森は静かに
ときわの森はとても静かだった。すべてが眠ってしまったかのように、息を潜めるように。
木々は時に風に揺れ、重たくなった綿帽子を白い大地に沈めた。そんな重みはずんと沈み、白い大地に深い穴を開け、雪の深さを知らしめる。だが、しばらくすれば、その穴も直に塞がるだろう。
夜には再び雪になり、その白い大地を深めていくから。
しんしんという音が聞こえてくるほどに静かな夜。
そこには、静寂があった。誰もが冒すことのできないほどの、静寂だった。
冷たい月明かりが雪の晴れ間に射し込んだ。
その一時の晴れ間は、しんとした雪の音をも吸い込む。耳が痛くなるほどの静寂が走った。
月明かりが映し出したのは、小さな少女。銀色の月明かりを吸い込む金色の長い髪を持ち、雪と同じくらいに白い肌を寒さに曝け出しているその少女は、異質だった。
彼女は森の奥の一角に立ち、その白い大地深くを考える。冷たく冷たく、いずれ溶けてなくなる白きもの。それでも黒い大地を凍てつかせ、命を眠りに就かせ、それでも足りずに降り続ける雪を、見上げた。
視界が暗くなる。
束の間、姿を見せた月が隠れたのだ。
彼女の持つ緑の瞳だけが、夜闇に光る。
ほぅ、と息を吐き出し、森と人間の生きる境界へ。
彼女の歩く後に足跡はなく、彼女の見つめる先には、明るい窓辺があった。
温かな色を持つ光が窓から漏れてくる。それは、裏切りのような色を持っている。彼女にはそんな風に感じられた。あの光は、温かい。今、彼女の立つ場所は凍てつく程に寒い。
いったいどうして、こんなにも遠くなってしまったのだろう。
いったいどうして、……。
裏切ったの? 裏切られたの?
彼女の持つ深緑のその瞳は、すべてのものを凍らせてしまうほどの冷たい光を帯びて、閉じられることなくその一点を見つめていた。
「どうしたの?」
ルディの横で一緒にルカの寝顔を見ていたルタが、急に立ち上がり窓辺へと走り寄ったのだ。さらに窓を開け、乗り出すようにして身を投げ出す。外気は冷たくすべてを凍てつかせる。ルディはルタの異様に、異常を感じざるを得なかった。
「魔獣?」
しかし、ルタにルディの声は届かなかった。仕方ないので、ルディはルカが風邪を引かないように上掛けをしっかり掛けた。先ほどまで「いっしょ~、あそぶっ。いや~、ねんねない〜!あっちって。いっしょ~。あぁちゃ~、おぉちゃ~、あっこ~」とぐずっていたのが嘘のようだ。ルカはベッドでぐっすりと満足そうな寝顔をルディに見せていた。そしてもう一度、ルディは声を掛ける。
「ルタ?」
「……いいえ。気のせいだったのかもしれません」
気のせいじゃない、とルタは思っていた。しかし、目をどれだけ凝らそうと、どれだけ、耳を澄まそうと何もいなかった。そこには僅かに吹雪く粉雪と、その風に舞い上がる雪景色のみが広がる世界だった。
「何もいませんでしたわ」
外気の寒さに気付いたルタが、静かに窓を閉め、眠るルカを気遣った。
「ごめんなさい、ルカ、起きてません?」
「大丈夫。ぐっすり寝てるし、上掛けも蹴り飛ばしてないし」
ルタの声に答えるのは、ルカの傍に座り、そっとその上下する胸を撫でているルディだった。
「良かったですわ」
そう言いながらもルタはまだ窓の外から目を離せずにいた。
気のせいじゃない……。
ルディと話ながらも、そんな感覚にルタは取り憑かれる。もしかしたら、視線を外したその隙に現われるかもしれない、恐れと期待が入り交じるそんな思いが、視線を窓から戻させないのだ。
「ルタ?」
そんなルタを心配したルディが彼女を呼び戻そうと再び声を掛けた。しかし、ルタはルディに僅かな視線をくれただけで、まだ意識は外にあるようだ。
「これから、吹雪くのでしょうね」
「そうだね。冬の本番はこれからだから」
ルディはただルタに合わせて答えることに努める。ルタも感じた不穏をルディに気付かれないように、先ほどアノールから聞いたばかりの話題へと会話を向けた。
「それにしても、リディアスが春分祭に招待くださるとは、思いもよりませんでしたわ」
「そう?」
ルディは嬉しそうにしていた。
「きっともう魔女だなんて言って騒がない気なんじゃない? 時代錯誤だしさ」
「そうであれば良いのですけど……」
それでもルタは心配の表情を浮かべた。
「だから、心配ないって」
ルディが気楽に言うのは、ルタを思ってのことである。ルディは時々、ルタがそのままときわの森へ戻ってしまうのではないかと不安になる。だから、こちらへ引き留めておきたい。
もちろん、ルディのそんな心の内なんて、ルタは全く知らないし、ルタがそれを知っていても「そんなことはない」と言うだけだろうけど。
これ以上窓の外ばかり気にしてもいられないと感じたルタは、後ろ髪を引かれる思いで、窓から視線を外した。ルディは眠っているルカに視線を落としながら、やはりその胸を上掛けの上から優しく撫でていた。
「そうですわね」
心配ないとルタもそう思いたい。森も春分祭も。
そして、懸命に春分祭への不安因子を思い出そうとルタは努める。森に関しては、ルディは関係ないかもしれないのだから。
『ルタ』を知らない若い者たちが集まる中、恐ろしい魔女だと周知されれば、ディアトーラにとってそれは致命的な状態に成り得る。
確かにルタ自身は何を言われようが、どんなことが周知されようが大丈夫だと思う。
いくら魔女だと言われようとも、それは事実だったわけだし、今更そんなことを気にしていても仕方がないとルタは思っている。だけど、それだけではないのだ。
それが不安となって時折ルタに伸しかかってくるのだ。それは、まるで窓の外にある冬の景色のように。今、感じた殺気のように。
『ルタ』がルディやルカに雪のように伸しかかってしまうのだ。
ルディが感じられなかったのだから、もしかしたら気のせいだったのかもしれない、そう思いたくて仕方がない。
「杞憂に終われば良いのですけれど」
そのルタの言葉にルディは全く違う話題に変える。
「あ、そうだ。知ってる? この間カズが夫婦げんかしたらしいんだけど……」
ルディの声は相変わらず明るく、暖かな部屋の中に穏やかに響く。それは小さな春がどんどん広がっていくような、そんな穏やかな響きを持っているように、ルタの中に降り続ける雪を払おうとする。
「なんかね、よくよく聞くと3人目なんだって。ルカがお兄ちゃんって呼ばれるかもって思うと何だか感慨深い。それなのに、まだこんなにちっちゃい手なんだよね」
でね、カズがね……
嬉しそうなルディの声を聞き、ルタが微笑む。
カカオットを買って帰ってね。一応許してもらったんだって。
ルタは「それは良かったですわ」と言いながら、思い出したように窓を一瞥した。窓の外にあった殺気は嘘のように消え、いつもの窓辺の寒さだけが部屋の中に届いてきていた。
「おめでたいですわね」
ルタが微笑む。そして、ルディと同じようにしてベッドに頬杖を付いてルカを見つめた。その寝姿は今さっきあった殺気をすべて否定するような、そんな温かさと安らかさがある。
「ね、おめでたいでしょう。温かくて春っぽい話だなぁって。夫婦げんかは春っぽくない気もするけど。赤ちゃんの話をするカズは幸せそうでさ。欲を言えば次は男の子が良いんだって。確かに、女の子二人だもんね」
しかも双子でおんなじ顔の女の子二人。
「そうだ。ルタもルカ様と同じ顔だったの?」
ルディは思い出したように初代領主ルカを思い浮かべた。そして、ルタの表情に少し安堵する。
「いいえ、姉妹なのでどことなくは似ていたのかもしれませんけれど、わたくしたちは全く似ていない双子でしたわ。だから、選んだ道も違ったのでしょうけど。それにしても、カズもこれから大変でしょうね。何かお手伝いできることがあれば、いいのですけど。あと、春分祭に合うドレスを探しておかなければなりませんわね。心配していても始まりませんものね」
リディアスの春分祭は春と育みを感謝する日である。
自然神であるリディアの息吹が生命を育てると考えられているのだ。
新しいものが会場に集められ、新しい命として扱われる。その成長が育まれる。
だから、それぞれの春を謳うために招待客は着飾り、その花を渡る。時に香り漂う花になり、時に優雅な蝶となり、花粉を運ばせ、運んでいく。
そして、結実させる。
しかし実際は、誰もが腹に一物持っていることが多い。目に見える、美しいものばかりではない。目に見える醜さばかりでもない。今の背景がどう移り変わるのかを見極める。実権を持たない者ばかりだから、次代を築く者たちだから、すべてを排除して、その目を養わなければならない。
リディア神はそんな新たな力を求める。
ディアトーラだってそれは例外ではない。今回招待されたということは、繋がるべきものとそうでないものを見極めるために、リディアスに試されているのは明白なのだ。
ルタは国王ではなく皇后の顔を浮かべた。ルタから見たあの夫妻は表の顔がアルバートであり、アリサが裏の顔のように思えてならない。
だから、今『ルタ』に出来ることを始めるべきだと思った。
「あの、ルディにお願いがあります。ルディから見たリディアス国王夫妻についてを、聞かせてもらえませんか?」
「うん、分かった。じゃあ、ルタから見た国王夫妻も教えて」
ルカの頭を包むようにして撫でたルディは、やっと安心してそれに答えた。
冬じたく《了》














