海の向こうにあるような『もっと』
雨の音が聞こえる。収穫祭が終わると、ディアトーラの天気は曇り空が広がることが多くなる。そして、いつ崩れるとも分からない天気は、常に霧雨を降らせてしまうこともあった。
掃除の手を止めたセシルはその窓に流れる水滴を静かに見つめ、これからを思い耽る。以前は荒れ狂う豪雨もあったらしいが、セシルが生まれてからは穏やかな雨が多くなった。これからぐっと気温も下がる。そして、冬が訪れ、森を含めたディアトーラは雪に包まれる。
「あら、起こしてしまいました?」
「雨の音がね」
アースが柔和に笑いながら答えた。最近のアースは雨が降ると咳をし始め、寝込んでしまう。きっと寒さもあるのだろう。立ち歩いている時はそうも思わないが、頬も痩けて表情ものっぺりとして見えることが多い。今年八十四の声を聞く。元々強壮な体の持ち主だったアースだが、やはり寄る年波には勝てなかったのだろう。
「また雪の季節ですね」
「今年の雪はどれくらいだろうね」
今年も雪が降る前に、もう一度森に入り、最後の見回りを兼ねて、女神さまに豊穣のお礼を伝えにいかなければならない。
「私が行けると良いのだけれどね」
「わたしが行けるといいのです、本当は」
本当は、わたしも行けると良い、なのだ。そうすれば、ルタやルディの仕事が減るし、人手が足りずにアノールを駆り出す必要もなくなる。
最近の森の状態でなければ、年中行事はセシルでも事足りていたのだから。
「セシル」
アースが優しくセシルを呟く。
「お前は頑張っているよ。森がこんなに暴れるなんて六十年ぶりだし、お前の母様はそれこそ魔獣一匹倒せやしなかった。護り方は、それぞれなんだからね」
「お祖母様にも言われたことがあります」
領主としての護り方はそれぞれであると。アースの護り方もアノールの護り方も全く違う。そして、その背中を見て育っているはずのルディでも全く違う護り方をしている。
自分が出来る護り方。自分が使えるものを使いながら、護り抜けばそれでいいのだ。
それでも、セシルは思ってしまうのだ。「もっと」と望んでしまうのだ。全然護り切れていないと思ってしまうのだ。本当に欲張りにできているのかもしれない。
「わたしは、ディアトーラの人間の中で一番欲深く出来ているのでしょうね」
もっと、なんてディアトーラで望んではいけないはずなのに。
「お父様も同じなんだよ、セシル」
アースが一人称を変えた。
「私だって、もっと動けたらと思う」
「でも、それはお父様がご高齢だからでしょう? 既に頑張ってこられたのです。その功績だってあります。わたしは何もありません」
セシルのそれは、きっと誰よりも劣っているからに繋がる。アースの老いからくるそれとは違うのだ。
「いや、きっとこの家はお前がいないと回らないよ」
そう言うとアースが「よいしょ」と起き上がった。
「リディアスが船を造るらしい。マナ河を下り、海へ出る。陸路よりも早く荷物を運べる国が増えるんだ」
「それは、アノール様からもうかがっております」
即位記念は民に益をもたらすために。そして、それがリディアスの進む指針として示される。
「だが、海は必ず荒れる。荒れれば失われるものが増えるだろうな……。セシルは海を知っているだろう?」
たった一度、アースがリディアスの国立研究所でまだ働いている時に、まだイルイダ様が領主だった頃に、一度だけ、東の果てに広がる国アイアイアへ連れて行ってもらったことがある。
それは、リディアスの学校へ進学する直前だった。
海の向こうには、交流すらないような完全な異国があるのだ。
「青く常に波が寄せる音がして、とても暑くて、無限と思える水が広がっていて、それなのに、乾いた場所でした」
たくさんの水が傍にある。その水は塩辛く、常に波の音が聞こえてくる。決して静かではない。それなのに、なぜか穏やかな気持ちにさせられる。だからと言って、その海に飛び込みたい気持ちにはならなかった。未知の存在であることと同時に、畏れもあった。
その感覚は、ディアトーラにおいてのときわの森によく似ている。
距離を保つべきものだと思えたのだ。
だから、たくさんの矛盾を含んだ場所だと思った。それなのに、すべてを呑み込んでも、輝く光が様々な色を含み、青を放ち、目を眩ませるように瞳に飛び込んでくる。それは果てしなく綺麗だった。
『生き物をたくさん内包させながら、たくさんの生き物を呑み込む場所』
そんな風にアースが言った。きっと生まれる命と失われる命がその輝きを支えているのだろうと思った。
「色々なことを感じただろう? だけど、お前は綺麗だと言ったんだよ。セシルは色々なことを考えて悩んでいることが多いけれど、真っ直ぐに物事を表現できる強さがある。もし、海路が拓いても、セシルはその感じたことをアノールに伝えればいい。彼はその感じたことをちゃんと拾ってくれる男だからな」
アースがセシルに伝えた言葉は、進学を不安に思うセシルに向けたものと同じだった。もちろん、アノールの部分はないのだが、ときわの森へ入って、森の女神さまに咎められ、気落ちしていたセシルへの進学祝いだったのだろう。
なんだか気恥ずかしい。ほら、やっぱり『もっと』が必要じゃないか。
「お父様。そろそろお休みください。無理をなさってはお身体に障ります。そんな大変な時に、お亡くなりになることだけはしないでくださいね」
「はいはい。分かりましたよ」
声に力が戻ったセシルに鷹揚な微笑みを与えたアースは、娘の言うとおり目を瞑り、休むことにした。
本当は、生きているうちにルタという領主夫人の存在をリディアスとして認めさせたかったのだ。
全く不甲斐ないもんだ。
目を閉じて、アースは人知れない溜息をついた。














