』それが各国の重鎮に広がった晩餐会。ラルーを庇う者はいなかった。しかし、この国の王は『招待客』に『毒』を盛り、殺そうとした。今回はそれが『魔女』であっただけである。
これが百年前ならまかり通っていたのだろうが、そんな時代錯誤は国の歪みしか生み出さなかった。
彼の王が治めた国は混乱の後にやっと国の盟主たる人物を立てることが出来、なんとか国を建て直した。それが、隣国の現エリツェリだった。手助けはしたが、積極的な手助けはディアトーラには出来なかった。今も彼の王の行方は分からない。生きていれば、アースとそれほど変わらない年齢にはなっている。
なんと言ってもラルー様であった頃は心臓を抉り出さなければ、死なないとさえされていたくらいだ。死ななかったのか、死ねなかったのか、それはなんとも言えない。
さらに、小さなところでは、進級試験前、セシルが学友からお腹を下す薬入りのお菓子をもらった時も、ラルーは言った。
「セシル? たとえば何をしても角が立つ場合、何もなかったかのごとく振る舞えるのならば、面白いと思いません?」
その時はセシルがリディアスへの進学を決めた次の日にラルーがお守り代わりにとくれた調和薬が役に立った。
目の前で調和薬入りの紅茶を飲み、他愛のないおしゃべりをしながら、焼き菓子を食べてやった。あまりにも平気に食べるものだから、その中の一人が食べさせられて、トイレに籠もった。
次の日も平気な顔で進級試験を受けてやった。確かにちょっと面白かった。ディアトーラの魔女だなんだと言われても、負けない力があれば、気にする必要がないと思えた。セシルは本物の魔女であるラルーに助けられ、人間である子息令嬢に毒といってもいいものを盛られた。何を信用すべきかは、言わずと知れる。
その日以降、本当に魔女なんだわ、そんな囁きは気にならなくなった。
そう、だから、ルタがこんな表情でセシルを迎えることは、ルディに素直に謝ったということは、……。
セシルはルタから視線を外すと大きく深呼吸をして、その両手でルタの手を包んだ。そして、努めて明るく振る舞う。
「ルタ様が何も伝えたくないというのであれば、それでいいのです。だけど、わたしはルディに憤慨しているのです。もっと優しい子に育てたはずだったのですけど、感謝の意も伝えずに、ただ己の気持ちばかりで」
「でも、ルディは付き添ってくれていましたわよ」
ルタが目を覚ますまで、丸一日あったようだ。だから、ルディはそれまでずっとルタの傍でルタを見守っていたのだ。それに、感情をぶつけられた覚えもない。感情をぶつけているのだとすれば、今のセシルの方だ。
「当たり前です。己の観察眼が弱いために起きたことでしょう? ルタ様にこんな辛い思いをさせたなんて露も思っていないのでしょう。だいたい、元より、気遣いが少し足りないと思っていたのです。夜遅くまで『碁』に付き合わせたり、自分で解決せねばならぬことをルタ様に尋ねたりと。家内は家内で忙しいのに、本当に」
セシルはいつの間にか立ち上がり、一人で漫談を続けていた。いったい何がセシルの逆鱗に触れているのかさっぱりだった。
「だいたい、一番傍にいるはずのルディが、ルタ様の様子の変化に気付いてあげなくちゃならないのに。一番大切にしなければならない妻をこんな思いにさせるだなんて、夫失格だと思いません?」
失格という言葉を聞いて、さすがに庇いたくなった。
「セシル? 碁を打つのはわたくしも嫌いじゃありませんし、相談といっても、実際に出向いて交渉してくるのはルディ自身ですし……確かに碁を打つのは弱いですけど、勝負にならないわけでもありませんし、その点で言えば、ワカバの方が弱くて、……それに、わたくし、一人でも全然平気ですわ」
ルディはルタのことをよく考えて、勝手に悩んでいる。おそらく、それはルタのためになのだ。失格と言っては、あまりにも可哀想な気がしてしまう。
それに眠たくなったら、勘づかれないようにちゃんとルディを勝たせるようにしているし……。だから、何も問題ないはずなのだ。
「いいえ。あの子は何も分かってないのです」
しかし、セシルが言い切った。
「ルタ様が何に悲しんでおられるのか。ルタ様がどれだけ傷ついておられるのか、そして、どれだけお優しいのか」
「セシル?」
なぜかセシルが泣き出す。よく分からないが、癇癪というものだろうか、そんな思いを胸に、ルタは重い身体をゆっくりと起こして、セシルと向き合った。セシルは真剣そのものだ。
「でも、ルディはちゃんと踏みとどまったのでしょう?」
ルディから死の臭いはしなかった。だから、殺していない。だとすれば、あの男はたった一つの手がかりとして、生かしておかなければならない。
「えぇ。だけど、ルタ様は人間なのですよ。魔女の頃と同じように不死ではないのですよ。限られた時間しかないのですよ。同じなのです。でも、ルタ様はまだどこかで、違うと感じられている。我慢なさる。今だって、わたしのために身体を起こそうとする。だから、わたしが代わりに怒っているのです」
そして、その怒りがルタへと向かった。
「ルタ様、人間とは愚かで弱く、そして強か。ラルー様が仰ったお言葉です。ルタ様は人間です。だから、どうかいくら自分をお責めになったとしても、強かさがあるのですから。人間は、強かに生きていけるのです。ルタ様はまだお若いのですから」
あぁ、セシルが森の女神さまの大切な木を傷つけた時の言葉だ。
ルタは思った。
「励ましてくれているのですね」
「違います。怒っているのです……ルタ様が泣けないこの立場にしてしまったことに」
セシルの言葉はあちらこちらに彷徨い歩く。
「セシルは優しい子ですものね」
ルタが柔らかく両手を広げるとセシルはその膝に顔を伏して、声を上げて泣き始めた。温かい重みがあった。ルタはその頭にそっと手を載せる。
「今は、代わりに泣いてくれているのですね」
「ルタ様……どうして、わたししか泣けないの……」
セシルの頭は形のいい丸をしていて、白髪が交じり始めていても、その髪は艶やかだった。その髪の流れに沿って、ルタはゆっくりセシルを撫でる。セシルは、ルタを心配してくれているのだ。おそらく、セシルはルタが何を失ったのかも理解している。だから、怒って泣いている。色々な意味があるのかもしれない。いや、本当にルタが出来ないことを示してくれているだけかもしれない。
だって、セシルはこんなにも温かい。
「ありがとう……わたくしは人間で……」
それなのに、感謝の言葉が喉に詰まった。
――わたくしは、人間で、愚かで……セシルのように泣くことも出来ない。
――セシルはわたくしの代わりに、泣いて怒って、……。
――怒りは分かる……でも、どうして、セシルはこんなに悲しいの? ……。
――どうして、『ルタ』のために泣くの?
そして、喉の奥に詰まってしまった塊が溶けて流れるかのようにして、涙が頬に流れる。止められなかった。
「セシル……どうしましょう……」
どうすれば良いのか分からなくなった。その声に起き上がるセシルがぐしゃぐしゃの顔で、ルタの顔を見て、くしゃりと微笑み、その肩を抱きしめた。
「悲しい時は涙が出るものです。どうしようもないのです。だから、泣いていいのです」
涙が止まらない。どうすれば良いのか分からない。抱き留められている身体も震えてくる。だけど、セシルはそれで良いと言う。ルタはその両手をセシルの背中に回し抱きしめるしかできない。
「ルタ様が泣き止むまでちゃんとお母さんします。だから、大丈夫ですから。恐れや恐怖も後悔も全部、大丈夫ですから。大切な娘のことはすべて受け止められるのがお母さんですから」
セシルがお母さん。不思議な気持ちだった。だけど、セシルは温かくてルタをどんどん溶かしていく。涙は止まらないし、心も止まらない。失ったものの大きさは知っているつもりだった。知っていたはず。知らなかったわけではない。冷静に状況を整理して、感情を抑えて、ディアトーラにとって今何が大切なのかを導き出して、最善を尽くした。理解して行動した。だから、涙が出る理由が分からない。
「間違って、……とんでもないことを……したのでしょうか」
ワカバは泣き虫でよく泣いていた。ワカバが泣く時、それはどうしようもないことなのだと諭した。しかし、やっぱりよく分からないのだ。どうしようもないこと。起きてしまったのだから。だけど、どうして、止まらないのだろう。
「違います。ルタ様は間違った行動をしたわけではありません。だけど、ルタ様は人間なのです。愚かで強かな生き物なのです。だから、本当はご自身を責めるだけではなくて、何にも分かっていないルディに感情をぶつけて良かったのです。だから、今はたくさん泣くべきなのです。今はいいのです」
そう、ルタはまだ人間としては未熟なのだ。自身の悲しみにすら気付くことができない。自身が望む未来にすら気付くことが出来ない。
「でも……ルカがいます。だから、決してルディには伝えられません」
セシルは母親らしくルタの後頭部に手を宛がう。
「心配なさらないで。それは、今はもうできないことですもの……」
そう、セシルはルディの母親でもある。ルディが踏みとどまったのは、ルタのためのはずなのだ。それを無碍にはできない。そして、ルタもセシルも幼いルカが晒し者になることを恐れている。
手がかりの男はルディにとって真実『未遂』のままでないといけないのだ。だから、この悲しみのすべてが無駄に終わってはいけない。
何もできないセシルはただ寄り添いたいと、ルタを抱きしめるばかりだった。














