烏合
ルタの瞳に映ったのは慌てるルディの姿。だけど激しい吐き気と、その咳き込みでその姿も目に留めておけなくなった。喉が焼ける。息をしようとして痞える。僅かな酸素だけが肺に流れ込む。
これでも、きっと、調和薬が効いているのだろう……。
ルタはそれでやっと命を繋いでいる。
なんて脆い身体なのだろう……。身体の末端が冷えていく。それなのに、体中に炎が走り、体を焼いていく。焼けただれた場所が感覚を麻痺させ、殺していく。
失われてしまう……。
失いたくない。それなのに、全身の痺れにルタの身体は自由にならなかった。熱いのに寒い。震えはいったい何から呼び起こされているのだろう。
喉を掻きむしり、そこから酸素を入れたくなる。視界が、曇る。聴覚はまるで洞窟奥深くにあるよう。鳴り止まない共鳴に耳を塞ぎたくもなる。
ルディが何か叫んでいる。ふと、凍える掌に熱を感じる。身体が宙に浮く。しかし、微かに見えるその顔はルディではなかった。
「奥様っ」
カズだった。ルディは……。ルディの叫びを思い出す。『逃げるな』と。ルディは、そう叫んでいた。おそらく、気付いてはくれたのだろう。しかし……。ルディを一人にしてはいけない。
カズが何か言っている。だけど、聞き取れない。お願い、どうか。
「ルディに、人を殺させてはなりません……」
息のような声しか出ない。しかし、ルタはそれでもはっきりとその言葉をカズに伝えた。しかし、動かないカズに、ルタはもう一度、出るかどうか分からない声を絞り出した。
「行って。お願い」
何もなければそれで良い。そう思っていた。それなのに、神様はそれを杞憂にはしてくれなかった。
ルタの意識が閉じられた。
祝杯に歓声を上げていた人々は一つの悲鳴でその異常に気が付いた。悲鳴を上げたのは、ちょうどルタの隣にいた夫人だった。夫人がその夫にしがみつく。そして、さざ波が広がるようにして、その緊迫が広がっていく。しかし、誰も近づこうとはしない。魔女が倒れた。病気かしら? 貧血かもしれない。慣れない場所に来るから。
誰もがそれを穢れだと思った。こんなハレの日に。全く人騒がせな。
しかし、最初の夫人が言う。
祝い酒を飲んだ後に倒れたの、と。
人々は我が身を心配した。自分の喉を押さえ、自身の異常を探る。中には本当に貧血を起こしてしまい、座り込むご婦人もいた。「誰か、このご婦人を医務室へ」と叫ぶ声がする。
しかし、誰もルタに関わろうとはしなかった。関わることを恐れた。
魔女だから……。
魔女だから……?
誰もがルタが魔女だから倒れただなんて、本当は思っていない。
魔女は、毒をものともしない者なのだから。
いや、祝い酒は清められたものだから。
魔女は、不浄の者だから……。
そんな者が、清められたものに触れたから……。
誰もが現実を現実として受け入れない準備を始めた。
「どいてくれないか」
低い声がその拒絶を夜の海に沈めながら、現実を漕いでくる。たった一人で、その事実に向き合う。
盛られたのか、服毒したのか、まだ分からない。祝い酒を飲んだ婦人がひとり倒れた。その症状から、毒ではないのかという憶測だけが立てられる。
そして、それは親友の大切にしている妻だ。
事実はそれだけだ。
ほんの数分間の出来事だった。
「カズ殿」
ルタを託されたカズの隣にタミルがいた。魔女に近づきたくない者たちの中、タミルだけが、カズに声を掛ける。そして、ルタの青い唇がもう一度動く。
行って、と。
動かなくなってきているルタを見つめたまま、やはりカズは動けない。
「ルタ殿は私が預かりましょう。尊敬すべき主の命は従者にとって絶対ですぞ」
それでも、決断できないカズに、タミルが続けた。
「医務室には伝えさせております。もう直に現われるでしょう。ですので」
「…………分かりました。ルタ様を、よろしくお願いいたします」
一瞬の逡巡のあと、決断を下したカズの動きは早かった。
乾杯の音頭。遠くから眺めていた男は思った。仇を討つんだ。そんな言葉が頭の中を走り巡る。
それなのに、なぜ、……。
男の足はガクガクと震えた。
なぜ……。
倒れる前の漆黒の瞳が、彼の周りを闇へと変えた。一歩退く。それでも、どこまでも闇は続く。
悲鳴が、どよめきが、男をその会場からまるで波のようにして、押し流そうとする。耐えられない。ここに、いては、ならない。
「ちが……うんだ」
烏合の衆に呑まれているはずのディアトーラ領主の視線が真っ直ぐに。
「ちが……う」
その眼光が、突き刺さる。
見つかった……。
それは、絶望だった。すべての景色が真っ黒に塗りつぶされる。ただ、あの男の深く蒼い瞳が、鮮やかに脳裏に刻まれる。海の底に引き込まれる……。息が……。
男は空気を求め、喘いだ。
そして、ただただ、息ができる場所を求め、逃げたのだ。
ルディがいたのは鉄壁で有名なリディアス城壁を抜ける少し手前だった。門には衛兵がいただろうから、それを避けて逃げたのだろうが、悪党はお粗末な袋小路に掴まったのだ。
男はちょうど城壁の角に追い込まれ、その壁に背を付けて倒れ込んでいた。およそ人を殺そうなんて考えないだろう、気の弱そうな男が泡を吹いて、気を失っている。踏みつけるくらいはしたのかもしれない。
いや、片手でも、このくらいの体躯の者なら片手で吊し上げていたとしても、おかしくないし、もしかしたら、その威圧だけで勝手に気を失ってしまった、とも考えられる。
あの時のルディは、それくらいおかしかった。
ルディの手にある剣が折れていた。そして、立ち止まったカズの足元に、折れた剣先があった。だから、カズはルディよりも少し距離のあるここで立ち止まったのだ。ルディの持つ剣は決して上等なものではない。しかし、人を殺すには充分な焼きは入っている。男の背後にある壁にぶつけて、たたき折ったのだ。しかし、違和感がある。そうだ。その剣はルディの手になかったのだ。だから、あれはルディの剣ではない。誰かが、ここに来るまでのどこかで……。
カズはゆっくりとルディに近づく。警戒ではなく、カズはルディの状態を窺うようにして、声を掛ける機会を探していた。しかし、ルディはカズの思いに反して、冷静な声でカズを迎えた。
「気付いた?」
「あぁ」
カズの沈黙にルディが声を出す。
「あの男を一瞬見失ったんだ。その時、これを僕にくれて、行き先を教えた奴がいる。頭に血が上っていてあんまり覚えてないし、受け取ってしまうなんて本当に情けない……」
「仕方ないさ」
しかし、カズは思い出す。ルタが倒れて、逃げる男を一縷の迷いもなく追いかけたルディの瞳には、氷のような炎があったことを。それは魔獣に通じるような、真っ直ぐな。そして、本能に忠実な殺意に思えたのだ。そして、ルディの自嘲するような声なき笑いが沈黙に響くと、さらにその沈黙が深まる。
「この剣、調べてくれる? 一応鍛えてあったと思うから、工房くらいは分かると思う」
「あぁ、わかった……」
それにしても、いったいどれだけの力で剣を叩きつけたのだろう。よく見れば、悪党の背後にある石の壁がえぐれている。面にして打ち付けたのならばあんな傷跡は残らない。最初は、確実に殺意があったのだ。
「なぁ、ルディ、腕大丈夫なのか?」
今は力なく垂れ下がっているだけの右腕の具合が気になる。
「こうしないと、殺してしまいそうだった……ごめん、折っちゃった。大事な証拠になるのに……」
ルディは自分の腕のことは語らなかった。
「ルタ様は、大丈夫だよ。バーグ様が医務室の者を連れてきてくれた」
実際カズにはルタが本当に大丈夫だったのかなんて、そう信じていたいだけで、分からなかった。しかし、その言葉にやっとルディの身体に血が通ったように思えたのは確かだ。
「……タミルなら、安心だ」
ルディの声は、やはり冷静だった。しかし、カズにはそれも冷静とは取れなかった。装っている、そんな風にしか思えないのだ。
――こうしないと、殺してしまいそうだった。
ルディの脳裏に過ぎったのは、やはり自分の国だったのだろう。どこにも属することのない小さな国。ただ、魔女の威信を信じて守り続ける弱き国。ボタンをたった一つ掛け間違えるだけで、すぐに消えてしまうようなディアトーラ。
「なぁ、ルディ」
何か気の利いた言葉をかけたかったが、カズは彼の名を呼ぶくらいしかできない。そして、きっとルディはそれに答えてくれる。なぜかそんな甘えのような予測までしてしまう。そして、案の定、ルディが大きな息を吐き出して、カズに話しかけてくれた。
「一瞬ね、刺されば良いと思った」
「良いんじゃない? 思うくらい。だけど、お前に刺さることもあるんだから」
「別に構わないし。それに、力の加わる方向が分かってるから、しなりの強さも伝わってくるし、こっちに来ないことは分かってた……でも、やっぱり浅はかだよね。カズが少し早くここに駆けつけていたら、カズに刺さってたかもしれないんだから。あ、壁も。修繕どれくらいかかるかな……」
「そんな鈍くさいことはしないし、そのくらいの傷なら、蓄えでなんとかなる。こいつは俺が連れて行くから。だから、お前はルタ様のところへ行け。きっとリディアスの医者が診てくれてるから」
「……いつも僕が護られるんだ……」
それは、まるでどうして自分が領主の息子としてあるのかを呟くようだった。
「それは、ディアトーラの民すべてが、次期領主がお前であることを心より願ってるから……。だから、……」
カズはそう言って胸が苦しくなるのを感じた。違うと思った。今は違う。護られて当たり前の存在であることを認識させることではない。だから、繋いだ。
「……。あのさ、俺はお前よりも頭が悪いし、考えも浅いから、きっと、お前みたいに踏みとどまらなかったと思う。だけど、だから、お前は確実にルタ様を護ったんだよ」
たとえば、ここでこの悪党を斬り殺していたとして。
たとえば、こちらに落ち度がなくても、魔女に現を抜かした、気の触れたディアトーラ嫡男と取り沙汰されて。魔女を妻にした時点でルディは恰好のゴシップ素材であるのは確かなのだ。
今回のことではルディに咎めは下りないだろう。しかし、やっとルタが魔女のルタではなく、領主跡目夫人のルタとなりつつある今。ルディが一生懸命に各国に印象づけてきたすべてが水の泡となり消え去ってしまう。
将来ルディが領主としてディアトーラを支えるようになった時に、何かを決断する際に、その過去が邪魔をする。
ルタがその身を呈してルディの立場と存在を護ったように、ルディもまたルタの存在を護り、護ってきたのだ。
「ありがとう。だけど、足りない…………ごめん、任せる。ルタの様子、見てくる……」
やるせない思いがルディの微笑みを曇らせているのは、確かだった。
「春分祭にて」【了】














