リディアスのアノール
冬の初めの頃でも雪がうっすら積もることもあるディアトーラとは違い、リディアスは未だに暑いと言える気温である。もちろん、景色を揺らすほどの暑さはなく、運動すれば汗をかく程度の暑さには落ち着く。
列車から下りたアノールは久し振りに訪れる冬のリディアスに懐かしさという溜息をついた。とてつもなく億劫だ。既に、人の数にうんざりし始めているのだから。
気楽に歩きたいアノールは、国関係者に見つからないように仕方なく歩き出すが、駅にいる衛兵に掴まった。
アノールが立ち止まると、衛兵はすぐに敬礼し、話し出す。
「アノール様、聞いております。あの、お一人でしょうか?」
最後までとても滑舌良く喋った衛兵が、僅かにアノールから瞳を外し周りを見回す。いくら見渡しても、お一人ですから。
「一人だ」
そして、恐ろしく意外な顔をされ、服装をまじまじと見られた後、なぜか納得され、声を潜められる。
「失礼しました。お忍びの御帰省、誠にご苦労様でした」
いったいいつまでディアトーラへ渡った密偵という体裁は引き継がれるのだろう。
アノールは苦笑を浮かべ、その衛兵にアノールがディアトーラで着ていた外套と荷物を渡す。それから、密偵を丁重に扱う衛兵の後に付き、リディアスの用意した馬車が止めてある場所まで歩いた。
そもそも、首都であるゴルザムには民のために『乗り合いバス』という乗り物が走っている。確かアーシュレイ様の時代後期に、リディアス国立研究所から表に出した技術の一つなのだ。
100年以上前からあるのに、王族は未だに趣向を凝らした馬車に拘るのだ。揺れとしては同じくらいかもしれないけれど、別に危険な乗り物でもない。だから、アノールは初めその乗り合いバスで城下近くまで行き、歩いて行くと知らせていたのだ。それを、まぁ、何も言わずにこうも準備されてしまうのだ。
別に兄との仲が悪いわけではない。しかし、あの気安さのない『王族』然りの家族と話すのかと思うと、それが億劫にしか思えないのだ。
だいたいにおいて、話があると言いながら、呼びつけてくるあの神経が分からない。いや、今回に限り渡りに船ではあったのだが、とにかく、面倒くさい。
確かに、大回りをする乗り合いバスよりも、馬車で直通の方が早く城には着くのは着くのだが……。とにかく、釈然としないのだ。
馬車が静かに止まった。考え事をしているうちに、既に灰色の城壁の中に入り、何人住むんだよと思うくらいに大きなリディアス城が聳え立っていた。
衛兵から道案内が王室のものに代わり、アノールはその黒い制服について行く。王宮の中は城壁とは打って変わって、黄みがかった薄い白である鳥の子色で纏められている。そこに白い石膏の彫刻が幾つも、花瓶というより桶に近い花瓶のための大理石の台座が幾つもあり、頭上には両手を広げてもまだ足りないくらいに大きなシャンデリアがぶら下がっていた。どれも見覚えのあるものばかりだった。
床は白大理石で、赤に金の蛇唐草の絨毯が敷かれているのも変わらない。
蛇はリディアスの国獣だ。
その蛇が彫られている扉を開くと、家人用の客間となる。
「お越しになられました」
返事はないが、黒い制服の彼はその言葉の後、扉を開き、頭を下げる。
「やぁ」
にこやかなアルバートが重厚な布張りのソファの真ん中に座り、軽く手を上げるのが見えた。隣には奥方のアリサがやはりにこやかにアノールを迎えていた。
「お久しぶりです。戴冠式以来ですね」
アノールは二人に丁寧にお辞儀をしてから、部屋に入った。
「下がって良いぞ」
その声に、案内役は慇懃な態度でお辞儀をし、言葉通りに下がった。
アノールが着座を断り、彼らの対面に座るとアルバートが先に口を開いた。
「本当は服も着替えさせようかと思ったんだが、さすがに嫌がるだろうなと思って止めておいたよ」
「それは、ありがとうございます。そんなことをされていましたら、即刻ディアトーラへ戻っていましたよ。だいたい、いつまで私は密偵扱いなのですか? ご報告する内部事情も何もありませんので、本当にお暇しましょうか?」
そんなアノールの悪態に対して、言い返そうとするアルバートを窘めるかのように、いつもは口を挟まないアリサが可笑しそうに話しかけた。
「良かったですね、お帰りになられなくて」
そして、アノールに水を向ける。
「アノール様、婚礼の際にいただいたあの櫛、とても気に入っておりますわ。ルタ様のお見立てだと先の国王、アサカナからも聞き及んでおります。なんだか、髪に艶が出てきたように見えませんか?」
「皇后様は以前からお綺麗でございますよ」
アリサがころころと笑い、今度はアルバートに話しかけた。
「ほら、貴方が余計なことを仰るから、アノール様はご機嫌を損ねていらっしゃいます。お謝りくださいませ」
自慢の伴侶から責められて、不服そうな表情を浮かべながらもアルバートがアノールに謝辞を述べる。
「これは、申し訳なかった。決してディアトーラ領主殿を侮辱しようとは思っておりませぬ故、お許しいただけぬだろうか?」
『本心ではなく、言われたからだからな』が接頭語として付きそうな謝罪だ。
おそらく、アルバート自身がアノールに余計なことを言ってしまう自覚があるのだ。五つも年上のくせに、なぜか、アノールはアルバートに喧嘩を売られることが多かった。それでも、第二王子、第三王子よりは、ましなくらいではあったが。
アノールはアサカナ王の言葉を思い出していた。
『幸い伴侶にも恵まれている』
本当に良く出来た伴侶だと思う。アサカナ王は、彼女込みでのアルバートに期待したのだろう。
「そうだわ。異国のお茶を頂いたのです。お持ちしますわ」
アリサがアルバートの謝罪を聞いた後に立ち上がり、一時の退席を申し出た。その背を見送り、アルバートは示したようにアノールに言う。
「最近、お茶を淹れるのが趣味のようでね」
「良い趣味をお持ちで」
その退席理由は、あくまでも己が趣味だ。これは予定内退席。皇后自らお茶を淹れに席を立つなんて、リディアスでは考えられない。
「既に承知だとは思うのだが」
「承知となる前に教えてくださると手間が省けます」
この承知事項は二年前には所謂お膝元にあるような元首には伝えられたというものだ。確かにディアトーラに伝えても意味はないかもしれないが、伝えるつもりなら、最初から伝えて欲しいとアノールは思うのだ。
「ははは、もう怒るな。さっき謝ったんだから。それに、その承知事項でも本人から伝えられれば疑いがなくなるだろう?」
アノールはそこのところ、やはり少し末っ子でもあるのだ。自覚はあるのだが、この長男と父に対してはなぜか大人の対応をするのに時間がかかってしまう。
「戴冠記念に船を造ろうと思っている」
船を造れば、より多くの国と交流することが出来るだろう。そして、より監視出来るようになる。
「まだ国を広げるつもりなのですか?」
「いや、これ以上広げても意味はないな。必要以上を望まないのはディアトーラも同じだろう?」
そして、リディアス国王は続けた。
「どちらかと言えば、有能な者をこちらに連れてくることに意味があるのかもしれない」
遙か昔、天啓を受けた王がいたそうだ。有能な者を集めよ、と。そして、リディアスのものとしろと。
ディアトーラに婿入りし、その意味がよく分かるようになった。
トーラは過去を何も伝えないが、リディア神は過去の文明をリディア家に伝えた。そして、その技術のすべては魔女を狩るための技術として機密にすることを誓わせた。だから、国立研究所内は異界だ。その中にある技術が民のために使われることもあるが、それはよく吟味され、戴冠記念で僅かに排出されるくらい。
それでも爪の先程度も表に出ていないはずだ。
あの場所で働いていたことのある義父アースも知っている事実だろうが、一度も口にしたことがない。だから、アノールは一番遠く一番近い理由だろう質問を国王に投げた。
「魔女狩りを始めるのでしょうか?」
アルバートは既に国王の顔ではなかった。
「いや、それこそ時代錯誤だ。わざと質問を避けたな?」
「ある意味魔女狩りのようなものでしょう?」
アノールはとぼけながらも、自分の質問を肯定する。
各国にある優秀な者をかき集め、優遇する。『志ある若者に機会を』が一応のスローガンである。しかし、その国の底力をこそぎ取るために行われる、ある意味の魔女狩りなのだ。
それこそ、将来のリーダー候補となる者や、その力になる者を手懐けておくのだ。
兵として名を挙げるにはリディアスは最適で、研究に没頭したい者はここでしか出来ない研究をさせる。しかし、ここで成し遂げた研究すべては、ここに属する。
そして、他国の発展を阻むのだ。いや、それも語弊がある。監視をするためにそれなりの支援はするし、その国が彼らの持ち帰る知識で発展することもそれなりに寛容だ。
肝心なのは『それなり』ならば。リディアス国内を越えることは赦されないのだ。異界の技術は、最高機密なのだ。
「リディア神の望むところだからな。彼女を怒らせると恐ろしい。だが、ディアトーラなんてもっと酷いじゃないか?」
ここにも語弊がある気がするが、他国から見れば同じなのかもしれない。しかし、ディアトーラの魔女は『未来』を禁じてはいない。ただ、必要以上を求めるなと言うだけで。未来の姿は自分たちで想像し、歩めというだけで。
「まぁ、お喋りには魔女狩りもありなん、だろうがな」
アルバートは無邪気な笑い声を上げた。
その魔女狩りはルタのような『魔女』を指しているのではない。過去にも魔女狩りに託けて機密漏洩者への断罪が為されていたのだ。しかし、今それをすれば、悪目立ちをする気がしてならない。さすがにアノールも他人事とは思えず、眉を顰めた。
「父がお前を惜しがった理由がよく分かるよ。あの二人はその危険性に気付けないし、もし気付いていたとしてもお前のように腹に潜めない。すぐに陥れようとするからなあいつらは」
あの二人とは、第二、第三王子のことだ。考えが及ばないというよりも、そもそもの血の気が多いのだ。
「惜しがられてなんていませんよ」
呆れられていた自覚はあるけれど。
アルバートはそれ以上その話は続けず、話題を戻した。
「そろそろ頃合いだろうと思うんだ。アナケラス王の列車、祖父王のワインスレー地方への列車配備、次は……私の時代と言いたいところだが、指揮としては次期王が担うことになるとは思う。私への戴冠は遅かったからな。だから、ワインスレーの国々には造船技術者と木の提供をと伝えてある。なんせ、リディアスは良い木が育ちにくいからな」
それは、本来自然神であるリディア本体がときわの森にあるからだ。だから、リディアスは乾いている。
「うちは両方無理ですね」
アノールの即答にさすがにアルバートも苦笑いを浮かべた。
「ときわの森があるだろうが……と言いたいところだが、あの森は、リディアスにとっても特別な場所だからな。だから、ディアトーラには手に入れる『情報』を貸して欲しいと思っている」
そして、機を見計らったように、扉が叩かれる。
「お茶をお持ちしましたわ」
茶器の盆を持ったアリサが女中に扉を開いてもらって、軽く膝を折ってお辞儀をした。その横で深々と頭を下げている女中がアリサの歩みに合わせ、扉を閉める。
「このように、淹れるのですって」
アリサは二人の前に茶器の盆をおいて、そのお作法を得意気に知らせ、アルバートに続ける。
「お伝えくださいました?」
「これから伝えるよ」
あぁ、嵌めに来るな。アノールは構える。どうせ、断れないようなことを条件に出すのだろうけれど。とりあえず、どこまでなら棄てられるか、何を護り通すかを頭に描いておく。
「アリサがルタの選んだ櫛を気に入ったと言っておっただろう? 実はあのカカオットという食べものも、今リディアスの子息令嬢の間で好評でな。だから、春分祭に出そうと思っている」
まさか。
崩れそうになるアノールの相貌に気をよくしたアルバートが、してやったりの笑顔で続ける。
「ルタとルディをそこに招待しても良いかな?」
アルバートはわざわざルタの名を先に出す。
「私たちはほとんど参加できませんけれど、お店のことや店主のことを皆さんお聞きしたがっておりますの」
確かに国王は最初の挨拶をするくらいで、退席する。しかし、国王に招待されている者たちが共に『リディアスの春』を祝うものでもある。
「ご提案、喜んでお受けさせていただきます」
それは、先の情報提供の答えでもあった。
「嬉しいわ。早速招待状の準備をさせますね」
アリサが柔らかな微笑みをアノールに向ける。
「感謝申し上げます」
アノールは立ち上がり、深々と頭を下げた。
対価としては、安いくらい。むしろ、こちらに良い条件でしかない。














